牛乳パックを垂らす
紅蛇
牛乳は恐怖の対象物でしょうか?
今日、久しぶりに牛乳を飲んだ。
冷蔵庫には、二つパックが入っていた。別もの。会社も、商品名も、開け具合も。手前は未開封で、その後ろに置かれていたものは開封済み。試しに開かれた方を持ち上げると、あまり空いていなかった。約半分を残している。
これは……飲んでいいのだろうか?
パックではなく、扉を開きっぱなしにして、考え込む。そういえば、と思い出しかけた時に「ピピッ」という短い冷蔵庫の苦しむ声で、忘れる。ごめんよ、と思いながら閉め、ストンと床に座る。ひんやりとした床に、微妙なぬるさのカーペット。
そうだ。今度は、提案が浮かんだ。
「もしもし。あー、俺だけど。母さん——」
「誰よ、なんなのよあんた? 詐欺はいりませんっ」
そうして、プツリと切られる。
「母さん、牛乳……」
ツー ツー と虚しくなると分かって、鳴らしているような音だけ。ふっ、それじゃあ本当に虚しいじゃないか。しょうがない。今はどうしても牛乳が飲みたい。
携帯電話をジーパンの後ろポケットの右側に入れる。左には、もう何かが入っていた。指を差し込むと、くしゃっとした感触がしたからだ。
きっと、駅前で配られていたティッシュだろう。わからないけど。可愛いお姉さんに貰った記憶があるから。どこのお店かなんて、行く予定もないのに地図まで覚えている。
そんなことよりも、牛乳について覚えろよ……。
配っていた駅から、歩いて約三十分の距離。
危ない香りがするが、交番の目の前で配っていたから……大丈夫か。
説明を受けて、お兄さんに案内され、エレベーターで地下に向かう。
その下に小さく「お兄さんは怖い顔で、
「龍」という文字にドラゴンとルビを振るという……。
地下に向かったら、目隠しをされる。だが耳は塞がれていないので、部屋で巻き起こっている声は聞こえる。鞭で叩かれているような音と、不気味な笑い声がするらしい。これは『経験談』という欄に書かれていた。なんとも不気味だ。
そこでインクが滲んでしまって、読み取れた情報は終わってしまっていた。
結局、その場所には何が行われているのかも、なんていう会社なのかも、なぜ「女性(男の娘もあり)を募集中!」と可愛らしいフォントで書かれていたのかも、何が「合法」なのかも、何もわからないチラシだった。しかも、なぜかティッシュの色はピンク。地味に込んでいる。
怪しい臭いがプンプンするな……。
そうだ。匂いで確かめれば、どれが飲めるかわかるかもしれない。
膝関節の鳴る音を響かせ、冷蔵庫を開ける。床よりもひんやりとした風が、額に滲んだ汗を冷やした。背筋もいつの間に凍り、疑問が生まれた。
もし、この牛乳が酷い悪臭を放っていたとしたら——
鼻がひん曲がり、トイレに駆け込む惨事になるのではないだろうか?
思わず想像してしまい、吐きそうになるのをグッと抑えた。
何日もトイレで生活しなければならないことになる……。
あの、昨晩あいつらが出た——
ゴキブリさんたちとトイレで同居生活……。
母さんがスリッパで潰し殺した、光景。仲間を失い、泣き叫ぶ声とぐちゃっという音が思い出される。
結局、その牛乳は捨てることにして、新しい方を飲むことにした。
開かれた禁断のパックを流し台に置き、慎重に開ける。顔はいつの間に半目になってしまい、上手く中身が見れなかった。無意識に全身の感覚をシャットダウンさせてしまっていたようで、思考も遅くなっていた。
ゆっくりと瞼をあげた時に見た景色は、スローモーションで映画のワンシーンのようだった。
そう、映画のような出来事だった……。
地球は、宇宙からの侵略者によって奪われていった。この惑星特有の青い海と自然の神秘は、カビによって覆われていた。淡い
そう、我らは菌類に支配されてしまったのである!
なんていうSF映画を想像していたが、開ききった二つの眼には、なんの変哲も無い牛乳が入っていただけであった。騙された……。
いや、誰にも騙されてはいない。勝手に妄想しただけだけど。
開かれた禁断のパックには、人的被害を起こさせるものには思えなかった。だが、どうしてもショックを拭えなくて、思わず……。
そう、思わず。流しの中央に注がれるように、牛乳を斜めにし、静かに垂れていた光景を眺めたんだ。そうするしかなかったんだ……。
母さん、だからごめんって!
でもな、母さんも悪いんだよ。俺からの電話を詐欺だなんて……!
え? 未開封のをどうしたって?
ゆっくりと、流しではなく、コップに注いだんだ。
そうして、純白の液体を喉に注ぎ込んだ時、思い出したんだ。
さっき捨てた牛乳は、母さんが今朝、開けたものだって。
だからさ、母さんごめんって!
つい怖くなって、未開封のも捨てたけど……
本当に謝るからさぁ!
まぁ、でも今日久しぶりに牛乳飲んだよ。
牛乳パックを垂らす 紅蛇 @sleep_kurenaii
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