第2話

 憧れの選手がいるの、と彼女は言った。その人のプレーや考え方に魅了されて、キャッチャーになったらしい。

 ブルペンに行くと、まだだれもいなかった。

「貸し切りみたいで楽しいね」

 そう言って栞はいきなり座ろうとはせず、スローペースのキャッチボールを促してきた。今日穂積がバッピーをやったことを気遣ってのことだ。

 「そろそろ」

 そう穂積が言うと、栞はマスクをかぶってキャッチングの姿勢をとった。

 綺麗な座り方だった。左投である栞は通常とは逆の構え方になる。右ひざをやや下げて右手のミットをフリーに動かせるように、左手は逸れたボールでケガをしないようにきちんと後ろに回している。練習だからと手を抜くような姿勢は微塵もない。

 何よりミットの構え方がいい。やわらかい手首を十分に生かしてポケットがよく見えた。下手なキャッチャーに多い被せた構え方はしていない。

 穂積はノーワインドアップから、栞のミットめがけて投げ込んだ。

 パーン!

 と硬式特有の乾いた音がブルペンにこだました。

「ナイボー!!」

 栞の元気な声が続く。

 穂積は軽く感動した。こんなにいい音で捕ってくれたキャッチャーは初めてだったからだ。ミットがいいだけではなく、きちんとポケットでタイミングよく閉じて捕らないとこんなにいい音はしない。それだけで高いキャッチング技術を持っていることが分かる。

 自分と違って身体能力も高いのに、なぜこんなキャッチャーが中学時代無名だったのか、穂積にはますます謎だった。

 続いて投げる。コースは基本中の基本、アウトロー。

 またしてもテンションの上がる音を響かせて、硬球がミットに吸い込まれた。自分の球威が上がったように感じられて、少なからずうれしくなる、が。

 「叶、さん‥‥‥?」

 何か気になるのだろうか、ミットを閉じたまま固まってしまった栞を見て声をかける。コースも高さもきっちり入っているはずだ。球威不足ということだったらどうしようもない。

「ううん、ナイスボールよ」

 一瞬弱気の虫が頭をもたげる。球の遅さ、球威不足でベンチにすら入れてもらえなかった三年間を、否が応でも思い出してしまう。

 高校に入るまで、体力強化のためにみっちり基礎練習をしてきたのに、全然球威には反映されなかったのだろうか。

 三球目、リミットいっぱいの力でボールを投げ込む。三度硬球はミットに吸い込まれ、気持ち大きな音を響かせた。

「ナイス、コントロール‥‥‥」

 再び栞がその姿勢のまま固まってしまった。少しうつむいて自分のミットを見つめる彼女を見て、穂積は絶望に飲み込まれそうになる。やはり自分は、どんなに頑張ってもベンチには届かないのだろうか‥‥‥

 突然栞が立ち上がって、穂積に歩み寄ってきた。ネガティブなことを言われるのかと思って身構えたが、彼女は意外なことを聞いてきた。

「中里さんが思う、ピッチャーの理想形って何?」

ぽかんとしてしまった。突然何を言い出すのだろう彼女は。それでも反射的に答えてしまう。

「‥‥‥完全試合」

「それはどんな完全試合?」

 畳みかけるように聞いてくる。

「27三振? 27球で27アウト?」

 いきなりピッチャーの理想を聞かれてもすぐには思い浮かばない。いや、あった。小さなころ見た高校野球の完全試合。珍しく三人の継投で完成したその偉業は、幼かった穂積の心に深く刻み込まれていた。特に二番手で一番長いイニングを投げた左の長身ピッチャーの自由自在な投球が印象に残っている。自分もああいう投手になりたくて野球を始めたことを思い出す。

 現実の前にその理想は霞みそうになっていたが、まだかろうじて心に残っていた。

「三振もゴロもフライもファールもライナーでさえも思いのままに‥‥‥」

 言葉を整理するために一瞬考える。

「どんなバッターも自由自在に打ち取れること‥‥‥」

「それ!」

 栞は力強く頷いた。

「それを実現するには二つのものが必要だと思うの。どんな状況でも自在に操れるコントロールと、それを最大限生かせる配球」

 そして、あこがれの選手から聞いたという夢のコンビネーションの話。

「どんなバッターをも限りなくゼロ割に抑えられる、神のコンビネーション」

 息をのむ穂積。

「それを私と探してみない?」

 そんなことができるのだろうか?

 そんな配球が存在するのだろうか?

 穂積は突然開かれた希望の扉の前で、その向こうにある光をまぶしそうに眺めた。

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