バンザイの崖の下
南 伽耶子
バンザイクリフ
私と夫と義兄がサイパン島に行ったのは結婚四年目の夏だった。当時バブルは破綻していたが、景気が悪化しているという実感は乏しく、庶民はまだのんびりと好景気の残滓を享受している、そんな時代だった。
薄給の私とは違い、経済的にも労働時間的にも余裕のある夫とその兄は、ダイビング免許を取りたいと思ったらしく、どうせ取るならとサイパン島観光付きのツアーを予約した。私はそれに便乗する形で必死に有休を取得した。
サイパン島までは成田から直行便で約3時間。私の東北の実家に行くより近い。ちょうどこの年は太平洋戦争終戦50周年で、サイパン・グアムやペリリュー島がマスコミにとりあげられる機会も多かった。
ミリオタの私たち家族は、その地域の悲惨な歴史は充分に知っていた。だが過去の歴史はどうあれ現在は美しい海、青い空のマリンリゾートに免税のお買い物で観光客を誘致している。私たちものんびり楽しむ事にした。
飛行機が着陸するためぐっと高度を落として旋回すると、サンゴ礁で出来た真っ白い海岸と透き通る海に加えて、上空からでもわかる、濃い緑のジャングルの中の真っ赤な花の群生が見えた。それは空港について一歩建物から出るともう、観光客を歓迎するように、そこかしこに房になって咲いていた。ちょうどソメイヨシノの樹くらいの高さの、曲がりくねった枝を盛んに伸ばす熱帯の樹。その枝にこんもりと盛り上がって咲き乱れる真赤な血の色の花。ハワイの写真でよく見るブーゲンビリアとは違う生々しい肉感に溢れた佇まいだ。
「これ、何ていう花だろうね」
「ちょっと待ってて今調べるから」
ガイド本をぺらぺらとめくった義兄はたちまち嬉しそうな声を上げた。
「これは南洋桜っていうんだよ。この辺の島に元々生えている樹なんだけど、入植した日本人が桜に見立てて故郷を懐かしんでお花見をしたんだそうだ。だから至る所に植えられたんだってさ。別名サイパン桜」
こんな派手でエネルギッシュな樹の赤い花、とても桜に見立てられないけどなあ。第一次世界大戦後から国連の委任統治領マリアナ連邦の首都として日本人が生活していた島がサイパンである。知識として島の歴史と悲劇を知ってはいたが、船で何日もかけて南国の島に渡った当時の人達の望郷の執念を、私たちはまだ甘く見ていた。
マリアナ連邦最大の島であるサイパン島には連邦の首都ススペ、そして最大の繁華街であるガラパンという地区がある。大抵の免税店やホテル、クラブや飲食店はこのガラパンに集中しているが、私たち三人の泊まるホテルは都市部から外れたずっと南、人の気配のないプライベートビーチと間近に迫った密林の境界にあった。
ホテルガイドで見たその海岸線は、後ろの崖の位置感といい大きな岩の位置といい、ドキュメンタリーの戦争番組で繰り返し映る、玉砕した日本兵が死屍累々と重なって腐乱している海岸そのものだった。
とはいえビーチを渡る風は気持ちよく、ゆったりと打ち寄せる波は穏やか潮騒も心地良く、私たちは歴史はどうあれ今は楽しもうという気になっていた。
次の日の早朝からダイビングのプログラムが組まれているので、私たち3人は荷物を置いて一休みすると、さっそく島内観光に出かける事にした。
ミネラルウォーターのペットボトルと日本から持ってきたお菓子と煙草、酒の小瓶。それらをかばんに入れて、私たちはレンタカーを発進した。
まず向かったのはホテル近くの米軍上陸ポイントである。
ホテルのプライべートビーチからずっと続く白い海岸が、途中岩場と海にせり出したつる性の植物で分断され、ぐるりと岩場を回った先が入り江になっている上陸ポイントの浜辺だ。
錆びてうち捨てられ、車体もボロボロになりながら半分砂に埋もれた日本軍の戦車が一台。潮風の中に鎮座している。砲塔は海を向いたまま、上部ハッチは砲弾が直撃した跡を生々しく残し、鉄に大穴をあけたまま、ブンブン飛び交う南国の虫に囲まれて朽ちていた。中の乗員は間違いなく肉片となって中で四散しただろう。
ガイドブックには戦車の中には気を付けていれば入れますと書いてあったが、私たちは薄い装甲に囲まれた狭い空間で、中で死んだであろう兵士たちと呼吸を一緒にすることは避けた。
戦車の奥には粗悪なコンクリートで建てられた背の低い建物。いくつもの小さな窓が海に向かって開いている。上陸する米軍を迎え撃つために日本軍が建てたトーチカである。
「せっかくだから入ってみようよ。ガイドにも入れるって書いてあるし」
人一倍好奇心旺盛な夫が言いだし、ずんずん先に立って歩いた。私と義兄は慌ててついて行った。
治安の為か窓やドアはとっくに撤去されたトーチカは床に水が溜まり、入り込んだ不届き者が置いて行ったと見える煙草の吸殻や食べ物の空き容器、丸めたティッシュ等のごみが散乱していた。
壁には夜の星空のように銃弾による穴が開き、薄暗いトーチカ内に日差しが何本もの線になって差し込んでいた。まるでプラネタリウムだ。
とはいえ長居はしたくなかった。トーチカの壁や大穴だらけの天井、所かまわず黒ずんだシミが広がり、すえた臭いが鼻を突いた。ハエやアブが飛び交う音もブンブンとひっきりなしだ。さすがの夫も黙りこくっていた。
私たち三人はトーチカの外の砂にお酒とたばこ、線香を備えて車に引き返した。浜風が強くなってきたせいか、線香と煙草に点火するマッチはなかなか火が付かなかった。
サイパン守備隊の司令部が自決したラストコマンド・ポストを通り、私たちは島の最北端。バンザイクリフ、スーサイドクリフと呼ばれている一番高い崖の上まで車を走らせた。ここは青い海に張り出したごつごつした岩場で、眼下の海まで80メートル。戦争末期、米軍の機銃掃射や火炎放射器に追われ、この岸壁の洞窟に追い詰められた住民たちに、容赦ない手りゅう弾や銃撃が浴びせられ、絶望した住民たちは次々と80メートル下の海に身を投げた。途中の岩に体をぶつけ、水面に叩きつけられ、崖下の海面は真っ赤に染まったという。
まるで南洋桜の花の色のように。
車で岸壁の駐車場まで上がると、崖には安全のためぐるりと柵が設けられており、その手前に数多くの慰霊碑が建っていた。各県人会、職業団体、韓国やマリアナの国の慰霊塔。私たちは一つ一つに手を合わせ黙祷しながら崖の先まで進んだ。もちろんそこは柵で行き止まりになっている。
ふとザッという音がした。
見ると夫がまっしぐらに柵に向かって歩き出している。写真でも撮りたいのかなと思っていたら、デジカメを構える気配もない。そして何のためらいもなく柵を乗り越え、崖に向かってずんずん歩いていく。
「何やってるんだ!」
「ちょっと止まってよ!」
私と義兄は、また夫の好奇心が勝ってしまったのかな。ぎりぎりまで近寄ってみたいのかな、と思っていたが、それは間違いだとすぐ気づいた。
夫の顔はいつもニコニコしている普段と別人だった。全く見たことのない表情だった。顔色は土気色で、眼がすわり遥か一点を見詰めていた。視線の先は大海原だ。足元など少しも気にしていない。
既に柵を乗り越え崖の突端はすぐそこに迫っている。足を滑らせたら80メートル下に落下する。
私と義兄は悲鳴を上げて夫の腰にしがみついた。義兄は横から夫に抱き着いて足を踏ん張り、私は夫の腰に巻いたウエストポーチを両手でつかんで思い切り引っ張った。だが大人二人を軽々と引きずって、夫は崖の突端まで歩いていく。無表情で、まるでロボットのように。
私たちの悲鳴を聞いて、三人の男性が走ってきた。そして外国語で何か叫びながら夫の肩、腹、腰をそれぞれつかみ、柔道のようにぐるりと体を回転させた。そしてその勢いで夫の体を柵の内側に放り投げた。言葉の感じから、どうも韓国系の方々のようだった。
その時スーッと夫の表情が変り、きょとんとした子供のような顔に戻った。顔色も炎天下らしい上気した赤い血色になった。
「あれ、何やってるの? 俺なんで転んだの?」
義兄が夫を張り飛ばし、馬鹿野郎死にたいのかと怒鳴った。夫はきょとんとしていた。
助けてくれた韓国の人たちは兵役を終えたばかりの若い人たちだった。英語でよかったよかったと言ってくれた。
韓国の慰霊塔にお参りに来たら私たちが悲鳴をあげながら、すごい勢いで崖に向かって歩く夫にしがみついているのを見たのだそうだ。そして歩く夫の周りを白いシャツにもんぺをはいた血まみれの女たちが取り囲み、夫の手を引き肩を押さえて崖下に連れて行こうとしていたのだという。
三人はゾーっとした。私と義兄にはそんな女たちは少しも見えていなかった。夫はそもそも慰霊碑に向かって黙祷した時から記憶がないという。気が付いたら私の悲鳴と兄の怒声が聞こえ、三人の元兵士の力で地面に投げ飛ばされていたのだ。
夫は引き込まれないで済んだ。
だが三人にお礼を言い、自分達も早くここから立ち去ろうと車のドアを開けた時、私は見た。
車の下から顔に大きな傷を負い、血をだらだら流した少女の顔がこちらを見上げていた。ドアに手をかけた時にさっと引っ込んで、そのまま見えなくなってしまった……。
20年前の話である。
サイパン・バンザイクリフの悲劇のTVドキュメンタリー、崖の上から見下ろしたカメラの、青い海に白い渦、無数に死体漂う映像が出ると、夫は今でも言う。
「俺、この光景見たよ。気が付いたときはっきり見たのがこれだったよ」
バンザイの崖の下 南 伽耶子 @toronamasan
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