第1章 混沌の幕開け

第1話 戦士の休息


いやされるな」


「ほんとね」


 灼然しゃくぜんたるオレンジに染め上げられた海原うなばらを眺めつつ、かぐわしい潮風の愛撫に身を任せながら恍惚こうこつたる夢心地にちている1組の男女がポツリと呟き合った。


 両方とも海側へ向けられた2脚の椅子の間には小さな丸テーブルが置かれている。


 男はテーブルに左肘を付き握った拳を左頬に押し当て、女は左手で手櫛てぐしを作り左耳の後ろあたりの髪をくかのように何度も繰り返してかき上げながら、静穏として雄大ななぎの海原を凝視し続けている。


 男が頼んだ水出しのホットコーヒーは口すら付けられないまま30分近く放置され、女が頼んだカモミールティーは辛うじて半分ほど減らしている程度である。


 男の名は、佐治さじ 崇一しゅういちという。

 今年で30歳を迎えた。


 睫毛まつげがとても長く、引き締まった精悍なその顔立ちは、一瞬 “勇躍ゆうやくする鷹” を彷彿ほうふつとさせ、分厚い胸板と絞り上げられた腹筋をまとった179cmの体躯が剽悍ひょうかんな雰囲気を醸している。

 Tシャツに短パンというラフな格好にベリーショートの髪型をした彼は、下手をすると大学生に間違えられても可笑しくないほど年若に見える。


 緊張感無く海に見惚みとれながらほうけているこの男が、実は政府が国内治安維持の切り札として設立した特殊部隊の初代隊長であるとは誰も洞察どうさつ出来ないだろう。


 当該の特殊部隊は “対テロ攻撃ハイテク武装機動ユニット ペルセウス ” (Againrst Terrorism Offensive Armament of High Technology Maneuver Unit Perseus) という。


 2032年に成立した “” 通称 “ 国内治安維持法 ” に基づき防衛省の外局として “治安維持庁” が設立され、その直轄組織として当該部隊は昨年 (2036年) 設立された。

 警察機構の範疇はんちゅうに含まれる組織では無く、いわゆる “準軍事組織” である。


 崇一がペルセウスの初代隊長に就任してから今年で2年目を迎えていた。

 ペルセウスに入隊してからは多忙を極め、地元の茅ヶ崎に帰れるのは1カ月ないしは2ヶ月に一度程度となり好きなサーフィンもまともに出来なくなっていた。


 隣に居る今年25歳の伊藤慶子とは3年の付き合いになる。

 地元の祭りに横浜から遊びに来ていた慶子と知り合ったのが馴れ初めだ。

 たまたま崇一の地元の友人と慶子が同じ横浜の市民楽団に所属していることからの縁だった。


 慶子はノーマルな日本名に似つかわしくない豪奢ごうしゃな見た目をしている。

 イスラエル系のクオーターである彼女は艶のある亜麻色の髪に色白で彫の深い鋭角の顔、そして深いエメラルドプルーの瞳が特徴的であり、彼女が笑う様は、まるで薔薇バラを見るような気分にさせられた。

 と云うミドルネームも持っているが、殊更ことさら表に出して名乗る必要も機会も無かった。


 崇一は、美しく都会的な雰囲気の慶子に接して “一目惚れ” という概念の実存を否定する科学的思考を放棄した。


 会話をする度に慶子から無節度に放たれる優艶ゆうえんという名の絶え間ない砲撃を受け続けた特殊部隊のエースは、横浜の美しいバーカッショニスト (打楽器奏者) の前に自ら進んで武装解除し軍門に下ったのだ。


 しかし今や慶子の方が崇一にべた惚れの状態にあり完全に攻守逆転といった様相を呈している。


 現職に就くまでの崇一は、仕事とサーフィンに明け暮れ、時間があれば独りで逗子にある行き着けの "Cafe Upwind" で水出しホットコーヒーのお替りを繰り返して日がな一日思索にふけるか、大好きな読書に没頭していた。


 独りでいることを好む性格は子供の頃から引きっている性質であり、おかげで友人の数は多くなかったが特に不自由はなかった。

 崇一にとって独りで思索や読書に耽ることは、猫が毛づくろいするのと同じくらい当たり前の行動であり必要なルーティーンであるのだ。


 慶子と付き合い始めて幾分かは大事なルーティーンの回数を減らさざるを得なかったが、崇ーとしては貴重なモノ同士をトレードオフ(等価交換) するつもりでいたので何ら抵抗心は芽生めばえなかった。


 海沿いの崖に建てられた "Cafe Upwind" の目前には雄大な海原が広がっている。


 空と海と緑が渾然一体こんぜんいったいとなった姿は、印象派の絵画を切り取って貼り付けたのではないかと思う程に美麗びれいであり、時の経過に合わせていろどりに満ちた姿を見せてくれた。


 それはまるで朝昼夕晩毎にドレスと化粧を変える女性のような姿でもあり、崇一の心を捉えて離さなかった。


 爽やかな芳香を漂わせ、真っ白な波のレースをひらめかせる少女のような “朝" や、漆黒のドレスと天空に輝くきらびやかな蒼銀そうぎんのアクセサリーをまとう淑女のような “夜” も捨てがたいが、崇ーが一番好きなのは、鮮やかなオレンジのドレスを纏う淑女に成長する前の大人びた青年のような “タ” だった。


 多忙な崇一は一日中 “彼女達全員” の相手をするわけにもいかないので、いつも “オレンジの君” を狙って "Cafe Upwind" へ足を向けた。

 たまに “浮気” もするが、その時は決まって、店のオーナーである三井から揶揄からかわれた。


 三井は横須賀で行われたウインドサーフィンワールドカップのスラローム部門で2位に入賞したこともある腕前だ。

 世界中から名の知れたウインドサーファーが参集する大会であり、2位というリザルトだけでも相当自慢になる勲章なのだ。そんな三井を崇一は兄のように慕い、三井も崇一を可愛がっていた。


「崇一、他に誰かいないよね? 」


「浮気を疑ってるの?」


「最近会う回数減ってるから」


「部署異動したこと伝えたろ。今忙しいんだよ、ほんとに」


「公務員て毎日定時じゃないの?」


 慶子は椅子の上で “体操座り” をしながら身体を前後に揺らし不服そうに崇一をなじった。


“オレンジの君” から借りたドレスを纏い、潮風に亜麻色の髪をたなびかせながら子供のように頬を膨らませている慶子を崇一は微笑ましく見つめ失笑した。


「何なの? ムカつく!」


「いや、少しだけ可愛いなと思って」


「少しって何よ、ムカつく!」


 慶子は右手を掲げ崇一を叩く振りをした。崇一は慶子の右手を取ってそのまますくっと立ち上がり答えた。


「 “ Cafe de 横濱よこはま ” でケーキ奢るから許せ」


 束の間の “戦士の休息” のピリオドを慶子の自宅近くのカフェで打とうと決めた崇一は、祖父から譲り受けたオープンカー MG-A に “オレンジの君” から借りたドレスを着たままの慶子を押し込み、“夜の君” が現れる前に "Cafe Upwind" を後にした。


 崇一は慶子を自宅に送り届けた後、寄り道をせずに東京へ向かった。港区赤坂。ここに崇一の職場と住まいである官舎があるからだ。


 首都高から眺める東京の夜景が崇一を昂ぶらせ、同時に不安と恐れの微粒子が崇一の血液に混じり始めた。


「また爆破……」


 数百メートル向こうで火の手がが上がっている。

 黒竜のようにうねりながら立ち昇る黒煙の中から火柱で出来た赤黒い舌を時折覗かせる。

 それが単なる火事などではないことは崇一には分かった。

 ここ1年で発生したテロ・暴動・破壊活動などの件数は700件以上にのぼりその内約30%の事案に関してペルセウスの出動要請があった。

 出動回数は日を追うごとに右肩上がりの状況にあったが、ペルセウスの鎮定ちんてい活動によって深刻な事態への発展はどうにか免がれていた。


 敵対国が執筆した戯曲ぎきょくのエンディングには、大望たいもう実現の歓喜にまみれる兇漢きょうかん達が属する自国と悲劇の渦中で衰弱してゆく日本が記されている。


 その戯曲を元にした舞台上演は、2年前の霞ヶ関での杮落こけらとしから始まった。


 治安維持法の廃止を訴える目的で街頭演説をしていた野党議員と多数の支援者を含む聴衆300余名が集まる中に、敵対国の兇悪きょうあく走狗そうくにより仕掛けられたコンポジション爆薬が炸裂し議員3名とマスコミ関係者4名を含む聴衆62名の命を奪った。


 被害者らの身体は四散五裂しさんごれつし、血しぶきや肉をビルの壁面や街路樹、信号機などにべったりと貼り付かせた。

 それはまるで筆先の絵の具をキャンバスに投げつけて作り上げた異様な前衛美術のようでもあり、周囲にいた人々を慄然りつぜんとさせた。


 雄々しい勢いで平和主義を訴えていた議員の熱情や聴衆の熱気は霧散し、代わりに恐怖に打ち震える声にならない叫びや戦慄せんりつを誘う冷気が取って代わりその場の空気を支配した。


 辺り一面には血肉の焦げた匂いとアスファルトが溶けた匂いが綯交ないまぜになり、瘴気しょうきのような異様な匂いと粒子を立ち昇らせていたのだった。


 凄惨せいさんさを極める爆破現場の状況とは裏腹に、まるで虚無きょむの中にあるような静寂が辺りを一時支配した。唯一、爆風でひっくり返っても廻り続けている自動車のタイヤが、へし曲がり外れかけているフェンダー部を擦りながら不協和音を奏でていただけだ。


 野党議員の関係者と思しき妙齢みょうれいの女性が鮮血で染められたプロパガンダ用のチラシのたばをバラバラと落とし、半歩遅れて絶叫に近い金切り声を上げた。それはまるで短距離走スタートの際の号砲であるかのように響き、その場に立ちすくんでいた人々の群集心理を刺激した。そこから先は阿鼻叫喚のパニックだった。

 人々はその場から離れるために、たまたま躰を向けていた先へ闇雲に走り出した。


「どけっ! 馬鹿ァ!」というエゴイズムの塊のような叫びを前方にいる人々にぶつけ、もはや原型を留めていない人間の残骸や、本体から切り離され孤独に転がる割れた柘榴ざくろのような頭部、灰やほこりが混ざり赤黒くなった数百ℓの血溜まりなどで織り上げられた真紅の絨毯じゅうたんの上を、容赦無く踏みつけながら脱兎だっとの如く突き進む姿は醜悪しゅうあくそのものであった。


 つい先程まで平和主義・人道主義を声高らかに訴えていた議員でさえ、薄っぺらい人道主義の皮のぐ下からき出しのごうのぞかせながら支援者や関係者をき分けて走り去って行った。


 この事件には “霞ヶ関爆弾テロ事件” という事件名が与えられた。

 日本の政治的・軍事的な針路に少なからず影響を及ぼした極めて凄惨せいさんな事件であるにも関わらず、やや立体感と臨場感に欠ける平凡な名前ではあったが、マスメディアなどで幾度となく取り上げられ多くの人々に認知されていった。


“日本人に恐怖を植え付ける” という初舞台の第1幕を盛大な演出をって大成功に導いたと敵対国の走狗そうくらは狂喜乱舞した。


 ひとつの誤算は日本の武装化を阻止せんとする平和主義者や政治勢力の意気地をくじき、治安維持法への非難をトーンダウンさせたことにあった。

 その意味では、 “政治家” と “霞ヶ関” と云うキーワードだけで犯行の時と場所を決定したこの “間抜けな舞台演出家” の存在が、図らずも日本の治安維持に寄与したことは不幸中の幸いであったかもしれない。


 しかしながら彼ら走狗の企図した通り、日本国民の多くの心中に、形容し難い恐怖と不安のを浮かび上がらせ、混沌こんとんの世界に通ずる扉を乱暴に蹴り開けたことは紛れも無い事実であった。




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