終話
夏休み明けの学校は、まだ少し浮ついた空気と、久しぶりに友だちに会う気恥ずかしさでざわざわしていた。
今日は始業式とホームルームしかないし、宿題の提出は明日から始まるそれぞれの授業のときだから、夏休み気分が抜けないのもしかたない。
ましてや始業式から図書室にくる生徒なんていない。
その誰もいない図書室で、翔太はあの竜の笛を構えていた。むろんトオルと村井もいる。
無言で吹き口にあてた唇から息を吹き込む。ふうぅ、ふうぅと吹き込んだ息は笛の先端にとどく前に割れ目から抜けてしまう。
しばらく吹き続けたが、大きな竜はもちろん、ちび竜も現れはしなかった。
「もう竜じゃなくなって、ただのお水になっちゃったのかなあ」
「まあ、あれだけ消える消えるって言ってたのに消えてなかったら、そっちの方が驚くだろ」
トオルの憎まれ口に、村井は唇をとがらせた。
合宿から帰ると、父親は宣言していたとおりに日本を旅立っていった。
あのとき、逃げだしたことをあやまって、でもあんな風に来ないでほしかったとちゃんと言おうとはした。
しかし父親は「まあまあ、もういいじゃないか」と手をひらひらさせてろくに聞いてくれなかったのだ。
そうされると翔太のほうもとたんに勢いがなくなって、まだちゃんと向き合ってはいない。
そんな感じで、毎日の生活はそれまでとたいして変わってないけれど、二か月前と比べるとちょっぴりだけ大人になったこともある。
声変りの真っ最中で、変にしわがれた声しか出なくなったのだ。
中身もはやく大人にならなきゃと、翔太は笛に息を吹き込みながら考える。
そちらの方は、身体みたいに自然にはいかないらしい。またまだつばさはやわらかいままだ。
竜の背中に乗るなんてすごい体験したはずなのに、相変わらず、「別に」と言ってすぐに気持ちをごまかそうとするクセは直っていない。
それでも。
ほんの少しだけ。ちょっぴりだけ。自分から意見を言えるようになった気がする。まだ緊張はするけれど。
絵本の引きこもりの竜だって、空を舞う楽しさを忘れられないできっとまた顔を出すだろう。急ぐことはないんだ。
「やっぱり出てこないね。あーあ、かわいかったのになあ、ちび竜」
村井は残念そうに首を振って、ポニーテールの髪をゆらした。
実は、夏休みの間にも何度か試してはみたのだ。竜が出てこないことに少しばかりガッカリはしたけど、納得はした。
「ねえねえ。あたしたちが必死になって祈ったら、また戻ってこないかなあ。ちびの方でいいんだけど」
トオルがフンと鼻を鳴らして答えた。
「きれいな水がないと村人全員死んじゃいますってくらいの必死さがおまえにあるのかよ」
「ああ、まあそれを言われちゃうとなあ」
くやしそうに言って、村井は大げさに肩をすくめてみせた。
「ねえ、あの竜って海の水にもなるんでしょう?」
「うん。雲にもなるって言ってたよね」
「そうかあ。そういえば青木部長から聞いたんだけど、人体の半分以上は水分らしいから、あたしの中にも竜がいるってことだよね」
体のあちことをパタパタたたいてみせる村井は、あのちび竜がしっぽをふりたてているみたいで、翔太はぷっと吹きだして口から笛を外した。
なにがおかしいのよと、村井はまた唇をとがらせる。
「そうだよなあ。村井の身体の中でクルクル踊ってるからな、あの竜。おまえ、あやつられてんじゃね?」
トオルがにやにや笑いながら言ったが、村井はべぇと舌を出して、あんたの中にもねと指を振りたてた。
もう竜は現れない。人の祈りから解き放たれて、いまごろは雲になって、雨になって、地面に潜って、海に溶けて、雲になって。
そうやって、この星のどこかに――いやどこにでもいるのだ。
そう思うと、最後に聞いた竜の鳴き声が耳の奥によみがえる。
豊かな、天も地も潤すような声。
同時に、おじいちゃんの、成瀬の、あの少女の笛の音も、翔太の胸の中に響いていた。
「つまりさ。竜の正体は水なんだから、どこにでもいるってことだよ」
「それでもまたちび竜に会いたいんだもん。かわいかったし。神秘の存在だし」
「宇宙人だろ」
「それでも竜だよ」
二人の言い争いを横に、翔太は青木部長から聞いた話を思い返していた。
合宿から帰ってきた翌日、塾の夏期講習に行く前に説明しろと、朝からコンビニでジュースを飲みながら聞いたことだ。
地球上の水の96.5パーセントは海水。つまりぼくたちが使える水ってほんのちょっぴりで、しかもそれが全部が飲めるわけじゃないってこと。
あの洞穴から流れ出る水だって、昔は硫黄が混じった温泉だったという。飲むことも畑にまくこともできなかったのだと。
だから昔の人は竜に祈ったのだ。人の手ではどうしようもないことを、どうかお願いしますって。
「ねえ、またぼんやりしちゃって。なに考えてるの?」
村井がまゆの間にしわを作っていた。
「別に……いや、ごめん。あっ、青木部長は信じられないけど答えは保留にしておくって言ってたよ」
「ふぅん、まあ先輩らしいよね。それだけ?」
「ええっと、その……大事にしたいなって思った」
「な、なにをっ?」
村井の顔から不機嫌そうな表情が水のようにさっと流れて、今度はこころなしか赤くなる。
ころころと表情が変わるのが、おかしくて、まぶしい。
村井って前からこんなに表情豊かだったかな? と考えて、そういえば学校に神楽が来るまではほとんどしゃべったこともなかったんだと思い直す。
一学期までは苦手な女子だと思っていたのに、今はトオルの次に親しい友人だなんて。これもまた不思議だった。
知らなかっただけなんだ。
知らないことが、なんてたくさんあるんだろう!
「水だよ、水。なくちゃ生きていけないでしょ」
「ああ、うん、水ね。うん大事だよね」
村井はゴホンとせき払いをしてから、また表情を変えてまじめに聞いた。
「ねえ、松本は大人になったら笛を吹く人になるの?」
「ならないよ」
「ちぇっ、じいちゃん、期待してるぞ。神楽保存会に入らないかなって」
「ぼくの笛はこれだけだもん」
翔太は笛を軽くふってみせた。
この笛は割れてしまってもう音は出せない。でもおじいちゃんの音も竜の声もずっと忘れない。
雨の降る日も川を見ても海を見ても、きっと思い出す。
「それにさ、大人になったらなんて、まだぜんぜんわかんないよ」
「そっか。大人になるのなんて、まだ何年も先だもんね」
「想像つかねえよなあ」
そうか、そうだよねとうなずき合った三人は、そろって窓の外に目をやった。
九月の空はからりと晴れて、真っ白な雲がぽつんと浮かんでいた。
まるで、くるくると舞い踊っていたちび竜のように、ふわふわと形を変える雲は、やがて空の向こうへと流れていった。
竜の笛ははるかに 守分結 @mori_yuu
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