社の夢

仮巣恵司

社の夢

 いまだ涼まぬ残暑の夜。

 酒精が頭を這いずり回り、ぐわんぐわんと耳元で喚いていた。寝床には熱気が籠もっている。かといって起きる手間すら億劫で、思考が巡ると頭が痛む。


 ひどい悪酔いだった。

 寝れば楽になると理解していても機能不全の脳味噌は眠りを拒み、やってきた浮遊感に安心すればやはりまだ目は覚めたまま、暗い自室の天井が目に入って落胆する。入眠と覚醒を繰り返す苦しみに歯を噛み締めて耐えていた。


 何分、何時間経ったのだろうか。

 気付けば苦痛は消え去っていた。同時に現実感も喪失されていて、しかし薄っぺらいリアリティに包まれてしまった感覚もあり、すぅ、と一息――夢だと知っている自分と現実だと信じ込む自分の板挟みになっていて。


 私はようやく眠りに落ちたらしかった。

 よって、これは夢の話である。


 ――座っている。

 背中を包む柔らかな感触、袈裟を締める帯状の物体。見慣れたハンドル、後方へ去ってゆく景色、運転席のそれ。

 私は車を走らせていた。

 空は曇天、今にも雨が降り出しそうな灰色の。

 何だかいやな天気だな、早く目的地に着かないかな。得体の知れない不安で落ち着かない。


 走っていたのは高速道のようだった。特徴的な緑色の標識を通り過ぎる。

 何処其処どこそこICインター云々うんぬんkmキロメートル――何やら文字が記されていたが、咄嗟のことで確認できなかった。


 そういえば、何処で降りるんだっけ。ふとした疑問が頭をよぎる。高速道に乗ったのならば目的地があるはずだ。それも自宅近郊ではなく、最低でも県外だろう。しかしどうしても目的地は思い出せなかった。

 早く目的地に着きたい。どこで降りればいいのか分からない。併走する車はなく、対向車の姿も見えない。がらんどうの高速道を自分の車だけが走行している。


 茫洋とした焦燥感がじりじりと迫ってくる。冷や汗が額に浮かんだ。


 ふと、緑色の標識が前方に現れた。

 記されていた文字は漢字が三つ。それぞれは易しい常用漢字だったが、並びが引っ掛かった。当て字、熟字訓じゅくじくん――如月きさらぎ十六夜いざよいといった、本来なら漢字に含まれない読みを当てられた古式ゆかしい読みである。


 私はその漢字三文字を読めなかった。だというのに得心する。あぁ、そうだ。ここで降りるんだった、と。


 ――それで、夢は終わった。

 朝方の光に照らされた部屋で目蓋を擦る。体調はかなり良くなっていた。

 少しの間ぼうっとしてから気付く。


 あの漢字、三文字の羅列を見つけたときの安堵感。何と読むのだろう。気になって仕方がない。何より――記憶にない単語が夢に現れるだろうか?


 枕元に置いてあるスマートフォンに手を伸ばし、検索。すぐに答えは見つかった。


 仮に、不如帰ほととぎすとする。


 私はその生物を知らなかった。腹は白いがその他は灰色または黒の体毛に覆われていて、くちばしは橙色。体長はハトより少し大きいらしい。小さなコウテイペンギンのような鳥だな、という感想を私は抱いた。

 初めて知る動物の情報を眺め、前のページに戻る。

 別の検索情報が目に入った。


 神社である。

 名を不如帰神社。


 某県某市にあり、該当地域発祥の場所として名高い、総鎮守そうちんじゅたる社だという。

 ぼんやりとしていた頭が急に冴える。

 合点がいった。

 脈略なき夢の展開に意味を発見したのだ。

 言い知れぬ不安の中でみつけた不如帰の文字、かの鳥の名は神の社にも冠されているという。


 ――呼ばれているのだな。


 そういう直感。

 朝焼けの空気の中、身に染みる室温に身を引き締める。

 もちろん単なる偶然という可能性もある。見知らぬ単語といっても、表層の記憶に残っていなかったものが夢に引きずり出されただけかもしれないし、悪酔いが見せた支離滅裂な景色ということもある。私個人が無理矢理に意図を見出しただけかもしれない。

 それでも直感に従わずにはいられなかった。

 不如帰神社、某県某市発祥の土地。

 かの場所は、私の故郷なのだから。


   ◆


 奇妙な夢を見てから数ヶ月、寂しい風が世間を通り抜ける晩秋の頃。

 私は実家に帰省していた。

 年末年始にも帰省する予定はあったが、このところ祖父の体調が思わしくなく、時間があれば家族で戻っていたのだ。


 病院で寝たきりになっている祖父を見舞い、施設で暮らす祖母にも顔を見せた。親戚やお世話になっている方への挨拶も済ませ一息吐く。用事らしき用事は終え、あとは家族一同楽しみにしている温泉でも……という空気が流れているところへ私は口を出した。


 不如帰神社に行きたい。


 息子の口から馴染みの名前が出てきたことに両親は驚いた様子だった。彼らは生粋の某県人だが、私は小学校に入るより早く仙台へ越してきた身なのだから、その反応は当然だろう。

 事情を説明する。比較的信心深い両親は、例の夢をお告げだと喜んだ。

 そうと決まれば後は早い。そう遠くないこともあり、私たちは車で出発した。


 神社は某市街の中心に座している。

 周辺にはアーケード街や官公庁舎などが建ち並び、田舎とはいえ通行人の姿もそれなりにあった。しかし夕暮れ時に参拝する者はやはり少ないらしく、隣接する駐車場には物悲しい風が吹いていた。


 何があるんだろうねぇ、などと呑気な会話をしていると大鳥居が見える。両脇に木々を従えた偉容は神々しい雰囲気を醸し出していた。

 縁起の記された立て板を眺め、手水舎ちょうずやで身を清める。

 境内けいだいは静寂に包まれていた。

 晩秋らしからぬ暖かい風が吹き抜け、木々がざわめく。


 今のところ、何もない。


 私は心霊や奇跡といったものに興味のある性質ながら、これまで超自然現象とはとんと無縁の人生だった。何もないのかという肩すかしが半分、本殿に拝んでからが本番だという期待が半分。私は意を決して本坪鈴ほんつぼすずを鳴らした。

 カランコロンと小気味よい音で来訪を知らせる。

 なんと挨拶すればよいか小考、心の声を紡いだ。


 ――何処其処どこそこなにがしです、お呼びに預かり光栄です。


 奇妙な真似をしているな、と自嘲した。

 それでも夢のお告げが正しければ、生まれ故郷の総鎮守に呼ばれたことになるのだ。礼を失してはいけない。

 雑念を振り払う。


 ――祖父と祖母に、どうか健康な日々を。


 すっと浮かんできた願いを込めて目を閉じた。

 暫くそのままの姿勢でいて、頭を上げる。

 何も起こらない。当然といえば当然だ。劇的な体験がそうそう起こるはずもない。苦笑いを一つ、私は本殿を後にした。

 ふと境内を見回すと奥へ続く鬱蒼うっそうとした道が見えた。社殿の裏側に何かあるのだろうか。好奇心に踊らされて私は歩を進める。


 視界が開けてみれば、そこは裏庭になっていた。


 左手に小さめの池があり、風に凪ぐ水面は深緑色をしている。朱塗りの太鼓橋が横断する様は絵画のよう。市街地の中だということを忘れさせてくれる優雅な風景に、私は思わず息を漏らした。

 みぞれ雪を避けながら近付く。

 目を凝らせば紅や金のきらびやかな色が揺らめいていた。

 鯉だ。輪郭は判然としないが見覚えのある形だった。


 いいものだなぁ、と嬉しくなる。

 神域とされる場所で、静謐せいひつの満ちた庭園を歩き、池の鯉を眺める。無味乾燥な毎日を過ごしていた私の心が洗われるようだ。

 しばしの間、この環境を楽しむ。

 自分と自然が渾然一体となるような錯覚が心地よく、いつまでも立っていられる気がした。


 ――ふと気付けば両親の姿がない。車にでも戻ったのだろうか。


 見上げれば曇天、灰色の雲が空を覆っている。


 ――ひと降りきそうだな。


 雨か雪か。どちらも有り得る。

 寒気が外套コート越しに纏わり付いていた。

 身震い、ふとした不安感。


 時間にして十数分のことである。穏やかな晴れ模様が、寒雲かんうん立ちこめる空へ。様変わりと言うには程度が過ぎる。


 漠然とした正体不明の気配があった。

 気のせいと言えばそれまでである。しかし、この不安感に奇妙な感触を抱いてしまったのが悪かった。


 似ているのだ。夢で味わった、あの不安感と。

 不可視の圧に全身を舐め回されるかのような。


 細い息が漏れる。

 先程までの神聖さはすっかり失われていた。

 木々のざわめきは不吉を示す木枯らしのそれ、寒さに身を抱く私の姿を嘲笑うかのごとく。


 ――もう帰ろう。


 脚を動かそうとした矢先のことだった。


 空を打つ破裂音。

 耳をつんざくほどの巨大な襲来。

 闇が落ちる。何者かの影が周囲を覆い尽くした。

 咄嗟のことに固まってしまう。

 眼前の池へと大群が着水した。


 ――鳥だ。


 音の正体は羽撃はばたきと鳴き声の入り交じったもの、それも数十羽という集団のものだった。


 狭い池を埋め尽くす鳥の色。茶色と白の二色が主で、嘴は黒く小さい。鴨より少し小型で、嘴は鋭く尖っていた。不如帰かと目を凝らすも、画像で知った姿形とは似ても似つかない。


 水音が収まる。

 狭い池にひしめく鳥、鳥、鳥。水面は今や蠕動ぜんどうする巨大生物の背中のよう。

 びぃびぃという可愛らしい鳴き声とは反対に、ひしめきあう鳥の姿は気味の悪いものだった。


 何よりも、眼。


 小さく丸い猛禽もうきんの瞳は、血の色が浮き出た朱なのだ。


 例えば兎などは瞳が赤い。白化個体アルビノなどもそうだろう。目の赤い鳥がいても不思議ではない。しかし、数が数だ。突如として騒々しくなった庭園には不気味な圧迫感が居座っている。


 鳴き声が止む。

 鳥たちが、一斉にこちらを視た。


 悲鳴を抑えこむ。

 何かを伝えようとする意志が、千の赤眼となって私を射抜いた。

 風景が停止する。

 耐えきれなかった私は声を上げんと息を吸い込んだ。


 びぃびぃ、びぃ。

 びぃびぃ、びぃ。


 一瞬の静寂が破られ、堰を切ったかのように騒ぎ出す。鳥たちは、羽をばたつかせ、水面をあらん限りの力で叩き始めた。

 風景が動き出したと共に、私の体も自由を取り戻した。


 これ以上ここにいてはならない。

 逃げなくては。


 鳥たちの狂騒きょうそうを背に受けながら、私は早足で鳥居を目指した。

 冷や汗が背中を滑る。

 ひしめく赤瞳が、またこちらを射抜いている、そんな光景が頭から離れなかった。


   ◆


 それから後、帰省中には何も起こらなかった。

 夢で神様と会話したとか夜に寝室で異質の訪問を受けたとか、いかにも超自然オカルトじみた出来事があれば話も締まりがよくなったのだが。しかし現実は現実で、明らかに非現実的な現象とは出会えなかった。


 あれはなんだったのだろう。


 地元に戻って思い返せば、大群にすくめられた恐怖は霧散していた。悪酔いにあてられた意味不明の夢と、鳥の大群との遭遇。一つ一つはいたって普通の出来事である。勝手に恐れたのは私だ。


 ――もう考えないようにしよう。


 そう決めたのだった。


 年始の慌ただしい時期を乗り切り、雪が街並みを包む頃。

 約一ヶ月の歳月があの夢に関する恐怖を消し去り、生来せいらいの脳天気が頭を上げる。

 あれはきっと何かの勘違いだ。今年はきっと良いことがある。何しろ夢で神社に呼ばれ、お参りしてきたのだ、と。

 本業で大きな案件が舞い込んできたことも大きかった。次の仕事に繋げられれば収穫となる。これぞ神社のお導きに違いない。元より人並みの信心しか持たぬ私だったが、このときばかりは感謝した。


 そうして日が過ぎ、数週間が経ったころ。

 私は自室で作業をしていた。

 換気のために窓を開け、凍てつく風を褞袍どてらで防ぐ。いつもの格好だ。

 バチバチとキーボードを叩く。最大限の集中力で難所と格闘していた。

 作業もあと少し、というところで鳥の羽撃たきが耳朶じだを打つ。みっともなく驚き、つい画面から目を離したのがいけなかった。集中の糸が切れてしまったのだ。

 大きく深呼吸。やれやれと独り言ちればスマートフォンが震動した。何気なく手に取り通知を確認、家族からのメールを確認する。


 訃報だった。故郷に住む祖父が亡くなったのだ。


 呆然とする。

 死期の近い祖父だったが、それでも、どうして。

 ふと、また、直感。納得感が来る。


 あの赤い目が脳裏をよぎった。


 夢の話が一本の線で繋がったという実感があったのだ。


 思い込みにすぎないだろう、そう一笑に付すのは簡単だ。しかし、一連の出来事には直感が大きく関わっている。祖父の話だけ除外するのは筋が違うのではないか。


 おびただしいまでの赤い瞳が思い出される。

 あの時、私は何を願っただろうか。悪寒が背筋をなぞった。


 そして数日、葬儀の準備で忙しくなる。家族が悲しみに暮れる中、私は――自分でも嫌気が差すが、この身に降りかかった異変を整理するので精一杯だった。感情の奔流と情報の濁流で頭がおかしくなってしまいそうだったのだ。

 祖父の骨を墓に埋葬する間も現実の認識にはほど遠い。

 葬儀が一段落し、ようやく私は一つの結論をくだした。


 崇高な存在からの導きなどなかったのだ、と。


 恥ずかしながら、仕事の話も先行きが思わしくない状況になってしまい、年頭に抱いていた期待はいとも容易く裏切られた。そのうえ親族の不幸である。人々の信仰を集める御柱みはしらが成すわざではない。


 偶然が重なった、それだけのことなのだろう。


 私の信仰心は変わらないし、祖父もきっと綺麗に逝ったのだ。

 ともすれば引きちぎれてしまいそうな心情を、そういう言葉でつなぎ止めた。

 それで、この話はお終い。それでいいじゃないか。


 以上が鳥と社の夢に纏わる体験談である。

 あの神社はよい場所だ。悲運を紡ぐような場所ではない。

 きっと私は、今年もあの神社へ行く。

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