蛟竜送り
早瀬史啓
蛟龍送り
今日、私はシェンメイを天へ還しにゆく。
昨年、龍となって天へ還った
「
両親を早くに亡くし、大祖母に育てられていた私は、必然的に龍の巫女となった。そして、
もちろん不安はあったけれど、
だって、
その日は両手に
長閑な景色だった。山の方から吹いてくる風が冷たくて心地よかった。草々のざわめきが、まるでお喋りをしているように豊かだった。けれど、私の気持ちは沈んだまま。
(湖の中を覗けば
ふと、そんなことを思いついて湖面から覗いてみれば、名前の知らない魚が泳いでいるのが見えた。
「龍は神獣だから、普通の人には見えないし、触れもしない。視えるのは、龍の巫女だけ。もちろん、龍の子の
「じゃあ、私も龍の巫女になったら見られるの?」
「もちろん。貴女が大きくなって、龍の巫女になれたらきっと、
あれは大層美しい光景だったよと、笑った大祖母の言葉を思い出しながら、湖の中を食い入るように見つめた。漫々と湛えられた水の中に魚が泳ぎ、水草が水流にもまれるように流れてゆく。真っ暗な湖底からは、ぶくぶくと小さな泡が浮いていた。やがてそれは次第に大きくなり、湖底から長い紐のような影が、すーっと浮かんできた。
(ごみ……?)
じっと、目を凝らす。
ぶくぶくとした泡の中で、影が揺れていた。それが、私の方に近づいてくる。水面が波打つことも無く、静かに忍び寄るように、すーっと。
波立つ音もなく浮かんできたのは、額に枝のような角が生えている、小さな水蛇のような生き物だった。
細くしなやかな体は縄のようで、そこから冗談のように小さな手足が二対、静かに水をかいている。紫色の大きな瞳を見た瞬間、額が雷に打たれたように熱くなった。そして、分かってしまった。
”―――――これが、
黒い水蛇のようなそれは、紫色の双眸を私へ向けると、じっと見つめた。そして、暫くしてから湖面に鼻を突き出し、長い尾鰭で水面を叩いた。時折、私が用意した
「みゃあ」
子猫のような鳴き声に、へたり込んでしまった。
「みゃあ。みゃあ」
想像するよりもずっと愛らしい鳴き声で
(神獣の子というからどんな生き物なのかと身構えていたのに)
これではまるで、人に慣れた動物のよう。
笑いながら
それからだ、
そして――――
それは
この日、私は龍の巫女の衣装を纏い、村長と司祭の格好をした村の男達と共に湖のへりに立った。
湖面は穏やかな風に波打っている。いつものように水鳥はいない。鏡のような水面に、新緑に染まったラオファンの山と、それを背にした私がいる。湖に私の姿が映ると、シェンメイは、いつものように湖面へ近付いてきた。大蛇のように大きくなったシェンメイは、湖の底でとぐろを巻いたまま、私と空を見上げている。
そして、頭だけを水面から出し、じっと私をみつめた。暴れることなく、ただ、じっと。まるで、これから何が行われるかを知っているかのように。
私は
”歌と舞によって導かん。
高らかに響きわたる声を合図に、村長が湖へ色とりどりの花々を撒く。湖面が鮮やかな花弁で染まった。村の男達が楽を取り、吹き鳴らしはじめる。笛と馬琴が奏でる楽の音を、シェンメイは湖から静かに眺めていた。
さあ、舞おう。
晴天に黒雲を呼び寄せ、墨に染まった空の下で。
楽を鳴らして歌おう。
シェンメイが無事に天へ還れるように。
皆で祈ろう。
シェンメイが龍となり、村へ恵みの雨をもたらしてくれるよう。
歌が中盤に差し掛かった頃、シェンメイの姿がぼんやりと青くひかりはじめた。村長も村の男達も気づいていない。私だけが湖から首を出し、天を仰ぐシェンメイの異変に気付いていた。
青白く光っていたシェンメイの体がどんどん白くなり、やがて、すーっと透き通ってゆく。やがて、視た。透き通ったシェンメイが、ゆっくりと天へ登ってゆくのを。
それは角の生えた水蛇というよりは、龍だった。淡い白の、儚い霧の竜。シェンメイが雷雲を引き連れてきた黒雲へ昇ってゆく。
ふいに、頬に雫が流れた。ほの暖かな、塩味のする雫だった。
その上から、冷たい滴が流れ落ちる。ぽつり、ぽつりと体に当たる雫は、やがて雨となり私の全身を濡らした。
天へ昇ってゆくシェンメイの姿は、もう、何処にもなかった。
どっと沸いた歓声の中、私はひっそりとした喪失を胸に抱きながら、ずっと雨に打たれていた。昏くなるまで、ずっと。
翌年、五月。
いつものように湖を訪れた私の前に、一匹の小さな水蛇が水面から顔を出した。シェンメイそっくりの角に、大きな紫色の瞳で、猫のように鳴く生き物。龍になったシェンメイが遺した、小さな
「おかえり、私の
―――今年もまた、
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蛟竜送り 早瀬史啓 @hayase_p
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