第5話 デンデラ

(3、4話が改変中なのでこちらを先に掲載します。3、4話を知らなくても読めます)


 リミニの町から三日歩いて、ステラとアルデバランはデンデラという村に着いた。

 並んだ畑の間に、まるでばら蒔いた種から芽が出たように農家がひょこりひょこりと疎散に見えるだけの散村で、他に目立った建物や戦争のための石垣や見張り台も見当たらない。ステラの育ったキシュの村ですら見張り台があったので、もう少しだけこちらの方が田舎だろう。あるいは、ただ平和なだけなのかもしれないが。

 稲畑で雑草取りをしている村民がいたので、アルデバランが宿の場所を聞いた。

「ああ、もしかしてあんたもキーパーかい。仲間は先に着いているよ」

 と、村民は手を止めて愛想よく答えてくれた。

 散村の宿は空き部屋を持て余した大きい農家であることが多く、キーパーのような珍しい旅人が来ると、どんな風貌であるとか、どこから来て何をしてどこへ行ったなどという噂は、農家の繋がりを通じてあっという間に村中に広がってしまう。平生に何か楽しいことが起こるでもない寂しい村にとって、それは貴重な話の種のひとつなのだ。もしアルデバランがキシュの村に来たときに野宿をせず宿をとっていたら、彼の噂もすぐステラの耳に届いていたことだろう。

「あ、いえ、私もキーパーではあるのですが――」

 と、アルデバランは村民にその言を証明するため、また素性を明かして安心させるために光る手の甲を見せた。

「その方とは関係ありません。しかしこの辺りにキーパーが来るとは珍しいですね。その方がここに来た理由もご存知ですか?」

「何でも、こっから先の森の奥で古い遺跡が見つかったそうだよ。この辺りは平和で何にもないのが特徴だったんだが、漸くキーパー様にもご興味持っていただけるようになったわけだ」

 それは貧乏な農村によくある自嘲だった。特段悪いことはないが良いこともない、そう言って酒を飲んで笑う大人たちを、キシュの村の会合の後の食事会でステラはよく見かけた。

「いえ、そんなつもりで言ったわけでは。しかし悪い理由でなくて良かったです。そのキーパーの名前は分かりますか?」

「えーっと、珍しい名前だったね。ハックションみたいな……。銀髪の男で、それから弟子もひとり一緒だ」

「ハックション?」

 村民のその言い方が可笑しくてステラは暫く笑いが止められなくなった。

「ハックションですか……」

 アルデバランもステラにつられて口角を上げながら思い当たる人物を考える。

「マクシム。マクシム・ルリエーではないですか? ならば弟子の方はカインだ」

「ああ、そんな名前だったかな。マクシムか。ハックションのことは誰にも言わんでくれよ。今みたいに笑われちゃかなわん」

 それから村民に道を教えてもらい、二人はデンデラ唯一の宿(やはり大きな農家だった)に辿り着いた。戸を叩くとおかみさんが出て、事情を話すと二人で一泊千エルトという安値で泊めてもらえることになった。

「そのかわり、遺跡を観光名所として広めておくれよ」

 と、おかみさんは上機嫌だった。遺跡が観光名所になって一番儲かるのは宿であるので、今回の遺跡の発見はおかみさんにとって降って湧いた幸運なのである。あまりに機嫌よく見えたので、うまくおだてたらタダになるかもしれない、とステラは密かに思った。

「マクシムたちは今どこに居ますか?」

「ああ、マクシムさんたちは遺跡から何やらものを運んでくるようだよ。もう少しかかるだろうね」

 おかみさんに案内された部屋はそこそこ大きく、ベッドも二つあった。アルデバランが荷物を床に置いてベッドで一息つこうと座ると、おかみさんがまだ何か話したそうに、断りもせず突然アルデバランの隣に座った。ステラはもう一つのベッドに座りながら、中年女にしなだれかかるように寄られて戸惑うアルデバランを面白可笑しく眺めた。

「ねえ、あんた、マクシムっていつもああなのかい?」

「ああ――と言いますと?」

「私の顔を見ると今日も美しいですねえだとか、ご飯を作るとこんな美味しいもの食べたものないだとか、髪型を変えたらお似合いですとか何やかんやいつも褒めてくるんだよ。最初は冗談だと流してたが、あまりにも多くてねえ。私には旦那がいるよ、ってそれとなく言っても変わらなくてさ」

 おかみさんは一昔前なら美人と言われてもおかしくない顔立ちだったが、今はどこからどう見ても生活臭のする中年女である。だが、その仕草は女盛りだった昔を思い出したようだった。上機嫌の理由は遺跡だけではなかったのである。

「ええと、それは……」

 アルデバランは言葉を詰まらせ目をくるくるとさせた。

「いや、私も本気にはしてないよ。でも、いつも誰にでもああなのか、それとも人を選ぶのか、気になってさ。私は傷つかないから、正直に言ってよ」

「まあ、彼も男ですから……、誰にでも全く同じというわけではないのではないでしょうか?」

 アルデバランは、傍から見ると顔を覆いたくなるほどしどろもどろだった。

「まあ、そうだよねえ。不細工を褒めたって仕方ないもんねえ」

 はは、と甲高く笑っておかみさんは会ったときより更に上機嫌になって去っていった。

 おかみさんが行ってから、アルデバランは、ふう、と壁の向こうまで響きそうな大きな溜息を吐いた。

「マクシムってそんなに女たらしなの?」

「うん、まあ、女たらしだ」

 アルデバランは目をパチパチとしばたたかせて言った。まだおかみさんのことがこたえているようだ。

「ステラも気をつけなさい。彼に会って初めて言われることは、十中八九『美しい』だ」

 それから二人はマクシムが帰って来るまでベッドの上で休息をとった。


 ◆


「おお、朱唇皓歯に曲眉豊頬、絵から出たような美女とはまさに君のことだ」

 マクシムの言葉は想像以上だった。部屋にやってきての第一声である。

 ステラは棒立ちのまま固まって思わずぎえっとカエルの鳴き声のような悲鳴を上げた。

「もっと素直にかわいいって言えばいいのに」

 と、今度はマクシムの横に立った黒髪の青年、弟子のカインがさらりと言った。こっちの方がよっぽど真実のようでステラは嬉しかった。

 マクシムはアルデバランと違い純白のローブを着ていた。フードは被っておらず、長身で、さらさらと揺れて輝く銀の長髪と淡い紫の目を嫌味なく衆目に晒すその姿は、端整な顔立ちをしたアルデバランより更に一段上の色男だ。

 一方カインは背は男としては少し低め、黒髪黒目の地味な見た目の男である。彼も白ローブを着ているのは彼がマクシムの弟子であるからであろう。カインも決して悪くはない顔立ちなのだが、二人が並ぶとマクシムの容姿ばかりが際立ってしまい損をしているとステラは思った。

「かわいいという言葉を使うとは、相変わらず美というものがまるで分かっていないな、カイン」

 と、マクシムは大袈裟に嘆息した。

「確かに彼女には少女特有のかわいらしさもあるが、それは彼女の美しさの一部分でしかない。見よ、彼女の澄んだ瞳はまるで冬至の日の雲一つない夜空。ほの赤い頬は命芽吹く春に咲く杏の花びら。彼女を形成するひとつひとつの要素が、正に神の仕業とも言うべき美の至極だ」

 ステラは頭の後ろに毛虫が入りこんだようなむず痒さと気恥ずかしさで心のなかで悶え苦しんだ。生まれてこの方ここまで容姿で褒められたことなんてあるはずもなく、笑い流してお礼を言うことも、からかわれたと怒ることもできなかった。

 マクシムはしゃがんでステラに目線を合わせ、右手を胸の前に出し左手を腰に添える騎士のお辞儀をした。

「マクシム・ルリエーと申します。あなたのお名前は?」

「……ステラ。……です」

「おお、名前まで素晴らしい。ステラ、僕はその名前を一生忘れないだろう」

 マクシムは再び立ち上がって誓うように胸に拳を当てた。そのままだと手の甲にキスでもされかねない勢いだったので、思わずステラは二、三歩後ろに下がった。

「そのくらいでいいかな」と、ようやくアルデバランが肩を竦めて割って入る。「久しぶりだな、友よ」

 アルデバランが右の拳を突き出すと、マクシムも右の拳を突き出してアルデバランの拳に合わせた。

「あれがキーパーの間の挨拶なんだ。僕はカイン。よろしくね」と、カインがステラに握手する。

「よろしく。あんたはしないの、あの挨拶?」

「僕はまだ弟子の身分だし、それに照れずにやるのは師匠とそれに付き合わされる友人ぐらいのものだよ」

「聞こえてるぞ」とマクシム。「それにしてもアルデバラン、こんな素敵な美人と旅をするなんて、何かあったのかい?」

「ちょっと縁があってね。ブラドックの孤児院に引き取って貰おうと思っている」

 孤児院という言葉で、マクシムもカインも事情を察したようだった。

「しかし、ブラドックはそれを承知しているのか?」

「いや、まだ話したわけではないが、彼のことだ、断りはしないだろう。それにいくらか寄付をしようとも思っている。もともとしようとは思っていたんだ」

 アルデバランの最後の言葉は見栄ではなくステラへの気遣いなのだとステラには分かった。

「そうか。では僕も寄付をしようかな。もともとしようとは思っていたんだ」

 アルデバランの口調をまねてマクシムは笑った。

「ブラドックさんってどんな人なの?」

 それは、ステラがずっとアルデバランに聞きそびれていたことだった。

「一言でいうと、人殺し……かな」

 マクシムはステラの目を見て意地悪そうににやりと口角を上げた。戸惑うステラを見てアルデバランが慌てて訂正する。

「おい、この子をからかうなよ。彼は盗賊退治のような殺しもある危険な仕事をよく引き受けるんだ。実入りがいいからそれを孤児院の運営費に充てているんだよ」

「そこが、僕は好かない」

 マクシムの口調が少し荒くなった。

「孤児院の経営は確かに立派だと思う。だが、相手がどんなに悪人であろうと――その人間を殺して良いという許可があろうと、普通はそんなに簡単に割り切って殺しの仕事をやれるもんじゃない。ブラドックのやり方は一歩間違えば悪になる危うい正義で、進んでその道を選択すべきではないと僕は思う。結果だけ考えれば彼は間違いなくアーカの中で一番人を殺している人殺しだ」

「だが同時に一番人を助けている。それも事実だ」アルデバランが反論する。

「そして、一番強い人でもあります」カインもそれに同調する。

「おいおい、お前までブラドックを擁護するのか?」

「ええ、僕の憧れです」

「参ったな。師匠には憧れていないのかい?」

 マクシムがカインを睨むと、カインはきっぱりと言い切った。

「師匠はただの女殺しでしょう? ブラドックさんが人殺しなら彼の方が格上じゃないですか」

「はっはっは。こいつは一本とられたな、マクシム」

 アルデバランが珍しく大声を上げて笑い、張りつめていた空気が少し落ち着いた。

「まあステラ。あまり人の噂で勝手な先入観を持つのは良くない。今は少なくとも俺が彼を信頼している、ということだけ理解してくれればいい。あとは彼に会ってから自分で彼の人となりを判断してくれ。ところでマクシム、そっちの仕事の方はどうだ? 遺跡が見つかったと聞いたが?」

「ああ。地下に埋もれていてまだ確かな広さが分かっていない。かなり古い王国の跡のようだ」

 マクシムは急にきりりとした仕事人の顔になった。そっちの方が何倍も格好良いのに、とステラは思った。

「この村の人間は誰もその存在に心当たりがなかった。長い年月の間に忘れ去られたのか、国が完全に滅んだ後にここに新たに村が作られたのか……。真相はまだ分からないが、地下にあったとはいえあれだけの規模の遺跡がこれまで発見されていなかったのは奇跡に近い。最初に遺跡を見つけた村人は書物に名が残り続けるかもな」

「魔道具の類はあったか?」

「ちらほらとはあったが、迂闊に触れるような真似はせずそのままにしてきた。専門じゃない人間が触ると危ないからな。その代わり、別の土産を遺跡から持ってきたよ。今僕の部屋にある。見るかい?」

「ああ、ぜひ」

 三人がマクシムの部屋に向かおうとしたので、ステラもついて行こうとした。……が、マクシムがそれを止めた。

「ごめんね。淑女にはちょっと見せられないものなんだ」

「淑女じゃないから大丈夫」

 ステラは胸を張った。……胸を張って言うようなことではなかったが。

「ええと……つまり、その」

 マクシムは気まずそうに髪を搔き上げた。

「ミイラなんだ」

「ミイラって?」

「干からびた死体のことだ。これから僕たちは死体を見に行くんだよ。まだ青葉のようにうら若い君の無垢な瞳を、死体なんかを見せて汚したくはない」

 要するにステラは子どもだから見ない方がいいとマクシムは言いたいようだった。

「なんだ。それなら私全然平気」

 しかしマクシムがミイラの眠った石棺の蓋を開けたとき、ステラはぎゃあっと本日二回目の悲鳴を上げて腰が抜けそうになってしまった。

 それは人の形をしていながら人ではなかった。

 骸骨のような顔にはまだ少し肉が残っているが、眼窩はくぼみ、鼻は削げ落ちてしまっている。頭皮には黒く長い毛がしっかりと残っており、それが不気味にミイラに人らしさを残していた。朽ちて茶色く汚れた布切れとなった衣服から突き出た腕や脚は骨と干からびた薄皮だけで、死してなお飢えて苦しんでいるようにステラには見えた。

「全然平気――ねえ」

 アルデバランは、ふん、とステラを鼻で笑った。

「僕でもこれは夢に見そうなくらい怖いですよ」

 と、カインが庇うように言った。

「お前が怖がってはいけないだろ、カイン。それからステラ、今日の君の夢は僕が先約済みだ。こんなミイラの出番はないから安心してほしい」

 マクシムは右手を胸の前に出して再びきざに騎士のお辞儀をした。

「――しかし、これを遺跡から持ってきてどうするつもりだ?」

 お辞儀を無視するようにアルデバランが尋ねる。

「本部まで持っていくのか? 結構な重労働になるぞ」

「そうしようと思っている。やはり本部が一番識者が集まっているし、分析のための魔道具も多い。指輪と薄っすらと分かる服の模様、それによく見ると服の下に首飾りをしているようで、そこから何か分かりそうだと思うんだが、それには大勢の知恵を借りないといけないだろう。それにキーパーはめいめい自分の仕事で忙しいからね。遺跡の調査のために注目を集める必要があるし、できれば国から補助も得たい。つまりミイラ運びは政治的な目論みでもあるんだ」

「なるほど……。だが」

 と、アルデバランは開けた石棺の左を見つめる。そこにはもう一つ石棺があった。

「二つ必要か?」

「どうも身なりや見つけた部屋の様子を考えるに二人は夫婦のようなんだ。そんな二人を引き裂くわけにはいかないだろ?」

 マクシムは少し気取ったように言った。


 ◆


 その日の夕食は、ステラたち四人のほか、宿の夫婦とその息子(ステラよりひとつ年が上だそうだ)も加わってかなり賑やかだった。

 マクシムとカインはアルデバランに負けず劣らずいろいろな話を知っており、ステラはお腹だけでなく頭までいっぱいになった。

 夕食が終わりお湯の大だらい風呂に入ったあと、四人は再びステラとアルデバランが泊まる部屋に集まった。ステラとアルデバランが明日の朝マクシムとカインより先に発つので、友としての別れ話とキーパーとしての情報交換をするためである。

 三人のキーパーがひとつのベッドの上に座って、最近の仕事の話や、別のキーパーについての話や、どこそこの国の情勢がどうとか難しい話をする傍で、もう一つのベッドに一人ぽつんと座ったステラは暇を持て余していた。そんなステラに気付いたカインがベッドから立って近寄ってきて、懐から拳の大きさほどの薄くて丸い透明な板を出してステラに見せてくれた。

「これは命見の氷板というものだよ」

「ひょうばん?」

「そう、氷の板と書いて氷板。と言っても本当の氷でできているわけじゃなくて、透明な石を使っている。それが判明するまでは『溶けない氷』だと思われていたんだ。これを通して僕を見てくれるかい?」

 氷板を渡されたステラは、右手で氷板の端を持って自分の右目の前に持っていき、左目をつむってカインを見た。カインの胸辺りに重なって、彼の顔ほどの大きさの橙色の炎が氷板に映し出された。

「炎が見えるだろう? それが僕の命の強さなんだよ。これには特殊な魔法がかかっていて、命を炎として見ることができる。炎が大きいほど強い生命力を表すんだ」

「すごい」

 ステラが触った初めての魔道具だった。薄い透明な石に命の炎が映し出されるなんて、一体どういう原理なのだろう。カインに重なってゆらゆら揺れる炎は、この世界がステラの知らないことでいっぱいなのだと、改めて教えてくれているようだった。

 次にステラはマクシムとアルデバランを氷板を通して見てみた。

 マクシムの炎は、姿がすっぽり隠れてしまうくらい大きく澄んだ青い炎だった。その神秘的な輝きはいかにも美男子のマクシムに合っていて、また普段彼の口から出てくる軽薄な言葉からはうかがい知れない彼の芯の部分の力強さと才能が感じられる。

 一方、アルデバランは――。

 闇の底のような深い黒色だった。マクシムと同じくアルデバランの姿を包み込んで、鈍く妖しく輝いていた。

 ステラの心が野獣に睨まれたように震えた。

「炎の色が人によって違うのは何で?」

 ステラが聞くと、驚きがステラの顔に出ていたのだろう、カインは訝しそうに眉間に皺を寄せながら答えた。

「その人の命の性質を表しているんだ。魔力の性質とも関係がある。僕の炎は橙色でしょう? それは僕が火の魔法を得意とするからなんだ。師匠は水の魔法使いだから青色の炎だ」

「じゃあ黒色は?」

「黒色だって?」

 カインは驚いて、そしてそれがアルデバランの炎の色であることを察した。

「ちょっと貸して」

 と、ステラから氷板を取り返して彼も自分で見てみた。そして、はっと小さく驚きの声を上げると、まるでそれがステラのものであったかのように氷板をステラに返して言った。

「黒い炎は初めて見たよ。魔法の性質が何かは分からないけど、少なくとも普通じゃあない。アルデバランにはまだ数回しか会ったことなくて実は良く知らないんだけど、彼ってどこで生まれてどう育ってキーパーになったか知ってる?」

「ううん」

 アルデバランの出自は前に一度聞いたことがあったのだが、「面白い話じゃないよ」とだけ言われて詳しく話してはもらえなかった。面倒臭がっているというより言いたくないという雰囲気があったので、それ以降ステラは二度と聞いていない。

 カインは自分を納得させるように言った。

「そうかあ。まあでも悪い人じゃあないから、炎の色が黒だからどうこう、ってことはないんだろうけど」

 ステラはもう一度氷板でアルデバランを見た。黒いローブのフードを深く被るアルデバランに黒の炎が合わさって、それが悪魔の姿だと言われたら信じてしまいそうだ。そういえば、アルデバランを最初に見たときの印象も悪魔の使いだった。そんな考えが頭に巡るのが嫌になって、ステラはアルデバランに向けた氷板を逃げるように動かした。……と、そのとき、ふと、氷板の端に小さな赤い炎が二つ浮かんで見えた。小指の先ほどの小さな炎だった。

「小さい炎が見えるけど、これは何?」

「ああ、それは遠くの人だよ。多分宿の人だろう。その氷板は人の生命力や魔力の性質を知るだけじゃなく、壁越しにどの方向にどんな人が居るかも分かるんだ。距離までは分からないけどね。城の警備の人なんかがよく使う、とても高いし珍しいものなんだよ」

「へええ」

 ステラは辺りを見回してみた。赤の炎とは別の方向に、今度は黄色の炎が三つ見えた。

「あ、また見えた。じゃあ近くに五人いるってこと?」

「五人?」

 と、カインは再び氷板をステラから取り返して辺りを見回した。そして何やら考えていたが、やがて、ううむ、と悩んだ声を上げた。

「黄色の三つの炎がこの家の人たちだろうねえ。三人だし、親子で寝ているんだろう。赤の二つの炎は別の人、ということになるが、この辺り、近くに家はなかったよねえ」

 ちょっとすみません、とカインはマクシムとアルデバランの会話を遮った。そして今二人が見たことを説明し、マクシムに氷板を渡した。マクシムは氷板で辺りを見回して赤の炎を確認すると言った。

「夜盗の可能性もないとは言えない。二人で見てくるよ。カイン、護身用の短剣は持ってるね」

 はい、とカインはローブの前を開けて腰の短剣を見せた。そして二人はぴりっとした空気を纏って部屋から出て行った。

 部屋には、ステラとアルデバランだけが残った。

 夜盗のことも気になってはいたが、それ以上に気になることがステラにはあった。

「まあ、あの二人なら、心配することはない」

 と、ステラの曇った表情を見てアルデバランが言う。ステラは何か言おうとするが、言葉が出てこない。

 そんなステラを見て夜盗のことを怖がっていると思ったアルデバランは、ステラの隣りに座ってきて、頭をぽんぽん、と軽く撫でた。

「大丈夫、万が一夜盗がこっちへ来ても、俺がいるから」

 やはり、こんな優しい人が悪魔のはずがない、とステラは思った。

 命の炎が黒かったからといって、どうってことはない。

 今、ステラを安心させようと隣に座って笑みを作る、目では見えない優しいアルデバランの心こそ大事なのだ。

 ステラも負けじと笑顔を作った。

 その時だった。

 ぎゃあ、とカインの声がした。

 続いて、ガシャン、という何かの割れる音がして、次にマクシムの耳を割くような大声がした。

「アルデバラン! 僕たちの部屋だ!」

 アルデバランは一瞬の逡巡のあと、ステラに「ついて来なさい」と言った。ステラを一人部屋に残すほうが危険と判断したのだ。

「アルデバラン! 早く!」

 マクシムの声が響く廊下を二人は走った。

 マクシムたちの泊まっている部屋の戸は開いていて、中に入るとカインがマクシムに左肩を押さえられて倒れていた。カインの肩からはおびただしく血が流れており、彼の白いローブは油灯の光のもとで赤黒くてらてらと光って見えた。

「何があった?」

「ミイラだ。生きていた」

 マクシムが蓋が開いた石棺を指差して言った。

「馬鹿な」

「疑っている暇はない。奴はあの窓から逃げた」

 と、マクシムは今度は破られたガラス窓を指差した。

「僕はカインの手当をしたい。すまないが追ってくれないか。このままだと死人が出る」

 と、マクシムは命見の氷板をアルデバランに手渡した。アルデバランはミイラを追ってすぐに走り出そうとしたが、踵を返して言った。

「石棺はもう一つある。赤の炎は二つじゃなかったか」

「ああ、そうか。先にそっちの止めを刺してくれ」

「いや、逆だ。止めを刺すな」

「なぜだ?」

「考えがある。とにかく行ってくる。ヴェンテ・ケ・ポルト・ニ・メイ」

 アルデバランの呪文で辺りにびゅうと風が吹いたかと思うと、次の瞬間にはアルデバランは窓の外に飛び去っていた。

 それからステラがマクシムの代わりにカインの左肩を押さえ、その間にマクシムがベッドのシーツを破って包帯を作った。

 ほどなく、何事かと宿の主人が走ってやって来て、マクシムは事情を説明し、いらない布と縄と肉を持ってくるように、それから他の二人を部屋に呼ぶように頼んだ。主人は三回目の説明でようやく事態を把握すると血相を変えて部屋を出て行った。

 シーツの包帯を肩にきつく巻くとカインの出血はとりあえずは収まったようだった。マクシムはカインを抱き運んでベッドの上に横にし、破ったシーツの残りで血で汚れた彼の顔や手を優しく吹いた。

「情けないです」とカイン。

「不意打ちだった。僕だって避けられたか分からない」

 マクシムは弟子を思いやるように言った。

 やがて宿の家族が急いで布と縄と肉を持ってやってきた。

 マクシムはまず縄を手に取るとミイラが残っている方の石棺を開けて一瞬でミイラの手足を縛り上げ、再び石棺に入れて蓋をした。

「アルデバランの考えはわからんが、これでひとまず安心だ」

 そしてマクシムは宿の家族に事情を説明した。

「ご迷惑をおかけしてしまい、心よりお詫びいたします」

 マクシムは深く頭を下げた。

「じゃあ、そのミイラはまだ近くにいるかもしれないんだね」

 宿のおかみさんは震えた声で言った。

「ええ、今アルデバランが探しています。安心してください、と軽薄なことは言えませんが、ここに滞在している我々全員が最善を尽くします」

「その縛ったミイラは……そいつは動かないのかね?」

 今度は宿の主人が半ば怯え、半ば怒ったように尋ねた。

「何重にも縛ったので大丈夫です。それに――」

 ひゅっと音がしたかと思うと、宿の家族たちと向かい合っていたはずのマクシムが宿の主人の真後ろに立っていた。

「警戒していればこのとおり、ミイラが動くより早く首を落とせます」

 マクシムは、呆気にとられて今夜とった風呂の大だらいのように口を大きく開けたままの主人の手から肉を取って、カインに向かって放り投げた。

「乱暴だなあ」

 カインは右手だけで難なく肉を受け取り、

「血を失ったので肉が必要だったのです。ありがとうございます」

 と、宿の主人に礼を言い燻製肉を塊のまま食べ始めた。回復のためなのか何やら呪文を唱えながら食べ、水も魔法で手のひらの上に作り上げて飲んでいた。

 それからステラたち六人は暫く無言の時を過ごした。ひとつのベッドはステラたちが腰掛(カインだけは横になっていた)、もうひとつのベッドには宿屋の家族が腰掛けて向かい合い、まるで罪人の判決を待っているような張り詰めた空気の中で、永遠にも思えるような長い時間が流れていった。

 どれほど経ったのか、突然、夜の闇から湧き出るようにアルデバランが窓から戻って来て、

「すまない、逃がしてしまった」

 と、息を切らしながら言った。

「村の安全は?」とマクシム。

「ああ。村人に――」

 と、そこで宿の家族の存在にようやく気付いて一礼したあと、咳払いをして言い直した。

「村の人々に注意して回ってきました。風纒いの魔法もかけてきたので、今夜一晩は大丈夫でしょう」

 ふう、と一息つくと、アルデバランは閉まっている方の石棺の蓋に腰掛けた。もうそこしか休める場所がなかったのである。

「で、それ――、どうするつもりだ?」

 と、マクシムは腕を組んだまま顎で石棺をしゃくった。アルデバランは座ったまま石棺の蓋をぞんざいに平手で叩くと言った。

「ずっと昔に耳にしたことがある。あれは反魂の法だよ。死ぬ前に命を心臓に閉じ込めて、死した後に人を食って復活するんだ。そうして蘇った人を石の鬼と書いて石鬼(せっき)と言い、それから人を食い続けて生きるようになる」

「石の鬼?」

 ステラが聞いた。

「石か実か。即ち、永遠の命か、一時の知恵か。かつて白神グノは我らにふたつのうちのひとつを与えると仰った。我らの祖先は実を選んだので永遠の命は得られなかった。石鬼はその選択に反して、石、即ち永遠の命を得ようとする者だ。しかしやはり元は人なので、放っておけば体は朽ちて動けなくなる。だから体を保つために彼らは他人の命を食うんだ。いつか誰かに首をはねられるまではね……。さて、大事なのはこれからなんだが、石鬼もある程度は昔のことを覚えているはずだ。まして、石鬼となってまで共に生き続けようとした相手だろう、忘れるはずがない。つまりこの石棺の下にいるのは我らの人質であり切り札なのさ」

「石鬼……、いや、不勉強で知らなかった」

 マクシムは恥じるように首を振った。

「とすると、あの石鬼はここに戻って来るわけか」

「ああ、そうだと思うが、楽観視してはいけない」

 と、アルデバランは立ち上がって石棺の蓋を開いた。ミイラはまだ動き出してはいないようだった。

「これは……女性のようだな。さすがマクシム。よく縛ってあるな」

「女性を縛るのは趣味じゃないんだがね」

「そうかい。手馴れている様子だが。これなら……大丈夫だな」

 と、アルデバランは右手で腰の短剣を取り出して自分の左腕を軽く切った。ポタポタと血が流れ落ちて、ミイラの口に入った。

「何をする? 復活させる気か?」

 マクシムが驚いて怒鳴った。

 アルデバランはマクシムに構わず左腕から血を滴らせ続けながら言う。

「石鬼に知性があればいろいろ聞き出せる。もし男がこの女を見捨てていたとしても男の趣味や嗜好が分かれば幾分か捕まえやすくなるだろう。ああ、そうだ、命見の氷板で見ていてくれないか。俺の炎が半分になったらさすがにやめるから」

 アルデバランが懐から命見の氷板を取り出してもマクシムが動かなかったので、ステラが代わりに動いて命見の氷板を受け取った。氷板で覗いてみたが、まだアルデバランの炎の大きさはさきほどとほぼ変わりない。

 マクシムはアルデバランの行動に不同意だったようだが止めはせず、暫くアルデバランの血の滴る音だけが部屋に響いた。

 長く時が経ち、誰もがもうこのミイラは復活しないのではないかと疑い始めたころ、獣の悲鳴と呻き声の混ざったような声を上げて、ミイラが石鬼となって石棺の中で動き始めた。宿の家族はがたがたと震えて部屋の隅に寄り、マクシムが彼らと石棺の間に立った。カインはベッドに寝たままだったがいつの間にか短剣を取り出しており枕元に座ったステラの方に跳びかかってくればいつでも相手をするという様子だった。ステラはカインの枕元に命見の氷板をそっと置いた。もう命見の氷板が用済みだったのもあるが、何よりこれ以上命見の氷板でアルデバランの禍々しく黒々と燃える炎を見たくなかった。

 アルデバランが左腕を下げた。石鬼が上半身を起こし、ううと唸って血を欲しがった。眼窩には血走った生々しい目が復活している。

「血が欲しいか」

 アルデバランが叫んだ。

「血が欲しくば言え。お前の名は何だ」

 しかし石鬼はううと唸るだけで、アルデバランの言葉を理解しているようには見えない。

「失敗だ、アルデバラン」

 マクシムが言った。

「石鬼は知性を持たないようだ。永遠の命を得る代わりに、知性を全く失ったに違いない。早く首をはねよう」

「いや」

 と、アルデバランは首を横に振った。

「すぐには殺さない。暫くこいつと外へ行くから、お前は皆を守っていてくれ」

 そうして、アルデバランは手足を縛られたままの石鬼を肩に担いで、また窓から闇に消えていった。少しの間があったあと、さっきより大きな石鬼の鳴き声が聞こえた。それは人間の女性の悲鳴に近くなっていて、甲高く不快にステラの耳に響いた。

「嬲って男の方を呼び寄せているのか」

 マクシムは唇を噛み締めて眉を固く寄せた。

「怪物を傷めつけて愛を試しているということか?」

 宿の主人が恐る恐る言った。

「それでは……それでは、悪がどっちか分からない」

 ぎゃあ。

 ぎゃあぎゃあ。

 ぎゃあぎゃあぎゃあ。

 心を引き裂くような声がひとしきり夜の闇を巡った。

 宿の家族たちは耳を塞いで耐えていたが、ステラたち三人は耳を塞がなかった。一番辛いのは声を間近で聞いているアルデバランだと三人は分かっていた。

 やがて悲鳴がぐええ、ぐええと低くなった。石鬼が力を無くしてきたようだった。

 ぐおおと、今度は別の低い唸り声がした。そのあと、ぐぶ、ぐぶ、と二回小さく声がしたあと、全く何も聞こえなくなった。

 暫くして、アルデバランが窓から出てきた。

「二匹とも殺せた。いま念のため死体を燃やしている。マクシム、骨を拾うのを手伝ってくれ。ステラ、俺たちの部屋へ戻っていなさい。宿の皆様、お騒がせいたして申し訳ありませんでした」

 と、アルデバランは頭を下げた。ステラと宿の家族はそれまでの壮絶な悲鳴や叫び声の余韻でまだ呆然としつつ、マクシムたちの泊まっている部屋を出た。

 廊下を歩きながら、宿のおかみさんがステラに小声で囁いた。

「あんたが何であの男と旅をしているのか知らないけど、よしたほうがいいよ。今夜一番化け物じみていたのはあの男だよ」

 ステラは何も言うことができず、そのまま部屋に戻った。それから長い間待ってもアルデバランは帰ってこなかった。

 ステラが油灯の光に太陽の光の子どもを見つけ夢と現の境目が分からなくなっていた頃、アルデバランがふらりと帰ってきて、もう動くのもごめんだという様子でバタリとベッドに倒れ込んだ。

「マクシムと一緒に村の人々に謝って回って来たんだ。それに体に付いた血も洗ってきた。遅くなってすまなかった」

 アルデバランは枕に顔を埋めたままそう言った。

 大丈夫? とステラは言おうとしたが思い直してやめ、油灯の光を消してアルデバランのベッドに潜り込んだ。

 アルデバランはいいともだめとも言わずステラに背を向けている。

 ステラがアルデバランの背をぎゅっと抱き締めると、ステラの手を冷たい大きい手がぎゅっと掴んでありがとうを言った。

 そのまま二人は眠った。その日の夢にはミイラになったマクシムが出てきたので、ステラは起きてから大笑いした。

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放浪のアルデバラン 沢尻夏芽 @natsume_s

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