最終話

 ソファに座って背もたれに腕を伸ばしたら、ユカが素早くそこに収まって雑誌を広げた。

 猫みたいなもので、どかすと不機嫌になるから、頭を撫でながらコーヒーを飲む。

 チカはキッチンで煙草を吸いながら、雨を眺めている。

 ユカが選んだ曲が、誰も喋らないリビングでゆったりと波打つ。

 古いジャズから最近のポップスまで、幅広いプレイリスト。

 ヴォーカルもインストも関係ない。

 ただ、良いと思うものを並べている。

 この時間を、こうして過ごすために、この子はどれほど懸命に考えたのか。

 次に何を持ってこようか、このソファで俺に寄りかかることを思い浮かべながら、あれこれ悩んだに違いない。

「これは雨の日用か?」

「うん」

 映画を観ているようで、曲が変わると次のシーンが浮かび上がる。

 それにしても良い趣味してる。

 Cal TjaderのMorningなんて、とても中学生の選曲とは思えない。

「煙草吸いたくなってきた」

「えー」

「パパと交代」

「えー」

 ユカと交渉していると、玄関チャイムが鳴った。

 寝ていることもあるので、勝手に鍵を開けて入って来てくれと頼んでも、ヨシミさんは必ずチャイムを鳴らす。

 その上で鍵を開けて入って来る。

 なんなんだ?

 キッチンでチカが溜息を吐いた。

「お早うございます」

 肩に掛けた大きなトートバッグからエプロンを取り出そうとしながら、ヨシミさんがキッチンにいるチカに挨拶した。

「お早うございます。ああ、今日はエプロンしなくていいですよ。話があるので、あっちで座りましょう」

「は、はい……あ、」

 チカに促されてこっちを見たヨシミさんと目があった。

 ギョッとした顔で、視線が俺とユカの間を行き来する。

「ユカ、パパと交代する」

「やだ」

「また後でな」

 ポンポンと頭を叩いて立ち上がる。

「やだ。じゃあアタシもそっち行く」

 仕方なくユカをぶら下げて、キッチンに移動する。

 すれ違いざま、ヨシミさんが忌々し気に睨んでいた。

 勘弁してくれよ。

 ヨシミさんは三十半ばで、そこそこの美人さんだし、そこそこのスタイル。

 スキニーパンツで目立つお尻がちょっと大きすぎる気はするけど、そこは好みの問題かもしれない。

 家政婦としてはベテランというわけではないけど、初心者というわけでもない。

 そこそこ広いし階段もある一軒家なので、年配の方よりもということで、何人かいた候補の中からヨシミさんになった。

 俺とユカはカウンターのスツールをキッチンに持ち込んで、背中合わせに座った。

「ねえ、何の話するの?」

 そうだった。

 話せてないんだった。

「あのな……」

 俺とチカが行った尋問を除いて、小声で話してやると、ユカは目を輝かせた。

「ドロドロ……」

「そうか?」

「うわぁ、ヨシミさんの印象変わったー」

「もう黙ってろ……」

 独り、ヨシミさんと向かい合って座ることになったチカは、不安そうな顔。

 俺はわざとオイルライターを乱暴に開けて、音を響かせた。

 チカの口元が僅かに上がったのが、気配でわかる。

「ヨシミさん」

「はい……」

 ヨシミさんは、しおらしく俯いたまま上目遣いにチカを見る。

「鍵を返してください。理由はお心当たりがおありかと思います」

 ヨシミさんは、少しの沈黙の後、トートバッグから仕舞ったばかりの鍵を取り出した。

 ギュッと握りしめる。

「あの……」

「はい」

「心当たりがないんですが……」

「メグルちゃんから全部聞きました」

「どなたですか……」

 こうなるとは思っていたけど、面倒なことだ。

「信頼して預けた鍵を悪用したのはあなただ」

「鍵?」

「僕はね、この家の鍵を持って歩かないんです」

「え?」

「僕が女を連れ込むにしても、ヒロかユカに鍵を開けてもらわないとならない。二人が開けていないなら、鍵を開けたのはあなたしかいない」

 ヨシミさんはポカンと口を開けて、黙ってしまった。

 一層強く鍵を握りしめたヨシミさんの口から出たのは、またよくわからない言葉だった。

「なんで私よりあの男の方がいいんでしょうか?」

「はい?」

「あの、ユカさんの教育上あの男がここにいるのは良くないと思うんです。その、旦那様のご趣味のことをとやかく言うつもりはありません。でも、その……やっぱりユカさんと暮らす家に、そういった男を一緒に住まわせるのはどうかと思うんです。子供には母親が必要でしょうし、料理だって男料理よりは家庭の味を――」

「鍵を置いて、今すぐ出て行ってください」

 自分の世界に入って語り出したヨシミさんだったが、割り込むように発したチカの言葉で黙り込んだ。

 チカの表情は変わらない。

「パパ、凄い怒ってる……。ヒロ、怖いよー」

「嘘つけ」

 怒ってるのは本当だけど。

「ああ、鍵は持って帰って頂いても結構です。今日の午後には交換しますから」

「どうして?」

「あなたから見たら僕たちは普通ではないのでしょう。それで結構。他人に理解してもらおうとは思わない」

「他人だなんて! 私はあなたの下着だって洗濯してるし、部屋だって掃除してる。眠る場所は違うけど、私はあなたの家族も同然なの!」

 あ、そういうこと。

 何だよ、チカに惚れた女からヤキモチ焼かれてたってことかよ。

「ほら、ドロドロ」

「黙っててくれ……」

「パパも罪作りよねー。メグルさんって人も、ヨシミさんも、気の毒に」

 メグルちゃんに関しては、何とも言えない。

「だから黙ってろ……」

 それにしても、チカに惚れちまうのは仕方ないにしても、あれだよなあ。

 メグルちゃんもただの駒かよ。

「僕とユカの価値観を否定するあなたが家族なんかであるはずがない。僕らとヒロの関係を理解しようともしないあなたは、家族になれるはずもない」

「あの男が……」

「ヒロには、僕とユカが望んでここにいてもらっている」

「それはあの男に言わされてるだけでしょう?」

「あなたには僕やユカが理解できないと思いますよ。僕は普通じゃない。ユカも普通じゃない環境で育ってきた」

 チカはそこで言葉を切って立ち上がり、キッチンに向かって歩く。

「ヒロはね、そんな僕たちをそのまま受け入れてくれる。だから僕とユカが一緒にいてくれるように頼んだ。嫌がるヒロに無理矢理。あなたは僕とユカを自分の理想の姿に当て嵌めようとした」

 煙草が欲しいんだろ?

 俺はJPSに火をつけて差し出す。

 ニヤリとして受け取ったチカは、深々と煙を吸い、ゆっくりと吐き出した。

「僕たちはね、家族として愛し合ってる。まわりとは違うかも知れない。それでも、これが僕らの家族としての在り方なんだ。誰にわかってもらおうとも思わない。知ってもらおうとも思わない」

「でも、それじゃユカちゃんが――」

「おばさん、黙りな」

 日本語だっただけマシだけど、注意しておこう。

「ユカ、言葉遣い!」

「あ、ごめんなさい」

 謝ったので良し。

「あのね、さっきまでちょっとは同情してたのよ。パパになんて惚れちゃって可哀そうにって。だけどアタシを巻き込まないでくれる? アタシのママが誰だかわかってて言ってる? あの人にさっきと同じこと言えるの?」

 そりゃ無理だろう。

 相手は世界的なモデルで外人さんだ。

「パパがアタシにも聞いてるようにって言ったってことは、アタシの意見も言っていいんだよね?」

 家族だからな。

 チカが頷く。

「うん。アタシもパパと同じ。この人にはこの家に居て欲しくない」

「ユカちゃんまで……」

「ヒロは?」

「俺はノーコメント。女の人相手に寄ってたかってってのは好きじゃねえ。どっちにしたって、家主とその娘が駄目だっつってんだから、俺が口出す話じゃねえよ」

「なんでそんなに優しいかなあ」

「優しかねえよ」

 多分、俺がボロクソ言って、俺を恨んで出て行くのが一番楽なはずだから。

 そこまでの優しさは持ち合わせてない。

「そういうことなので、すぐに出て行ってください。特に私物はないはずですし」



―――― あれから四年が過ぎた。

 ユカもハイスクールを卒業する。

 十八になったユカは、そりゃもう綺麗になった。

 秋からはアメリカの大学に通う。

 俺達は幸せに暮らしていたと思う。

 酒を飲み、車を乗り回し、音楽を聴き、演奏した。

 三人で旅行したり、自分でも驚くほど家庭的な喜びを感じていた。

 調子を崩したチカに癌が見つかるまでは。

 毎年人間ドックに入っていたのに、あちこち転移してて末期だという。

 それからは、あっという間だった。

 なんでだろうな。

 見付かると途端に進行が早まりやがる。

 余命もクソもねえ。

 残されてたのは、ほんの一か月ほど。

 お気に入りのソファで並んで座り、オールドグランダットのグラスを合わせて煽る。

 チカが震える手でつけたオイルライターの火を分け合って、煙草を咥えた。

「ユカを頼んだよ」

 手をつなぐでもない。

 俺達はただ見つめ合った。

「当たり前だろ」

 それが最期だった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヒロ・チカ 謡義太郎 @fu_joe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ