3
生垣の向こうには現実と変わらない景色が広がっている。見下ろす盆地、小指の爪よりも小さな家々。田畑と緑なびかせる山々に、澄み渡る青い空。
大きく伸びをし、腕時計をみると十二時前。庭を探索し二時間ほど経っていた。主に地面に何か落ちていないかを見ているのだが、めぼしいものはなにもない。アイの本体そのものが何かわからずヒントすらない現状、圧倒的に由布実の分の悪い。
再度花壇のそばに膝をつき草の根を分けると、バッタと対面しのけぞった。跳ねてくれるなと願いながらそっと横に一歩移動し息を吐く。先ほど、鼻先をかすめた蝶々に驚き尻もちをついてしまったばかりだ。
幼い頃は虫かごいっぱいにバッタを詰め込み、カエルやカナヘビを追いかけ回していたのに、今ではこのざま。そしてこんなに戦々恐々としつつも探し続けているのに、がらくたひとつ見つからない。
虫こそいるがこの庭は綺麗すぎる。整いすぎている。
雨風に支柱を折られたり、獣に荒らされたりといった痕跡はない。草花や虫を生かすために必要なもの以外はすべて排除されている印象だ。現実からの干渉を受けず、この庭だけで完結している。
幼い頃はぴんときていなかったが、今ならわかる。——この空間の創造と幻出が、祖母がアイを「かみさま」と呼んだ所以なのだろう、と。
現実に沿いながらも現実の季節や時間の流れにとらわれない庭。草花の成長はどうなっているのだろう。もしかすると、枯れることすらないのかもしれない。
箱庭。標本箱。宝箱。様々なイメージが浮かんでは消えていく。
(以前は何にも気にせず遊んでたんだけど)
そもそも幼い頃は、ここまで現実と乖離した場所でなかったし、境界も曖昧だった。日本水仙が咲いていればかみさまの庭。その程度の認識だったのだ。今ほど異界じみた場所ではなかった。原因もわからず、なすすべもない。アイの本体も見つからない。
うなだれると、なにかが頬をなでた。ぽっこりとした黄色の中央部分を白い花びらが囲む、小ぶりのマーガレットのような花。これには見覚えがある。ハルジオン——否、
「なんだっけ……」
「カモミール」
背後かかけられた声は、ユウのもの。昼寝でもしていたのだろうか、眠たげな目をこすり、
「こっちがレモンバームであっちがレモングラス」
隣に屈むと、産毛をまとった緑の葉を指でつまんで匂いをかぐ。真似をするとどちらも名前通りレモンの香りがする。あえて言うなら、
「バームのほうが少し、すっとし香りだよね。なつかしい。わたしも小さい頃摘んだよ」
へえ、とユウは目をほそめる。おそらく本人は気づいていない、意識の外にあるあわい笑みだった。
「あれはわかる?」
庭の一角——ひときわ香り立つ、紫の花の群れをユウが指差す。細長い茎の頂点、いくつもの小花をまとわった部分がメトロノームのように風に揺れている。
「さすがにわかるよ。ラベンダーでしょ」
「せいかい」
見くびりすぎではと由布実は内心むくれたが、植物を語るユウの表情が徐々に和らぐのを見ては、何も口を挟めなかった。弟がいたらこんな感じなのかもしれない、と考える。
由布実はひとりっ子だ。歳の近い親戚もおらず——そもそも親族のほとんどが集まっているこの地域で、祖母の家しか場所を知らない。
母曰く。父が親戚と距離を置く理由のひとつは、兄である叔父と折り合いが悪いから、らしい。由布実が夏に祖母を訪ねることすら、父は良い顔をしなかった。
「アーチの白い花は薔薇だよね?」
「あれは、木香薔薇。黄色のも向こうにある」
指し示した先には、淡い黄色の花がもこもこと咲いている。やわらかげに重なり合う花弁は、まるでドレスのようだ。華美ではないが素朴で愛らしい。
「好きなんだね、植物」
すごいね、と素直につぶやくと、ユウはむっとして、
「あんたが知らなすぎるだけだよ」
「覚えてるのもあるよ。ええと……ほらあれ、『パセリ、セージ、ローズマリーアンドタイム』」
思わず歌う調子になってしまい赤面する。ユウはきょとんとしたかと思うと、軽く吹き出して、
「『アンド』は植物の名前じゃないから」
「わかってる! 馬鹿にしすぎじゃない?」
「だってあんた、すっごい馬鹿っぽい」
「小学生に馬鹿にされたくない」
「……おれ、中二なんだけど」
「うそ!」
由布実の身長は百五十九センチ。ユウの頭のてっぺんは、由布実の鼻先あたりにある。百四十センチ台なのは確実だ。中学生男子の平均身長は知らないが、背の高い方ではないだろう。
「ご、ごめんね?」
顔色を伺うと、ユウは不機嫌に目を細め、
「信じらんねえ。無神経。でりかしーがない」
「ごめん、ごめんなさい!」
平身低頭する由布実に「ま、背が低いも声が高いのもそのとおりだし」とユウはこたえ立ち上がる。
無機質な響き。熱くもなければ冷たくもない、やわらかくもかたくもない、生気を削ぎ落としたような声の残滓。怒りではなく、限りない諦観に、似た。
人を馬鹿にしたり試すような真似をしたり、近づいてきたり、離れたり。不安定で気まぐれだ。
由布実が彼の年齢だったときはどうだっただろう。こどもだったと笑い飛ばすには、記憶はまだまだ生々しい。世界の終焉と再誕を繰り返すような感情の起伏と地に足ついているかわからない不安と、ひとりでいたいくせに誰かといたい矛盾と。いまもまだそれらを抱え、ときに引きずって生きている自覚がある。
彼もその渦中にあるのかもしれないし、由布実が考えるよりも根深い理由があるのかも知れない。
「そういえば、アイは?」
「テントで寝てる。あいつ、最近よく寝るんだ。あとよくふらっといなくなる——って、アイ」
「ユウくん、ユウちゃん」
ひょっこりと顔を出したかみさまはなぜか白いワンピースのうえにカーディガンを羽織っていた。思わず突っ込みそうになったが、そもそも彼女の存在とこの庭自体が不思議の塊なのだから、考えるだけ無駄なのかも知れないと思い直す。
けれどなんだか釈然とせず、立ち上がった由布実はアイの頬を軽くつまんでひっぱる。指先にはたしかに、人肌の感触があった。
アイの目線の高さは由布実のそれと同じだ。顔を、捉えようとする。わからない。見えない。涙目になっていることは認識している。アイはのっぺらぼうではない。不気味さも特に感じない。なのに。どうして見えないことがこんなにも気にかかるのだろう。以前は、彼女の顔が見えていないことにすら気づいていなかった気がする。指をはなす。
「アイ」
ユウは頰をさするアイに声をかけると、ユウミをちらと見やった。
「あんたも少しは休めば。お茶くらい淹れてやるよ」
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