第3話 難敵


「ここにお集まりの皆さまには治安維持法の危険性について改めて認識していただきたい!!

 政府は治安維持を名目に、皆さんが納めて頂いた血税から1兆円近くの巨額予算を使い、新規の武装兵団と諜報機関の組成に注ぎ込もうとしています。

 政府の狙いは奈辺なへんにあるのか!

 それは専守防衛の原則を捨て去り、政府が敵対視する国々への先制攻撃すら可能にする法の制定に向けた第1段階としてこの法律を制定した可能性があると私はにらんでいます!!」


 背筋と胸をピンッと張り、眼には清廉せいれん博愛はくあいを結合させて出来たはじけるような光彩をたたえ、ほとばしる情熱を燃料とする内燃機関を備えているかに見える中年男が良く通る野太い叫び声を上げている。


 男は" 田崎たさき 邦和くにかず ”という野党所属の衆議院議員でマスメディアにも積極的に登場する知名度の高い男である。

 この年48歳になった彼は街頭演説とゴルフや海外視察で真っ黒に日焼けしており、少し腹の出たラグビー部のOBといった風貌ふうぼうである。

 

 武骨ぶこつとも云える立体的な顔は威圧的いあつてきでさえあるが、象牙ぞうげのような純白の歯をのぞかせながら顔をくしゃくしゃにして魅せる笑みとのギャップが絶妙な印影いんえいを作り人々を魅了していた。

 国会議員である彼にとって “最高のツール” になっているのだろう。


 田崎の後ろには彼が代表を務める“ 治安維持法廃止推進議員連盟 ”に所属する超党派の議員17名がまばたきもせず一々いちいちうなずきながら田崎の演説に聞き入っていた。いや、正確をして表現するならば “聞きれていた” と云うべきかもしれない。


 田崎は集まった聴衆を見渡しながら腕を大きく広げ、時には拳を天に向かって突き上げながら演説を続けていた。その様は一流のバリトン歌手のようでもあり、あるいは商業演劇の人気役者のようでもあった。


「そうだぁ! 間違いない ! 軍国主義反対! 即刻、治安維持法を廃止せよ! 政府は目を覚ませ!」


 眼つきや服装だけで無く、ただよわせる雰囲気からみて直感的に田崎ら議員の関係者と思しき連中が、お追従ついしょうに近い意見賛同の合いの手を繰り返し入れていた。


「そうですよね、皆さん。私は学生時代からどんなことにも不可能は無いの精神で全力でぶつかってきました。議員になる前に勤めていた機械メーカーでは営業をやっていましたが、そりゃなかなか大変でしたよ。色んな営業先がありました。喧嘩のようなこともありました。その経験で分かったことがひとつ。心を込めて真摯しんしに話し合いをする、相手の状況も理解してやる、そうするともんなんですよねぇ。これって外交も基本的に同じじゃないですか。相手が武器を持つからこちらも持つ。じゃあってんで、相手が更に強力な武器を持ったらこちらも持とう。そうなっちやうんです。際限ありません」


「そうだぁ! その通り! いいぞ田崎! 」


「まずは私たちから先に武器を捨てましょう。そして笑顔を相手に向けるんです。私たちは貴国とうまくやりたい、共にやっていきたいと心を込めて伝えるんです。今の政府にはその誠意が足りない。挙句あげくに中国を怒らせ、南をなげかせ、北を挑発する。これではさすがに任せて置けないと私は思うのです! 皆さん、違いますか! 」


「その通り! 税金の無駄遣いは許さない! 」


 聴衆の賛同に眼を細めうなずきながら鷹揚おうように手を振っている田崎を見て、眼に冷笑れいしょう侮蔑ぶべつの色を一閃いっせんはしらせた男がいた。わずかに開けた口元からシニカルなしずくを垂らしている。

 やや丸みを帯びたレトロチックなフレームの眼鏡をかけた学者風のその男は、防衛省から文部科学省所管の国立開発研究法人 科学技術振興機構 (JST) に出向中の生田いくた 正輝まさきだった。


 彼は本省(文部科学省)での会議に出席するために埼玉から上京していた。


「誠意と真摯しんしと真心の花を束ねたブーケを持って今から北の説得に行けよ、アホが」


「生田さん、"お仲間” が一杯いるから聞こえたら袋叩きに遭いますよ」


 不安と焦燥をブレンドした胃液が上がってくるのに耐えながら、嘆願たんがんするように小声で生田に話しかけたのは、同じ科学技術振興機構に属する葛西かさい 泰章やすあきという文部科学省のキャリア官僚である。


「アホだと思わないか、葛西。あいつテレビの討論番組に出演して2時間かけてしゃべまくったくせに、相手を説得どころか論破さえ出来なかったんだよ。そんな奴が、独裁や核兵器と手を繋いで鼻歌混じりでスキップしながら、EEZ (排他的経済水域) に1年に5回も弾道ミサイル打ち込むような大将を簡単に説得出来ると思うか? 「やってみせて、言って聞かせて、させてみて褒めてやらねば人は動かじ」という言葉もあるだろう。まず見本見せろということさ」


「分かりますが、猫と犬の関係のように我々は共通言語を持ってないんですから仕方ないですよ。向こうには 私達の声は “ニャー” としか聞こえないんですよ」


「なんで我々が猫なんだよ? 」


「いやだからそういうことじゃなくて。とにかく 14時からの会議遅れますよ。あと25分くらいしかないですよ。予算確保のためにも今日のプレゼンは重要なんですから」


「あいつらが "北の説得” に成功したら防衛予算費の大幅削減につながるじゃないか。だからここで説教してお前らが行ってこいと伝えるのは大事だと私は思うがね」


「行くわけないじゃないですか、生田さんらしくもない。いつもの合理的思考してくださいよ。さあ走りましょう。資料の事前準備もしなきゃならないんでマジで時間ないですよ。本省の酒匂さこう審議官の心象悪くしちゃいますよ。彼、ルーズなの大嫌いなんですよ」


 生田は、焦りと不安を含んだ冷や汗の水玉が、葛西の額・鼻の下・首筋におびただしく浮き上がっているのを見て “説教” することを諦めた。


「役者気取りの偽善者共が。私は騙されないぞ。会議から戻るまで待ってろよ」


 生田は舌打ちと共に捨て台詞せりふを吐き、“田崎シンパ”の衆目しゅうもくを集めた。一触即発の危険な雰囲気を醸成じょうせいしたことを自覚して首をすくめながらその場を辞去じきょした。2034年6月24日13時35分のことだった。


 生田と葛西が街頭演説会場から離れて15分後、数条すうじょうの雷光を束ねてアスファルトに叩き付けたような爆裂音ばくれつおんと強烈な竜巻のような烈風れっぷうが演説会場の2ヶ所で発生した。


 目のくらむような数十本の光の帯が四方八方に拡がった。そして次第に光の帯は膨張ぼうちょうし、ついにはお互いの輪郭りんかくを消しあって辺り一面を真っ白いもやで包んだ。


 白いもやに黒い煙が混じり始め、空からは様々な物体の欠片や赤い雨が降っていた。

 もやの中では絶叫がはしり回り、また数十カ所から絶叫よりも苛烈かれつ咆哮ほうこうが天に向かって突き立てられていた。

 それは “慟哭どうこく間欠泉かんけつせん” のようでもあった。

 ある者は火だるまの人間を見た衝撃、ある者はそこにあったはずの身体のパーツが消失していることを自覚し慟哭どうこくしたのだ。


 清廉せいれん博愛はくあいに満ちあふれた演説会場は一瞬にして阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄と化した。


 先ほどまで弁舌べんぜつたくみに聴衆に語りかけていた男は血塗ちまみれになりながらはしり回り、行く手の障害となっている支援者や関係者に罵声を浴びせ、そして押し退けるようにして走り去っていった。


 100万遍まんべん巧言令色こうげんれいしょくなど一瞬で吹き飛ばすほど醜悪さを帯びた醜態を晒したこの議員が、その後に街頭演説をした記録は公式に残されていない。


 兇悪で圧倒的な暴力の前では、理想と博愛精神で固められたフィロソフィーなど無力であることが浮き彫りになったと言っても過言では無かった。


 生田と葛西は爆破事件の現場から1kmも離れていない場所にいた。霞が関3丁目にある中央合同庁舎第7号館東館16階 科学技術・学術政策研究所会議室にいて “ 国内治安維持技術戦略会議” に参加していたのだ。

 議題の中心は、2年後に組織化が迫っていた国内治安維持部隊の装備品に関する意見交換が目的だった。

 有効性・妥当性・合目的性などの観点から参加者が自由に議論した末に導き出した結論を予算化検討の際の一助とすることにあった。今回で5回目の当該会議は大詰めの局面にあり、生田らにとっては重要な会議であったのだ。


 参加者は総勢29名。主な参加者は以下の通り。

 お付きの課長補佐級も多数参加していた。


 内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当) [議長]

 内閣府副大臣(科学技術政策担当)

 内閣総理大臣補佐官 科学技術革新会議 議員

 内閣府政策統括官(科学技術革新担当)

 内閣官房日本経済再生総合事務局企画官

 経済産業省 産業技術環境局長

 国土交通省大臣 官房技術総括審議官

 環境省大臣 官房審議官

 防衛装備庁 防衛技監

 警察庁長官官房技術審議官

 総務省大臣官房総括審議官

 外務省軍縮不拡散・科学部審議官

 文部科学省 科学技術・学術政策局長

 文部科学省 科学技術審議官


 会議が始まり約10分後、議長の佐久島さくしま 亮治りょうじに霞ヶ関で発生した “爆弾テロ” に関するメモが差し込まれた。

 メモを見た佐久島は唇を戦慄わななかせ、顔面がんめん蒼白そうはくとなった。佐久島は天を仰いでから一旦呼吸を整え事態を会議メンバーに伝達した。


 会議場は、溜息ためいき驚嘆きょうたんの声が入り混じり騒然となった。

 佐久島は両手を伸ばして上下させながら、全員に静粛さを取り戻すように呼びかけた。


「皆さん、会議は一旦ペンディングしようかと思いましたがあえて続行します。恐れていた事態です。一定のプロセスを通らなければなりませんから、新たな国内治安治安維持部隊の創設を早めることは困難です。せめて充実した装備の支給を目指し一層真剣に話し合いましょう」


 新部隊隊員100名用の基本装備品の見積もりだけでも5,000億を超えていたことに異論を唱えていた多数の会議参加者達は、爆破事件の推定被害者数を聞いて意見を一変させた。

 なにしろ “お膝元” で兇悪テロ事件が起きたわけであり、“明日は我が身に災厄が降りかかる” と考えて変節へんせつしたものと思料された。


 爆破事件自体は極めて凄惨せいさんで由々しき事態ではあったが、強力な治安維持力の必要性が再認識された契機けいきとなったのだ。


「葛西、ありがとう。あのまま残ってたら我々も諸共もろともだったな。現時点で50名以上死亡が判明してるなら更に増えるだろう。我が国初の大規模テロ事件は不幸な事だが、これを梃子てこにして開発候補案件は是が非でも全て通そう。これから隊員となる者達のためにも……」


 くして生田の宣言通り、最終的に開発候補案件の全てが承認され、2036年ペルセウスの発足に合わせて正規装備品として納入されるに至った。


 ペルセウスが発足した背景には悪化の一途を辿っている国内治安情勢にあった。特に移民受入れの受け皿となった1都3県の惨状は深刻だった。


 ①不満を抱える移民による暴力・破壊活動

 ②敵対国から送り込まれるスパイの激増

 ③テロリスト激増


 大きくはこの3点による悪影響が顕在化し始めたのがきっかけだった。国内情悪化に危惧を抱いた政府関係者達は事態解決のために2つの機関創設に動き始めていたが、折りしも国会議員を狙った爆破テロが警戒厳重な霞ヶ関で起こされ、野党議員3名と一般人62名が凶行の犠牲となった。


 通称 “国内治安維持法” と云われる国内取締り強化に向けた法の妥当性と、国内治安維持のための武装兵団及び諜報機関の創設に関し、平和主義を連呼する野党は政府にバッシングを連日浴びせかけていた。時には法案成立の過程で “汚職” や “収賄” が有ったのでは無いかと騒ぎ立てたり、“話し合えば分かる。警察力強化やスパイ機関の創設などとんでもない” との主旨で強行に論陣ろんじんを張っていたが、霞ヶ関にける凶行に直面して自らの主張引っ込め変節へんせつげた。


 当該テロ事案は、平素は与党政策に辛口報道に徹しているマスメディア各局のスタンスすら見事に豹変ひょうへんさせる威力があった。


 もはや事態は話し合いという悠長ゆうちょうな手段により状況改善を図ることが夢物語であることを多くの国民が認識し、そして政府の政策を足止めさせていたことを後悔した。


 首都東京を始めとする大都市圏では、パニック気味の傾向が見られ、生活必需品の買占めや転居などの行動に出る者も相当多数発生していた。


 2024年 東京オリンピックから4年後のこの年、1つの重要法案が衆参両院で可決成立した。通称 "移民受入れ法” と呼ばれる当該法の可決により、2024年から年間20万人規模の移民受入れをする事が決定したのだ。

 それは人口減少の影響による労働力低下の補完と国際的な移民受入れの流れに追随する事が目的に有った。

 労働力減少への対処としてはロボットの積極導入により対処可能との意見も一部には出ていたが、米国・EUからの圧力を受けていた時の政府が強硬に進めたものだった。

 移民受入れ法と併せて附随的ふずいてきに可決された通称 “移民自治区整備法” と云われる法律によって、関東1都3県に大小12ヶ所の移民自治区が設けられる事となった。

 但し、“自治区” とは言っても日本政府が一方的に定める自治規則遵守を前提したものであり、移民者の自治に関する自由度は極めて低かった。

 ある意味において隔離政策の意図もあったのだ。

 また、移民受入れ法の制定に合わせて、法務省入国管理局の大幅な権限拡大と増員を図り、“外国人住民に係る住民基本台帳制度” も移民者管理強化に資する改正が行われた。


 移民受入れ法の制定は、日本政府の英断えいだんであると世界各国から賞賛の嵐を受け、国内マスメディアも調子を合わせ英断だとたたえた。一部評論家には懸念を述べる者も居たがマイノリティな意見であり何らの影響も無かった。


 12カ所設けられた移民自治区 (後に通称 "移民街"と呼ばれる)は東京に7ヶ所が集中し偏頗へんばな受入れ態勢が敷かれた。これは移民管理に関わる管理機関が東京に集中している事に起因していた。

 このかたよった受入れ態勢が後に首都東京を苦しめることになるとは誰も想像していなかった。


 移民自治区の開設にあたっては1都3県で盛大なイベントが開催された。特に3県(神奈川・埼玉・千葉)では県活性化の起爆材料とすべく自治体が全力を挙げて盛り上げた。

 移民受入れ初年度の2024年には15カ国 20万人の移民が流入、 2035年に至るまでに累計で約240万人の移民者を受け入れした。

 移民受入れ開始から年を重ねる毎に様々な問題が噴出ふんしゅつ。とりわけ深刻であったのが、移民者の失業問題だった。

 正確かつ不平を言わないロボットによる労働力補完の進展が著しく、移民受け入れ当初の期待から大きくはずれて無職移民者を毎年量産した。

 国が無職移民者に対して支給する生活保護費は劇的に増加していくなど、日を追うごとに状況は悪化していった。

 次第にスラム化する移民自治区周辺の治安悪化が社会問題としてマスメディアにも取り上げられるようになり、2031年に移民受入れの一時停止に関する議論が始まった。


 莫大な移民受入れ関連予算の増大に加え、当初は想定しなかった移民自治区の取り締まり等に要する間接コストも増大している事に関して、衆議院予算委員会において極右の野党議員が所管大臣に質問をした事に端を発した。


 殆どの野党議員が法案賛成に傾く中、当該野党議員だけは、最後まで移民受け入れ反対を掲げていただけに政府の先行きの読みの甘さを舌鋒ぜっぽう鋭く責め上げた。


 2032年移民受け入れの一時停止措置を日本政府が決定した。世界各国から厳しいバッシングと圧力を受けたこともあり、激変緩和経過措置として一時停止措置は2036年からと決まった。結果的に一時停止措置がなされるまでに約240万人の移民者を受け入れる事となったのだ。

 また移民者の出生率は想定外に高く、今後加速度的に移民自治区の人口が増加することが予測された。


 移民の内、職を得られず困窮を極めている層は次第に徒党を組みギャング化すると共に、政府が準備した移民自治区 通称 “移民街” を中心にスラム化が拡大するなど大きく問題化していった。


 移民街に根を張るギャングは移民街1ヶ所につき1〜3グループ組成され、自らの居住区域以外の地域にも遠征し、殺人・暴行・強盗・放火・器物破壊など極悪非道な悪行を極めていた。


 の中でもとりわけ勢力を誇るグループが、東京多摩地区の移民街に根を張る " ROBS (ロブス : 奪う者達 ) " であった。

 18〜35歳の男女1万数千名余りの者で構成された東京にける最大勢力であり、なおも増殖を続けている。そこには単一民族だけでなく言葉も文化も指向も違う多国籍の人々が異国で生き残るために協力し合い共存しているのだ。


“生きるために奪うこと”を正当化する彼らは異国の地である日本において独特の連帯感を形成し、悪行を働いた者達を移民街全体でかばい守るような雰囲気が醸成されていた。


 2035年6月17日、ギャング数人が暴行略奪をしているところを現認した警察官2名が逮捕のため追跡したがギャングらは移民街に逃げ込んでしまった。聞き込みを行う警察官2名は数百名に及ぶギャングメンバーに取り囲まれ激しい暴行を受け1名が死亡、もう1名が重傷、そして乗ってきたパトカーも原型が不明なほど破壊された。


 2名の所属する警察署が連絡の取れない警察官2名の身を案じ、パトカーから発せられる所在発信電波を頼りに捜索を続けた結果、多摩川の河原に放置されている2名と破壊された車両を発見した。


 移民街での犯行を裏付けたのは、パトカーに取り付けられたナビゲーションの車両走行履歴によるものだった。この事件を契機として警視庁は移民街への追跡は原則禁止の示達じたつを行った。


 まずは追跡するか否かの判断を管轄警察署の署長に求め、許可があった場合にだけ追跡を行うという前提であったが、当該示達以降に追跡許可を出した署長は誰も居なかった。


 これは事実上、警察力の限界を示すと共に警察機関が犯罪集団に対して敗北宣言をしたに等しかった。


 この背景には、ギャンググループの圧倒的暴力があったのも事実であったが、犯罪行為を行ったギャングを捕まえる過程でギャングをかばおうとする一般移民者を傷つける可能性もあり、それが移民者を迫害していると国際世論から指弾しだんされることも懸念された。これを忌避きひしたい政府の意向を忖度そんたくすると共に警察官の安全を図る必要性を考慮する警察幹部が苦慮した末にくだしたやむを得ない判断であったと云える。


 警察に残された手段はパトロールを強化し、移民街から離れたところで現行犯逮捕するという方針であったが、現実の運用にいてその実践は難しいものがあった。

 一方、移民政策により月間約17千人弱の移民が新規に流入し続けている現状もあり治安情勢悪化に拍車かかり始めていた。


 現在のROBSのリーダーは金容夏キムヨンハという北朝鮮出身の男である。


 短髪、薄い唇、高い頬骨に加え、怜悧れいりさに満ちた切れ長で一重の眼が精悍な顔つきのアクセントになっている。身長は173cm前後だが手足が長く均整の取れて鍛え上げられた身体はどちらかと言えば筋張っていると言えるほどに無駄がそぎ落とされ、太腿と三角筋が盛り上がるように異常発達している。また、右肩口から左腰にかけて稲妻が奔ったようなケロイド状の痛々しい傷跡を残している。


 この男は多摩の移民街に居住し始めて3ヶ月足らずでリーダーにのし上がった。

 タイやベラルーシ・ブラジルなどの他の国所属の者達をあっという間にまとめ上げたこの男は明晰めいせきな頭脳も持ち、英語・中国語・フランス語・ポルトガル語・イスラム語などの外国語も流暢りゅうちょう駆使くししている。


 移民者が日本に早く馴染むため、移民街での共通言語は日本語を使用せよという移民街自治規則はあったが、移民教育の不備により日本語の浸透は遅々として進展しなかった。そうした背景の中で、キム容夏ヨンハが多くの言語を駆使出来たこともリーダーとなることに寄与した大きな要素だったかもしれない。やはり細かなニュアンスは得意な言語でなければ伝わらないという致命的な要素があったからだ。


 しかしキム容夏ヨンハがリーダーとなる上で決定的だったのは、キム容夏ヨンハの前リーダーであるブラジル人とその取り巻きである総勢10名が、新入りのキム容夏ヨンハに洗礼と称してリンチを加えようとした時の出来事だ。この時に全ては決まった。


 取り巻きの一人である筋骨粒々きんこつりゅうりゅうのブラジル人が、ニヤけながらキム容夏ヨンハの腕を掴みんで引きり倒そうしたその刹那せつな、そのブラジル人は回転するかのように宙を舞い脳天からアスフアルトに叩き落ちた。血だらけで倒れている仲間を呆然ぼうぜんと眺めていた前リーダー達は、雄叫びを上げながら一斉にキム容夏ヨンハに向)かっていった。

 キム容夏ヨンハはまるで鼻歌混じりで草むらを伐採ばっさいでもするかのように易々やすやすと向かってくる相手をなぎ倒していった。3分も経たない内に前リーダーを含む全員が地面に倒れうめき声を上げていた。

 取り巻きの中には190cmはあろうかと思われる者も含まれていたが、キム容夏ヨンハの驚異的な強さの前では赤子のようであった。

 

 当然のように前リーダーはキム容夏ヨンハにリーダーの座を譲り、今では片腕として働いている。この日の出来事は瞬く間に多摩地区移民街にいて噂となると同時に他の移民街にもとどろいていった。


 そして今やキム容夏ヨンハは移民者達のカリスマとなっており、噂を聞きつけた他の移民街からも多くの移民者が移ってくるという状況で多摩地区移民街は日に日に膨張している。

 政府は移民者管理の観点から移民者毎に居住区域を指定し勝手な転居を認めていなかったが、治外法権のような移民街において拘束力は皆無だった。


「キム、アシタセタガヤデカセグ。パクタチト」


「フェル、お前日本来て1年は経ってるんだろ。言葉もう少し練習しろ。AIの音声応答以下だな」


「ワカッテルワカッテル」


「今、世田谷を始め都内は警戒がきつい。他の移民街の奴らがやり過ぎてる。埼玉方面ならまだ警戒度が低い。とりあえずそっちで稼いで来い」


「アタラシイヒトノタメ ジュウガイル」


「何丁だ」


「20チョウ」


「 “道具屋” に調達を頼んどく。現金600万渡すから明日新宿寄ってから行け。受領の際は念のためしっかり確認しろよ。粗悪品混ぜるからな」


「ワカッタ。ワルイジュウアッタラヤッチャウヨ」


「余計なことするな。手っ取り早く武器が入手出来る先が減るだろうが。少しは頭使え」


「ワカッタ」


「横浜、多摩、福生、八王子、横須賀の移民街は押さえた。総人数1,056,920名、 ROBSのメンバーは12,500名弱まで増えた。あと2ブロック位がマネジメント出来る限界だろう」


「キム、フェテモダイジョウブ。サカラウヤツイタライツモミタイニャッテクレ」


「たまには自分でやれ。明日から3日ほど留守にする。お前とヤンで仕切れ。モバイルもつながらないからな。ま、俺がリーダーである内は警察も手を出さないだろうから何も起きないはずだがな」


「ドコイク? 」


「お前は気にしなくて良いんだよ、馬鹿が」


 キム容夏ヨンハは都内にあるプール付きのタワーマンションに住んでいた。民間警備会社がほどこせる最高レベルのセキュリティを備えた60階建てマンションの56階にある彼の部屋からは東京タワーが見える。

 入居条件が厳しいマンションのため、と或る法人を契約主体にして住んでいる。

 家賃は220万強と高めだが最高の眺望ちょうぼうと万全のセキュリティをキム容夏ヨンハは気に入っていた。


「この暮らし悪くない」


 マンションの大きな窓の前に置いたソファに座りポツリとつぶやきをらしたキム容夏ヨンハは、北朝鮮の特務機関 偵察総局 特攻部隊 通称 "容赦なき無慈悲な部隊”と云われる“千里馬旅団せんりばりょだん”に所属するエリート諜報工作員だった。


“千里馬旅団” は精鋭揃いの北朝鮮 偵察総局員20万人の中から選抜された者を、トランスヒューマニズム技術・遺伝子工学・薬剤ドーピング等々、人体強化技術の粋を集めて強化された者の集まりである。

 超人的な力を持つ "旅団メンバー” が約1,000人ほどが存在するといわれている。


 その内の10名程はクローン技術も用いて作られた容姿端麗ようしたんれいで知力・身体機能水準も最高のデザインヒューマンが存在していると巷間こうかんささやかれている。


 キム容夏ヨンハの脳にも身体能力と記憶・計算機能を飛躍的に向上させるためのマイクロチップがインプラントされている。

 通信機能を用いれば六法全書や判例集をものの30秒で転送することが可能であり思い立った瞬間に司法試験を突破する能力が具備される。

 キム容夏ヨンハの言語能力も当該チップに依拠いきょするものだった。


 キム容夏ヨンハは海州市という北朝鮮中西部に位置する水産資源や地下資源に富む街で生まれ育った。彼の家は貧しく3度の食事もままならない状態だった。両親と男男女の子供3人。

 長男のキム容夏ヨンハは13歳から17歳になるまで港の荷役にやく業務のアルバイトをして家計を支えた。

 毎日クタクタになるまで働いたが稼ぎは微々びびたるものだった。

 キム容夏ヨンハは自分の夕食回数を2日に1回にして浮かせたお金で弟と妹の学費と食費を捻出した。

 こんな生活を2年ほど続けると、キム容夏ヨンハの身体ははがねのように鍛え上げられていた。小さい頃から運動神経も良く利発な子供であった。

 キム容夏ヨンハは義務教育修了後の17歳で朝鮮人民軍に入隊し、その能力を発揮して次第に頭角を現していった。

 極めて優秀な男がいるという噂が軍隊内に流れていたほどだ。軍隊の幹部クラスのと或る酒宴しゅえんキム容夏ヨンハが話題にのぼり、たまたま同席していた偵察総局という諜報部隊の人事担当者の耳に入った。


 人材発掘に動いていた人事担当者は翌日にはキム容夏ヨンハと面談しその日にスカウトした。

 キム容夏ヨンハは偵察総局入りしてからも他を圧倒するような優秀さを発揮し、偵察総局内でも名を轟かせていった。決して高い学歴があるわけでもないが、平壌ぴょんやんの一流大学を卒業したエリート幹部候補生と一緒に受けた学力テスト・身体能力テスト共に圧倒的差をつけて上回った。

 中学しか出ていないことが、むしろキムの噂をとどろかせる材料になったのかもしれない。


 2032年、偵察総局内からエリートを選抜し、" 千里馬旅団 ” が組成されることになった際に、キム容夏ヨンハに真っ先に白羽の矢が立った。驚いたことは他の選抜者の中にキム容夏ヨンハに匹敵するような人材がゴロゴロしていたことだ。


 キム容夏ヨンハ達が “ 千里馬旅団 "に入隊して最初に行ったのは、忠誠宣誓書(承諾書)にサインをすることであった。

 書類はA4サイズで12枚にも及ぶものだった。

 そこには作戦実行中の事故(怪我·死亡)に旅団は責任を負わないことや、知的能力・身体能力の向上に資する外科的処置を施す場合があることなどが記載されていた。

 それはトランスヒューマニズムという思想に基づく措置であった。新しい科学技術を用い、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させようという思想である。

 他にはDNA操作により能力向上も承諾対象項目として記載されていた。


 キム容夏ヨンハは誰よりも早く承諾書に署名し、いち早く提出した。キムには軍隊しかどころがなかったためなんの迷いもなかった。

 自分が強くなり国に貢献出来る。家族への仕送りも安定して続けられる。理由はそれで十分だった。


 キム容夏ヨンハに施されたのは2つのマイクロチップインプラント手術だった。

 1つは記憶・計算能力向上。もう1つは身体能力向上だった。手術はほんの2時間ほどで終了。全身麻酔から覚めたキムには手術による変化が全く自覚出来なかった


 しかし翌日驚くべき変化に気付いた。


 "千里馬旅団” の72頁に及ぶ部隊規程を手渡されたキム容夏ヨンハがそれを読んだ時のことだ。

 初めて読んだにも関わらず内容をなぜか知っていた。しかも一字一句全てである。部隊規程を手渡した上官が不敵な笑みを浮かべながら話しかけた。


「驚いたか? 今の気持ちを日本語で表現してみろ」


「晴天の霹靂へきれき…というところでしょうか。なぜ? 一体どういう……」


「3ヵ月後日本に行って活動してもらう。日本語は完璧にインプットされているはずだ。他にも予め情報を見繕みつくろってインプットしてある。

 お前はもう "超天才並み”だ。会議室にある百科事典が並んでるだろ。あれに換算すればおよそ2,000万冊分の記憶容量がある。

 見たものは完璧に覚える。それから思い描く通りに身体を動かすことが出来るはずだ。


 今、陸上や体操競技の選手になればオリンピックに出場してメダルも取れるだろう」


「他にインプットしたい情報があればPCから伝送出来る。なんなら “性技” に関するプログラムもあるぞ。お前はまだ女を知らないだろう。ハニートラップミッションのために女性隊員向けが最初に作られ、後に男性用も追加されたのだよ。

 それからもうひとつプレゼントがある。 

" Doctor Molecular(ドクター マァラァキュゥール) " という “体内治癒たいないちゆナノマシン” を注入してある。多くの病気を検知して治癒してしまう。怪我の治りも劇的に早くなるはずだ」


「信じられない。こんな力が」


「トランスヒューマニズムだ。テコンドー、少林寺拳法、剣術の達人クラスの身体活動記憶も入れてある。始めてでも達人並みの動きが出来る筈だ」


「決め手は “脳” だ。武術やスポーツ達人の脳の

 "海馬”にマイクロチップをインプラントし運動記憶をコピーをした。君のチップには武術の他、“千里馬旅団” のメンバーが困らないようにありとあらゆる知識・経験をDLLしてある」


「私は大学に行ってないのでありがたいです。"経験”まで移植出来るなら学校は必要ありませんね」


「その通りだ。しかし“インプランター”を大量に増やすことによる社会的影響などが計れてないので、まだ我々のようなエリートか特権階級にしかこの措置は施されない。手術にはそれなりの資金も必要だ。それに倫理的価値観に照らし反対をする者も内外に多い。しかし近い将来、“学校に行く必要がない者” "学校に行くもの” “学校に行けない者”の3階層に分かれることになるだろう。学校に行く奴が馬鹿にされる時代が到来するかもな」


「マイクロチップをインプラントした“インプランター”を増やした場合の社会的影響に関しては、スーパーコンピュータを用いて影響シミュレーションをする予定だ。前提条件の整理などに時間がかかっているだけで、コンピュータにかければあっという間に確かなシミュレーションを行うだろう」


「素晴らしい。大規模に推進すれば、我が国は圧倒的優位に立ちますね」


「まずは経済強国として力をつけ、そして南を併呑へいどんする。“人民朝鮮大共和国”の誕生だ。首都は平壌に置くことが決まっている。南は倫理的観点から“人類の進化”に異を唱える連中を抑えることが出来ずにいる。大衆迎合主義に陥っている政治の有り方ではまず無理だろう。その間に我が国の人民は絶え間なく進化していく。もはや勝利しかありえない。

 国土や保有資源は米国・中国・ロシアには到底及ばないが科学力では凌駕りょうがしている。

“最高司令官” の偉大なる采配がなければここまで来ることは出来なかったろう。様々な犠牲を払ってきたが、我が国のような小国が大国にしてゆくためには仕方がなかったのだ。

 飢えにあえぎ、まともな教育も受けられない人民が多数いる。彼らにもうるおいを与えてやりたいと上層部も真剣に話し合っているのだ。

 悲願達成まであと一息だ。そのためにも貴官らには一層頑張ってもらわねばならない」


「頂いた力を最大限活かし、必ずやお役に立ってみせましょう」


 時は2032年9月、キム容夏ヨンハが23歳になったばかりの出来事であった。


 世界各国からの外圧と野党やマスメディアの扇動せんどうに感化された多くの国民の圧力により、長年、政権与党が忌避きひしてきた "移民受入れ” の実行を契機として、一般移民に紛れて多数の諜報工作員が流入してきた。

 キム容夏ヨンハもその1人であった。

 彼の使命は、首都東京において動乱を起こして混乱を巻き起こすこと、そしてその鎮定ちんていに動く警察の体力低下と疲弊ひへい企図きとすること、有事の際は日本内部にいて様々な仕掛けをすること、等々が与えられていた。 "移民受入れ政策” のおかげで日本に堂々と進入したキム容夏ヨンハは、2037年8月3日現在、ここ迄は全て予定通りに事を進めている。


 明日は日本各地に散らばっている "旅団メンバー” の定期会合が東北の温泉地で行われる予定である。

 この定期会合の目的は異国でのメンバーの寂しさを紛らすため、状況や成果情報の共有化等が表向きの事情としてあったが、本国の本当の意図は裏切り防止にあった。"旅団メンバー”は、様子がおかしいメンバーを検知した場合には本国に報告(密告)を行うように教育されている。


 超一級の人材である彼らは洞察力も優れていた。つまり仲間同士で監視し合う仕組みが構築されているのだ。"裏切りは死” を意味していた。

 裏切り者の判定を受けた途端に、それまで仲間だった数十人の超一流工作員が裏切り者を狙う殺し屋となるのだからたまったものではない。裏切りなど出来るわけもなかった。


 この非情の掟の中で牙と爪を研ぐ一級のハイパーヒューマン達が、長い間ぬるま湯にかり続けてきた日本の首元に鋭い爪を立てていることを、日本人はまだ誰も気付いてはいなかった。


 キム容夏ヨンハは祖国のそれとは全く異なるきらめく東京の夜景を眺めていた。

 出来ることならば、“な日本” に貧しい生活をしている家族を連れてこれたら……という考えが一閃いっせん脳裏のうりぎった。

 そして日本での悪行にほんのかすかな憂いも覚えていた。


「金王朝のためじゃない。祖国、家族のためだ」


 キム容夏ヨンハは自分に暗示をかけるようにひとちた後、手にしているグラスのビールを一息に飲み干しまた東京の夜景に目を移した。

 全てが順調に推移しているにも関わらず、夜景を眺める彼のほほには、迷いを含んだ深いかげりが伝っていた。

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