第23話 

 人間の幸せには、閾値いきちがあると思う。

 毎日が楽しくっても、限界って言うのかな、これ以上気持ちの良い明日はないだろうと察してしまうほどの、もの悲しくなる日がいつかやって来ると信じているわけだ。だから『昨日ほど幸せな日々はもう二度と訪れないのかもしれない』と勝手に落ち込んで、それを誤魔化す為にペットであるマルやラグに癒しという形で押し付け的な愛情を振りまいていたような気もする。

 でも、悲観することはない。

 平均をとったら陳腐な幸せでも、今を生きる私にとってそれほどまでに大事なものはないのである。

 例えば、金城さんとお昼を食べるとか。

 先輩と和気あいあいに仕事をするとか。

 職場に友達をつくる……作れたらいいなー、とか。

 そーいう、ふつーの幸福には平服するより他ないのだから。

 で。

「今日も来なかったな……」

 金城さんは今日も無断欠勤をしていた。

 最初のうちは怒っていた課長も、最近は青い顔をして心配し始めている。

 具体的には、彼が自宅で変死を遂げていないかとか、そういう不安が課長の胸を苛んでいるようであった。いや、それはないだろう、とは言わないでおく。金城さんがサボった分の仕事は私に回って来ていて、それが最近になって急に忙しくなった原因でもある。

 だから、こう。

 あんまり心配するのも、癪なのであった。

「っていうか、なんで私が心配しなくちゃいけないんだ」

 彼女でもないのに。

 いや、メールくらいしますよ? でもそれは友達に送る的な、心配だからやっているんであって、それ以上の意図もなにもありませんよってことで。

 うーん。

 でも、返信がないのは不安だった。

 まさか、本当に、と考えないわけでもないけれど、彼のアパートに押しかけるのもダメかなとか、そういうことを考えている。今こそ行動の時ではないのかと思いはするけれど、実際に行動に移そうとすると足がすくむのだ。

 先輩にも尋ねてみた。私がこの世で最も信頼している、あの女性である。

 返答はごくシンプルに、放っておけば帰って来るわよ、というものだった。

 そもそも編集とか校正とかをやっている人はアルバイト感覚でやっている人の方が多いらしく、他の会社だと定着率も悪いのだと言う。彼も仕事の退屈さとか諸々に耐えかねて仕事をやめたんじゃないか、とか末恐ろしいことまで言い始めたので最後のほうは耳を塞いでいた。

 だって、ねぇ。

 金城さんは会社だと他の女の子と喋ってるとこよく見たし。私は関わってない人とか、そもそも私を煙たがっている人とかとも十分にコミュニケーションをとって現場をうまいことまわしていたタイプの人だったし。

 あの人が辞める理由なんて……。

 はっ。

「寿退社……?」

 んなわけないか。

 ふぅ。

 などと考えているうちに今日も仕事が終わった。今月の残業時間と会社の服務規程とを見比べて、今日くらいは定時で帰らないと色々と問題があると課長にミミタコで聞かされたから、定時をちょーっと過ぎたくらいで帰ることにした。

 原稿は残ってるけどね。

 明日の私、頑張ってくれ。

 気分よく階段を降りて、今日も酒を飲むかと思案する。

 ついでにラグにマッサージも頼みたい。あの子、ちょっとエロいことしようとする以外は真面目だし、案外仕事には忠実にやってくれるんだなってことを最近になって気付いた感がある。

 猫って、もっと気紛れだと思ってた。

「出口だー!」

 明日は休み、ほぼ定時での帰宅、こんなに気持ちのいいことはないからと会社ビルを出たところでバンザイをしてみた。偶然にも目の前を通りかかったスーツのオジサンにぎょっとした目で見られて、ちょっとだけ赤面。

 ま、いいか。

 あとは帰るだけ、そして関わりのない人からの視線は総スルーすればいいのだ。

 ……。

 …………。

 ………………で。

「わんこがいるのは、なんで?」

 誰かを待ち構えるように、犬が出口のところに待っていた。私が帰ろうとするのを邪魔するように、的確に進路方向へと身体を入れ込んでくる。ふぅむ、随分と人馴れしているけれど首輪はしていない。野性ってわけじゃないのは毛並みがいいことと、あと肉付きがいいことで分かる。

 ちゃんと食べていて、人間に慣れ親しむだけの時間を過ごした。

 となると、逃げてきたのだろうか。

「でもウチは犬飼えないからなー、ごめんねー」

 これ以上、ヒトが増えても困るし。

 そそくさと逃げ出そうとしたら追いかけてきた。走ってもついてくる。他の人とすれ違ってもなぜか私だけを的確に追いかけてきた。人通りの多い方へ向かっても犬が追いかけてくる気配は止まず、私はもう諦めてどうにかすることにした。

 嘘だ。

 どうすればいいのか分かんない私が取れる方法なんて、たった一つしかない。

「頼むぞー、出てくれよなー」

 祈りながらラグの勤務先である喫茶店へと電話を掛ける。

 この時間ならギリギリ働いているところだろう。

 数度のベルが聞こえてから、受話器のあがる音が聞こえた。

「はい、もしもし。マルで……あ、こちらは」

「分かってる、喫茶店でしょ」

「あれ、どうしたんですか? よやくー、じゃないですよね」

「うん。流石マル、察しがよくて助かる」

 ラグに繋がったら代わってもらおうと思っていたから、手間が省けて助かった。

 そして、ここからが大事なところだ。足元にじゃれつく犬をいなしながら、のんびりした彼女に、たったひとつの質問を口にする。

「犬、連れて帰っても大丈夫かな」

「……はい?」

 困っているマルの顔が瞼の裏に浮かぶ。

 それでも私は、しつこく付きまとってくる犬をどうにかする術ってものを他に思い浮かべることが出来ないのであった。

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ねこです、やしなってください。 倉石ティア @KamQ

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