4
ユウがテントから持ち出してきたのは水の入ったペットボトル、やかん。手馴れた様子で地面においたカセットコンロにセッティングし、湯を沸かしはじめる。
「ユウくん、何日くらいここにいるの?」
あー、とユウは面倒くさそうに頭をかいて、
「今日でちょうど一ヶ月」
絶句する。テントまで持ち込んでいるのだから数日は居座っているのだろうと思っていたが、さすがに一ヶ月は予想外だ。
「……もしかして、すごく大事になってるんじゃ」
「さあ。ここと外の時間の流れ、違ってたりするし。な、アイ」
同意を求めるユウの視線に、ふと違和を覚える。
それは視線の、ずれ。彼のまなざしは、由布実が見るアイの目に向かっている。アイの口元あたりだ。目をそらしている? 否、ユウのまなざしはまっすぐだ。まるでさもそこに目があるかのように——と思った瞬間、やかんがぼこりと音を立てた。
「ごはんとかはどうしてたの」
「ここにいると、喉も乾かないし腹も減らない。菓子も持ってきたけど、口が寂しいときに食べるくらい」
「そんな」
ユウと庭の草木が重なって見えて、息を飲む。そして自身もこの二時間、何かを食べたいとも飲みたいとも思わなかったことに思い当たった。
現実ではないところにある庭。けれど現実のすぐそばにある庭。触れることができる、つくりものでもない。でも不自然で、歪だ。
アイは地面に座ったまま口を挟むことなく、こちらをうかがっている。
「わたしやっぱり、まだ休まなくていい。探さないと」
日が暮れる頃には電車に乗らなくてはならない。両親には友人との日帰り旅行だと言ってある。予定はずらせない。時間を無駄にしてはいられない。
「——ないよ」
コンロの火を止めたユウが立ち上がる。
「見つかりっこない。もう探し尽くした」
「え?」
「だからおれは帰らない。ここに残る」
風が吹く。庭の香りがユウを音もなく絡めとる。やさしく彼を歓迎し、受け入れようとしている。
「だめだよ」
イメージがめぐる。箱庭。標本箱。宝箱。そう、この庭は宝箱だ。祖父が愛した日本水仙、由布実が育てた向日葵、祖母が慈しんだハーブたち。きっとユウが大切にしている植物もある。すべてが損なわれることも失われることもない、永遠が詰め込まれた箱。うつくしてなつかしくていとおしくてしあわせで、きっと誰も、この場所を否定し拒絶することなんてできやしない。けれど、
「だめ。かえらないと」
このままでは、彼も庭の一部になる。
引き止めなければと思った瞬間、声を放っていた。
「お、おばあちゃんならきっとそう言う!」
何かにひびが入る感覚。ああ、と観念したような息が漏れた。
「死人に口はないよ」
硝子玉のような目を眇めて、静かにユウが言った。
死人。そうだ。そんなことわかりきっていた。けれど、
「うん、……そうだね」
絞り出した言葉は苦くて仕方がなかった。
認めたくなかった。認められなかった。
五年前。祖母に最後に会った夏は、街の高校に進学した由布実がはじめて、祖母の庭を退屈だと思った夏だった。翌年、そして翌々年、由布実は祖母に「行けない」と告げ、そしてさらに次の年——二年前。夏を迎えることなく祖母は亡くなった。
八十過ぎとは思えないほどしっかりした足腰と伸びた背筋。真っ白な髪と顔に刻まれた皺は年相応だったが、色素の薄い瞳はいつだって先を見通すように澄み渡り、纏う空気には内側から淡い光をはなつような若々しさがあった。
そんな祖母が、死んだ。葬儀の記憶はなきに等しい。祖母の死を認められないまま月日がすぎた。受験勉強にかこつけて目をそらし、 大学生活に慣れるまでと自分に言い訳し、長々とした春休みを友人と遊んで終えて、新学期。新年度。予定の空いたゴールデンウィークを前に、ふと思い出したのが、いつかの夏に祖母が口にした何気ない言葉だった。
——あら。なら、五月にいらっしゃい。
——ユウちゃん、またアイに会いに来てあげてね。
深い意味などなかったのかも知れない。どのみちもう、真意を問うことは叶わない。
祖母はこの庭にいない。どこにもいない。けれど探してしまう。見出そうとしてしまう。なにかかけらが落ちていないかと。残されたもの託されたものが、あるのではないかと、
「今日、ユウくんに会って、」
こじつけでも思い込みでも、それでも。
「きみをここから連れ出す役割を、おばあちゃんに望まれてるんじゃないかなって思った。思いたかった」
おれだって、とユウが苦しげに吐き捨てる。
「あんたが来たのはおれを連れ出すためなんじゃって、藍子ばーちゃんに頼まれたんじゃないかって、思った」
庭の草花が風に揺れる。庭は、なにも語らず何も告げず、ただひどくやさしくここにある。うつろう現実から乖離して、祖母がありし日と変わらずに存在している。
「けど、違うんだろ。あんたもわからないんだろ」
今日出会ったばかりの、由布実にとってまだ何者でもない少年。けれど由布実は今きっと、彼と同じ表情をしている。くしゃくしゃで、泣き出しそうで、けれども泣けない、置いてけぼりの、こども。
「どうして、しんじゃったんだよ」
死者は語らない。過ぎた時は戻らない。生者の想像は、己の願望を反映した都合の良い妄想でしかない。
「ユウちゃん」
ひんやりとした手に、手をとられる。アイだった。そっと手を引かれ、一歩二歩と進む。
「ユウくん」
アイは空いた手でユウの手をとる。
ぎゅっと手をにぎられる。胸の奥底でさまよっていた凝り固まった感情が、暗い闇のなかから光明をめざすかのように、てのひらへと向かっていく。
アイのくちびるから、
「かなしいね」
ぽたりと地面に落ちたつぶやきは、
「さびしいね」
むきだしの、そのままの。
由布実の、ユウの、言葉だった。
うん、とうなずいたのはどちらだったか。てのひらにたどりついた感情と体温がとけあって、ひりひりとした痛みが静かにひろがる。かなしい。さびしい。そんな単純な感情を見失うほどに祖母の死は突然だった。突然の喪失だった。——由布実にとっても。おそらく、ユウにとっても。
由布実はそっと手を伸ばし、ユウの指先に触れてみる。まだ由布実のそれよりも少し小さい、汗ばんだ手をにぎる。にぎりかえされる。
繋がった点。形成される三角。或いは円環。捉えどころのないもの、言葉にできないものがめぐる感覚とともに、ぶわりとこみあげるものがあった。景色が滲み、揺らぐ。けれどそれは視界を覆う水の膜のせいだけではなく——
「アイ?」
異変を感じ取ったのだろう、ユウが不安げにアイを呼ぶ。瞬間、三人のあいだを循環していた漠然としたものが、身体から抜け出て庭中に広がった。
目まぐるしく浮かんでは切り替わる映像。音。香り。
庭の様相が千変万化する。まぼろしがたちあらわれては消える。土がむき出しの寂れた土地に立っている男女、抱えられた赤子。花を植える女と幼い少女、それを見守る男。成長していく少女が祖母だと気がつくまでにさほどの時間はかからなかった。写真でしか見たことのない祖父が水仙を指差し笑う。二人の少年が庭を転げまわる。いつだって中心には祖母がいる。
ああ、と由布実は息をつく。これは、アイの記憶。アイの意識。
アイの中心にはいつだって祖母がいる。この土地、この庭とともに生まれ育ってきたひと。最初霞んで散漫だった映像は、祖母の成長とともに鮮明になって、確立した視点を獲得していった。
「アイの本体は、おばあちゃん?」
アイは肯定も否定もせず曖昧に笑う。
アイが今日口にした言葉は思えば、どれも最低限のつたないものばかり。そして今やそれも失われつつあるのだと直感する。——祖母がいないから。
今朝の。出会い頭のアイの言葉を反芻する。
——おかえり、ユウちゃん。
——まってたよ。
庭をかけめぐる幻影は走馬灯のよう。春の庭で幼い少年が屈託無く笑う。夏の庭で、いつかの由布実が向日葵に水をやっている。世界が揺れる、揺らぐ。
「どうして今なの。もう、二年も経ってるのに」
愕然とする由布実にこたえたのはユウだった。
「違うよ。経ってない」
「どういうこと」
「アイはあんたを待ってて、引き込んだんだ」
意味が理解できずかたまる由布実を差し置いて、ユウはアイに視線をうつした。
「藍子ばーちゃんの代わりが欲しかった?」
ふるふるとアイが首を横にふる。
「……アイも、いなくなっちゃうの」
震えるユウの声に、アイは再度首を横に振る。けれどもその姿は徐々に薄らぎ、光の粒子になっていく。アイだけではない。庭の水仙が、向日葵が、ハーブたちが。すべて、ひかりになって。由布実とユウに収束する。世界が白む。
「やだ。アイ、どこにいくの。いかないで」
繋ぎとめようと、アイの手を強くにぎる。
「ユウちゃん、ユウくん」
ふわりと、アイが笑う。
たまゆら鮮明になった彼女の顔。認識する。それは——祖母の、祖父の、父の、おそらくは叔父の。そして由布実とユウの。この庭に記憶されたすべてのひとのものだった。
「アイ!」
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