2
駅前に一台だけ待機していたタクシーを拾う。まばたきの間にアイはちゃっかりと後部座席に腰掛けていて、由布実は開いたドアの前で固まった。運転手が首をかしげる。
「お嬢ちゃん、どうかしたかい」
「いえ、なんでも。すみません」
車に乗り込み住所を告げると、運転手は「ああ、坂上さんとこね」と鷹揚に頷いた。ちなみに「坂上」は姓ではなく家の立地に由来する屋号だ。
「坂上さんのとこのお孫さんかい?」
「そうです」
「あそこのおばあちゃん——」
言葉はそこで途切れ、わずかな沈黙の後に「今日はどこかに泊まってくのかい?」と尋ねられる。「日帰りです」と返すと「そうかい」と運転手はハンドブレーキを上げ、アクセルを踏んだ。
ゆるやかに発進したタクシーは、人家が詰め込まれた盆地を抜けひたすら山道を登る。直線的な長い坂があわられたのは、曲がりくねった道に酔いはじめ、みぞおちが重くなってきたころだった。
坂の上。標高おおよそ千メートル。過疎地域の過疎地区にある、小さな家と広い庭。そこが由布実の目指す場所だった。
高地の風は夏であってもときに肌寒い。脱いでいたパーカーを羽織り支払いを済ませ降車すると、「帰りにでも呼んでくれ」と運転手が名刺を手渡す。遠ざかっていくタクシーを見送り、呼吸を整えた。車酔いでふらふらしている由布実を置いて、アイは軽やかなステップで庭へと駆けていく。
由布実もゆっくり彼女を追い。
立ち尽くす。車酔いに勝るめまいに襲われる。
なにこれ、と思わず声が漏れた。
運転手にはこの家と庭がどう見えていたのだろう。由布実には生垣の奥がぼやけて見える。アイと同じ、見ているのに見えないのだ。こんなことは今まで一度もなかった。
唯一、小ぶりの白い薔薇がたわわにまとわった入り口のアーチだけが鮮明だ。由布実がはじめてみる、この庭の薔薇。「五月は薔薇の季節よ」と祖母が教えてくれたのを思い出す。
「アイ!」
聞き覚えのない声がアイを呼ぶ。アーチの向こうから手を振った人影は、祖母ではない。小柄な少年である。歩み寄った由布実に顔を強張らせた少年は、大きな瞳に警戒心をありありと浮かべていた。庭の外に出てくる気はなさそうで、ぼやけた景色のなかで少年だけがくっきりとしている。
「……あんただれ」
まだ変声期を迎えていない高い声から判ずるに、小学生だろうか。身にまとうTシャツとズボンはだぼついていて、身体の線が捉えづらい。
「あんた、だれなんだよ」
再び声をかけられ、あわてて
「ええと、わたしはこの家のおばあちゃんの孫」
「は? 孫?
「そう、だよ」
「臼井由布実? ほんとに? あんたが?」
少年の口から飛び出した自分の名前に、由布実は目を瞬かせる。
「なんで知ってるの?」
少年は失言だったとばかりに押し黙り、由布実を睨みつける。重苦しい沈黙に耐えかねて「きみの名前は?」と問うと、たっぷり間をおいて「ユウ」と、一言。
由布実とユウ。なるほど、
「ユウ仲間だね」
視線の刺々しさが増したので、一歩後退する。
「おばあちゃんのこと、知ってるの?」
「夏だけしか来ないあんたよりは知ってるよ」
なんなのきみは、と吐き出したいのを堪え、天を仰ぐ。落ち着け自分。大の大人がこども相手に苛々してはいけない——といっても成人してまだ一年しか経っていないのだが——ここでキレたら負けである。
「アイ、早くこっちに来い」
ユウはアイを手招くと、由布実には顎をしゃくって、
「あんたも、とりあえず入れば」
入ればってここはわたしの祖母の庭なのですが。飛び出しかけた言葉を飲み込みアーチをくぐる。ふわりと薔薇のかおりが濃くなった瞬間、視界が鮮明になる。
(おばあちゃんの、)
いつも緑にあふれていた庭——
(じゃない)
この場所のことを、どう説明すればよいのだろう。
祖母の庭とそっくりに、表裏一体に存在するかみさまの庭。アイの領域。
現実から空気のひだ一枚向こう側にあって、一歩進んだ先、一呼吸のあいだに音も気配もなくなく顕現する異界。
以前は祖母の庭とほとんど変わらぬ色をしていて、迷い込んでも気がつかないほどだった。現実と非現実、唯一の相違点は純白の日本水仙——祖母曰く「おじいちゃんが大好きだった花」が、片隅にいつでも咲いていることだけだ。
水仙は今も、楚々としたすがたを風に揺らしている。
けれど、それ以上に目に留まったのは。
——パセリ、セージ、ローズマリーアンドタイム。
口ずさむ祖母の声と指差し教えられた植物のかたちと名が、目の前の景色と重なる。祖母の庭は緑の庭。華美な大輪の花が競い合う場所でなく、生命力あふれる小さな草花が伸びやかに育つ場所。草の青い匂いに混ざるのは、ほろりと苦くもさわやかな芳香。淡い緑から赤紫のグラーデーションが美しいオレガノのものだ。そこにやや甘みを足した香をくゆらせるのは、白いマジョラム。青みがかった藤色の小さな花をいくつも粧うカラミンサ。他にも、黄色に赤と鮮やかな花色が緑の合間にのぞく。そして極め付けは、煉瓦を敷いた通路の果てに堂々と咲き誇る一輪の向日葵。
——これは、由布実のよく知る真夏の庭だった。
今までにない現実との大きなズレと、現実を覆い隠すような非現実のあらわれ方に、思わず身震いをする。
へえ、と由布実の見つめる景色に目をやり、ユウがつぶやいた。
「なにが『へえ』なの?」
「べつに。ってか、あんたいったい何しに来たの」
「別になにをしにきたわけでもないんだけど……」
視線を泳がせると、白いガーデンテーブルが目に留まる。その横に構えられているのは、もしや、
「テント!」
思わず声をあげ詰め寄ると、ユウが「げ」と呻いた。一人用の小さなテントだが、ちらと入り口から覗いているのは寝袋、傍らに置かれているのはカセットコンロだ。
「きみ、なんなの。秘密基地ごっこ? アウトドア好き? それとももしかして——家出?」
瞬間、目をそらされる。これは家出少年確定ではなかろうか。
「ねえ、いつからなの。家はどこ? 親御さんは?」
「うるっさいな」
ぴりと空気が震えた。大きな瞳に落ちる影。かたい表情と威嚇するまなざし。絞り出された声はいっそうかたくなさを増していた。
「あんたには関係ないだろ」
確かにユウからすれば、出会ったばかりの人間にどうこう言われる筋合いはないのかもしれない。けれど。
「そうだけど……いや、でも。でも!」
突然語調を強めた由布実に、ユウが肩を跳ねさせる。由布実は顔をしかめ、言葉を探して探して、結局。
「しんぱいになる!」
馬鹿みたいに当たり前な一言を吐き出す。ユウは一瞬驚いた顔をして——盛大に吹き出した。
「散々考えて『心配』って! 語彙力なさ過ぎだろ。まじ年上だと思えねえ。なんなのほんと。あはははは」
膝を叩いて笑う少年に、今度は由布実が面食らう。
彼は本当におかしくて笑っているのだろうか。由布実の言葉は確かにつたなかったが、かけらも通じなかったのだろうか。大袈裟に笑って、一笑に付して、発言自体を消し去ろうとしてはいまいか。苛立ちのなかの、冷静な確信。口を開く。
「ほんとに心配してるよ」
繰り返すと、ユウはすっと笑うのをやめ、目を瞬かさせた。
「会ったばっかりの人間に言われても信用できないと思うけど、ここ夜は真っ暗だし、獣は出るし、昼だってひとはいないし。心配、するよ。初対面だって」
「そんなに心配心配いうならさ、」
由布実を見上げる瞳孔が、ひとつの生き物のように動く。拡張する。深い色が由布実を捕らえる。
「おれのお願いきいて? そしたらここを出てもいい」
「なにそれ」
一方的な条件提示に顔を引きつらせると「無理ならいいけど」とユウは冷ややかな笑みを浮かべた。
由布実の「心配」を、彼は試し利用しようとしている。苛立ちと、差し出したものを地面に打ち捨てられたような悔しさ惨めさが競り上がる。——といっても、由布実は実際彼に対して何も差し出せていないわけで。ならば、
「いいよ。何をすればいいの?」
予想外の返事だったのだろう、ユウの瞳がわずかに揺れる。取り繕うように咳払いをひとつして、彼は物言わず立っていたアイに目を向けた。
「おれがここから出ないのは、アイがここにいるからだよ。アイの本体を見つけ出してくれたら、おれはそれを持ってここをでる。どう?」
「本体?」
「なんていうか、御神体みたいなもの」
御神体。
思い浮かぶのは神社のソレだ。たしか近所の祭でちらとみたそれは、鏡のかたちをしていた。けれどそんなものをこの庭では見たことがないし、祠や社のようなものがあるはずもない。
ヒントを求めアイを見るも、微苦笑を浮かべるだけだ。彼女はこんなに物静かで希薄な存在だっただろうか。以前との差異。違和感。といえば、
「御神体がなくても、アイ、庭の外に出られるじゃない」
「ずっと外にはいられないよ。で、どうすんの。探してくれんの?」
年下の少年の手のひらで転がされるのは腹が立つ。けれどここで引き下がるのも癪であったし、なによりやはり、ここに彼一人置いていくのは心配だ。ぶわりと湧きあがった感情は使命感に近かった。——このタイミングで彼に出会ったのは、単なる偶然ではなく、彼を連れ出す「役割」を望まれているのではないか、と。
「わかった」
「きまりな。おれはテントでだらだらしてるから、まーがんばって。アイ、行こう」
ひらひらと手を振って、ユウはアイとともにテントに向かっていく。
一人取り残された由布実は、ローズマリーのかたわらに膝をつく。息を吸うと、薄荷や樟脳に似た古めかしくも爽快感のある匂いにつつまれる。茎を折らないようにそっとかき分けるも、そこにあるのは地面だけ。御神体はそこらに落ちているわけではないのだろうか。埋められているとしたらお手上げだ。
(でも、探さないと)
深呼吸し、湿った土に指を這わせ目を伏せる。土のふくよかさ、水のつめたさ。五感すべてがはたらいて、見るもの触れるものすべてを教えてくれる。こんなにも現実じみているのに、ここはまことの現実ではない。
(きっと見つけられる。だって私はたぶん、そのためにきたんだ)
まぶたを持ち上げると、あたりのまばゆさに目がくらんだ。白んだ世界に祖母の姿を見た気がしたけれどそれはまぼろしで。草木が風にさんざめく音に、そうかまだ蝉の季節ではないのだとぽつりと思った。
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