其の十

 目を開けると、私は車の運転席にいた。

 フロントガラスの向こうは、何となく見覚えのある風景。

 もといたサービスエリアに戻ることができたのだと実感すると、深いため息が出た。

 胸部が痛いが、車を発進させて目的地へ向かう。



 インターを下りて一番近いコンビニでスマートフォンの充電器を購入した。

 再起動したスマートフォンには、トラックにはねられた翌日の日にちと、10時47分という時間が表示された。

 母からは「せっかくだから泊まっておいで」とメッセージが来ていた。



 施設に着くと、「まんちゃん、来てくれたの? 遠かったでしょう」と母方の祖母――志真子しまこおばあちゃんが歓迎してくれた。

 祖母は思うように体が動かず、移動と入浴に介助が欠かせない。しかし、頭はしっかりしていて元気そうだ。

「おばあちゃんから教えてもらった料理、他の人に教えちゃったけど、良かったのかな?」

 私は念のため、祖母に訊いてみた。

 祖母の返事はこうだった。

「いいんだよ。いろんな人に教えてあげて。おばあちゃんはもうお料理はできないけど、まんちゃんがお料理を覚えてくれて嬉しいよ。まんちゃんは、おばあちゃんのお料理の後継ぎね」

 祖母は、彫りが浅くしわだらけの顔を、くしゅっとさせて笑った。

 祖母はずいぶん年をとった。でも、この笑顔は変わらない。

 私に料理を教えてくれたときの嬉しそうな表情。入所した今も健在だった。

 また祖母の顔を見に来たい。



 実家に帰っても、しばらくの間は足元がふわふわした感じが続いていた。

 ここは本当に私がいた世界なのだろうか、と不安になってしまったのだ。

 “呉葉くれは”を名乗る彼女に出会い、接した2日間は、私の世界観まで変えてしまった。

 私のいる世界とは異なる世界もあるなど、20歳になった今になって信じられるものではない。

 しかし、彼女の世界にいた証拠に、私は彼女からもらったペットボトルの紅茶を持ってきていたのだ。よくよく見ると、「甲信越限定デザイン」と書かれている。私は家からタンブラーを持ってきたので、途中で飲み物を買わなかった。たったそれだけだが、私には重要な証拠だ。



 後から知ったのだが、SNSであの日のことがにわかに話題になっていたのだ。

 トラックがサービスエリアで何かをはねたが、何もいなかった。この辺りの木ではない、紅葉こうようする前のもみじが大量に散らかっていたのだという。

 SNSには「鬼女紅葉、かれたか?」という書き込みもあった。

 私はそのとき初めて「鬼女紅葉」という言葉を知り、ウェブで調べてみた。

 「鬼女紅葉きじょもみじ伝説」というものが長野県の長野市や戸隠とがくしにあり、平安時代に平維茂たいらのこれもち紅葉もみじという鬼女を退治したという話であった。

 その「鬼女紅葉」の幼名は、「呉葉くれは」。

 そういえば、あの“呉葉”の彼女は、終始頭をバンダナでおおっていた。あれは何か意味があったのだろうか。

 今となっては確かめようもない。

 もしも確かめようとしたら、私は頭からむしゃむしゃ食べられてしまうかもしれないから。

 それが怖いわけではないけれど。



 10月になって大学の後期がスタートすると、私は一気に現実に戻された。

 実験やレポート、アルバイトに追われ、なかなかに忙しい日々だ。

 それでも思考あたまは、ふと立ち止まることがある。

 カフェでコーヒーを飲んでいるとき。

 コンビニでロールケーキを見つけたとき。

 きんぴらごぼうをつくるとき。

 長野県産の野菜を見つけたとき。

 彼女は今頃何をしているのか考えてしまうのだ。

 相変わらずコーヒーをドリップして、月に一回ロールケーキを食べているのかもしれない。

 畑で野菜を育てて、もしかしたら出荷してお金をかせいでいるのかもしれない。

 ちからのコントロールをすべく修業しているのかもしれない。

 そんなことを考えてしまうのだ。



 街路樹はすっかり赤や黄色に染まり、遠くの山もこっくりと秋の色に化粧をしている。

 ……もしかしたら。

 彼女は唐突に人里にやってくるかもしれない。

 ――真音まのんさん、がわからなくなってしまいました! また教えて頂けますか?

 着物姿でバンダナつけて。

 今度は、色づいたもみじを引き連れて。



 【完】

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もみじの映えるお屋敷で 紺藤 香純 @21109123

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