放浪のアルデバラン

沢尻夏芽

第1話 キシュ

1 キシュ


 ステラは今日も河原で宝石を磨いていた。

 もう半年になる。

 いつもの平たい岩に宝石を押し付けて、力を入れ過ぎず、でも宝石がちゃんと削れるように、ぐっぐっぐっと磨く。昔はでこぼこでざらざらだったこの岩の表面も、今は赤ちゃんの肌のようになめらかで、たまに、どちらを磨いているのか分からなくなることがある。

 ステラは岩の表面を人差し指の腹で撫ぜてみた。削られて出た岩と宝石の粉の感触がとても心地良い。それは今日これまで磨いたぶんの、ステラの努力の証だ。できればもっと磨いていたかったが、そろそろ仕事に戻る時間になる。

 ステラが宝石を磨ける時間は昼食から後の半刻だけである。正確には、この時間は『休息の時間』というこの地方の習慣で、文字通り休息しないといけないのだが、いつの頃からかステラにとっては遊び時間になっていて、そのお陰で、こうして河原に来ても母親に何も言われない。でも、残りの時間は、畑仕事やら、山菜採りやら、三羽いる鶏の世話やら、藁や麻編みの内職やら、とにかくずっと働きづめで、ちょっと手を止めるだけでも母親に小言を言われる。

 ズボンのポケットに宝石をしまい、家に帰ろうと顔を上げたところで、ステラは思いがけず息を呑んだ。こちらにやってくる人影があったのだ。

 その人影は闇夜のように黒いローブを着ていた。フードを顔がすっぽり隠れるくらい深く被っていて、右手に、異様に大きくて黒いケースを持っている。あまり重くはなさそうなのに、子供なら入れるくらいの大きさなのである。

 はっと気付いて、ステラの足が竦んだ。本当に子供を入れるのかもしれない。生贄に子供を使って悪魔を呼ぶ呪術の話を、昔誰かがしてたっけ――。

 暫く考えたあと、人影と距離を保って、うんと遠回りをして帰った。目一杯走ったけれど、それでも帰りが遅くなり、母親にうんと叱られた。


 翌日、いつもの河原の磨き場に行ってみると、またそこに例の黒いローブの人が居た。大きめの岩を椅子にしてキャンバスを広げ、何やら絵を描いているようだった。

 何てことはない、悪魔の使いの正体は絵描きだったのだ。きっとここを通り過ぎたとき、河原の何かが気に入って、宿をとったあと戻ってきたのだろう。どうせじきに絵は描き終わるとステラは考え、その日は宝石を磨くのを諦めて、踵を返して家に帰った。

 しかし、その次の日も、そのまた次の日も、絵描きは河原で絵を描いていた。

 ステラはこれには参ってしまった。

 このまま続くようであれば宝石の磨き場を変えなければならない。しかし、いつも使っている平たい岩は宝石磨きに最適で、それに愛着もあるので、できればあの岩を使いたい。

 思い切っていつまでそこで絵を描くのか尋ねようと、ステラが絵描きに近付くと、

「毎日ここに来ているね」

 と、振り向かず筆を動かしたまま絵描きの方から話しかけてきた。

「あんたこそ」ステラは上品な言葉を知らない。

「そうだね」

 そう言って絵描きは笑い、絵を描く手を止めてフードを下ろした。金髪翠眼の美青年だった。ステラの頬が少し熱くなった気がした。

「何を描いてるの?」

「ここの風景だよ。それから、あんたじゃなくてアルデバラン」

「へえ、何か長くて変な名前だね。私はステラ」

「短くて良い名前だね」

 皮肉を込めてアルデバランはまた笑った。そしてヤドリギの葉のように目を細めて、じいっとステラを見つめた。

「うーん、十……二歳?」

「残念、十一歳だよ。ねえ、絵が完成するのにあとどれくらい時間かかる?」

「四日はかかるかな。その間はずっとここで寝泊まりかな」

「四日も?」

「何枚も描いてるからね、ほら」

 と、アルデバランは座ったまま隣に置いてある黒いケースを開けて中から絵を二枚取り出し、右手に一枚、左手に一枚、上から摘んで持ってステラに見せてくれた。

 四方がステラの指先から肘の長さくらいの大きさの絵だった。岩や木の輪郭まで鉛筆で細かく描き込まれていて、水彩絵の具がそれを淡く彩っている。美しさよりは風景を正しく写すことに重点をおいた絵のようだった。

「あ、ごめん、こうだった」

 とアルデバランは右と左の絵を持ち替えた。

「あっ」

 納得と驚嘆の声がステラの口から漏れた。二枚の絵は繋がっていたのだ。

「長い絵を書いているんだ」

「うーん、どちらかと言うと、丸い絵かな」

 こうするんだ、とアルデバランは絵を自分の方にくるりと向けて、岩の椅子の上でぐるぐると回ってみせた。

「へーえ、変な絵。でもどうしてここの絵なの?」

「そう頼まれたんだ」

「誰に?」

「依頼主を明かすのは気が引けるが――。まあ教えて怒られるようなもんでもないか。さるご老人にだよ。ここは少年時代の思い出の場所なんだそうだ」

「分かった。その人、病気で動けないんでしょ? だから景色を全部見せられるように丸い絵なんだ」

「動けない理由はもう違うけれど、丸い絵の理由は当たりだね」

「ふーん?」

 病気でなければ怪我だろうか、と思ったけれど、好奇心で根掘り葉掘り知ろうとするのもその老人に悪い気がしたので、ステラはこれ以上尋ねることはやめにした。

「じゃあ、それが完成するまでずっとここに居るんだ」

「そういうことになるね。君はどうしてここに来るの?」

 ステラは返答に困った。宝石を磨いているなんて、誰にも知られたくなかった。正確に言えば、その石は宝石ではなく原石である。半年ずっと磨いていたとはいえ、まだところどころ滑らかとは言い難く、輝きも鈍い。

「ステラは、原石だよ」

 というのが亡くなった父が酔っ払った時の口癖だった。

「磨けば光る宝石になる。原石より宝石は何倍も値が高いんだ。だからちゃんと外も内もよく磨くんだぞ、我が娘よ」

 そう言って父はステラの頭をよく撫でた。酒臭かったが、悪い気はしなかった。そんな父は流行病で一年前に亡くなった。一家の大黒柱を失った母子二人の暮らしはたちまち厳しくなった。

 それから半年経った頃、家の庭の隅でこの原石を見つけた。原石を包むように付いていた泥を何気なく拭いて、その表面に白色の鈍い輝きを発見したときの衝撃を、ステラは今でも昨日のことのように思い出せる。全身の毛が逆立って、何か変なものでも食べたように動悸が暫く止まらなかった。もしかしたら亡くなった父からの贈り物なのではないかとステラは思った。

 ステラの拳より一回り小さい大きさのその原石は、売ればきっと何ヶ月も食べていけるだろう。だがステラはすぐに原石を売らずに磨いて値打ちを上げることにした。母に原石のことを話せばすぐに売ろうとすると思ったので、内緒で半年間ずっと原石を磨いた。まだ磨きは足りていないが、ステラの心の中ではそれはもう宝石だった。

「……?」

 ステラの返答が遅いので、アルデバランは不思議そうな顔をする。

「魚を採るため」

 ステラは嘘を吐くことにした。

「ふうん……。でもここの川の魚は小さくて味も美味しくないよ」

 しまった、とステラは思った。ここ数日この場所に寝泊まりしていれば、ここの川の魚が食べられたものでないことぐらいアルデバランも知っているはずだ。ステラは引くことができず嘘を重ねた。

「育ち盛りだからお腹空いちゃって。味より量が優先なの」

「……。なるほどね」

 アルデバランは含みのある笑みを作る。

「ところで、ここによく来るなら、あそこの岩について何か知らないかい? ひとつだけ何やら磨かれた跡があるんだけど」

(やられた! この人、知っててわざと尋ねたんだ)

 焦ったステラがその場から逃げ出そうとすると、アルデバランは「大丈夫」とステラを引き止めた。

「俺は『アーカ』のキーパーだ。誰かから物を盗んだり、秘密を言いふらしたりはしない」

 アルデバランが右手の甲を突き出すと、手の甲は鈍く光り輝き、その上に複雑な模様が浮かび上がった。何十、何百もの光る弧が絡み合って、何かの象徴になっている。ステラにはそれが根元の方に大きな穴を開けた大樹のように見えた。

 模様そのものはステラも初めて見るのだが、光る手の甲の模様はキーパーの証だということは、世界の誰もが知っている常識だ。キーパーとは、平和を守り、文化を守り、財宝を守る人々のことである。ゆえに彼らは傭兵であり、研究者であり、財宝を求める探検家でもある。この大陸には四つのキーパーの組織があり、それぞれに特色があるが、その中でも『アーカ』は一番名声が高く、世間の皆が『アーカ』のキーパーに憧れ、敬っていた。

 ステラはほっと胸を撫で下ろして、宝石のことを説明することにした。本当のことを言えば、ステラは誰かに話して自慢したかったのだ。半年間の宝石磨きよりも、秘密を誰にも話せなかったことの方が辛かったかもしれない。

 積もり積もった半年分の欲求をアルデバランにぶつけるように、ステラはこれまでの出来事を話した。父の話は、なるべく暗くならないように。宝石の話は、ちょっとだけ大袈裟に。

 ステラが話を終えると、アルデバランは、

「その宝石、ぜひとも見てみたいな」

 と、言った。ステラは宝石を見せるのを少し躊躇したが、人懐こく笑顔を作るアルデバランを信じて、ズボンのポケットから宝石を出し、アルデバランに渡した。

 アルデバランは宝石を右手に持つと空に向かって掲げた。半透明の宝石が太陽の光を乱反射する。それを見て、アルデバランは

「綺麗だね」

 と言った。

 ステラは自分の半年分の苦労を褒められた気がして嬉しくなった。アルデバランに宝石を返してもらったあとも、暫く顔のにやつきがおさまらなかった。

 それから昼休みが終わるまで、ステラは絵を描くアルデバランの近くに適当な岩を見つけてそこで宝石磨きをした。いつもの平たい岩はもうステラにはどうでもよくなっていた。


 ◆


 翌日は母が風邪をひいてステラは宝石磨きどころではなかった。

 母の看病に食事の用意に日々の仕事も合わせて、ステラは休みなく働いた。だが翌日の朝になっても母の熱はいっこうに下がらず、病状は悪化するばかりだった。

 ステラの家には薬を買うほどの余裕はない。ステラは時が来たと思った。

 ステラの家から四軒向こうに雑貨屋のガレオンの店がある。売り物は家具や農具が大半だが、高価な装飾品も少しだけ扱っていた。

(あそこなら、買ってくれるはず)

 本当ならばリボルノの町の宝飾店に行った方が高く売れるだろう。しかし今のステラにそれだけの時間はない。ステラは右手に宝石を握りしめてガレオンの店に走った。これで別れとなる宝石の手触りを惜しむ心を振り払うように、ただただ走った。

 ガレオンは、これから店を開けるところだったのだろう、店の前で大きなあくびをしながら背伸びをしていた。大柄なガレオンが背伸びをすると、まるで熊が立ち上がって威嚇しているようだ。

 ステラは朝の挨拶も忘れて叫んだ。

「ガレオンさん! この宝石、買って!」

 怪訝そうに眉を顰めるガレオンに、ステラは宝石を渡した。渡してから、ひょっとしたらガレオンの店に宝石を買うほどの蓄えはないかもしれない、という失礼な考えがステラの頭によぎった。

「どうしたんだい、これ?」

「いいから、いくらになる?」

「うーむ」

 ガレオンは自慢の口髭をざらざらと撫ぜながら、宝石の手触りを確かめたり、片目で石の透明度を確認したりしていたが、やがて、

「これは、どうも特殊なガラスだね。残念ながら買い取るほどの価値はないよ」

 と、申し訳なさそうに言った。

 連日の疲労と心が急に谷底に落とされたような驚きで、ステラはその場でばたりと倒れてしまった。


 ◆


 気が付くとベッドの上だった。隣にガレオンが居て、起きたステラを見てくしゃっと目尻に皺を寄せて顔を綻ばせた。

 ステラははっとして叫んだ。

「私、どれだけ寝てた? 母ちゃんが病気なの!」

「ほんのちょっとだよ。疲れてたんだねえ、きっと。それで薬を買うためにあのガラス玉――まあ、ステラは宝石だと思っとったんだろうが――あれを売ろうとしてたのかい?」

 雛鳥の巣を支える枝のような優しいしわがれ声でそう問うガレオンに、ステラは詳しく事情を説明した。途中から自分の情けなさと不甲斐なさで涙が出て止まらなかった。

「そうかい」

 ステラの言葉を聞き終わると、ガレオンはそう言ったきり暫く黙っていた。ステラがお礼を言ってベッドから起きて家に帰ろうとすると、ガレオンはステラを引き止めて、まるで商人が旅人と取り引きするような、商売っ気たっぷりという口調で、

「さっきの『宝石』、十万エルトでどうだい?」

 と、言った。

 慎ましく暮らせば二ヶ月食べられる金額だった。母の薬を買っても、まだ半分残るだろう。

「……でも……、でも」

 思いがけない申し出に、ステラは再び涙が出た。

「宝石も、詰まるところは石だ。物の価値は人それぞれ。ステラが半年かけて磨いた宝だろう。わしはそれが欲しいんだ」

 人の厚意というものを、これほどありがたいと思ったことはなかった。ステラは涙が枯れるほどにガレオンに感謝した。ガレオンに何度もお礼を言って『宝石』と引き換えに十万エルトを貰うと、その足で医者に行き、薬を買って家路を急いだ。


 ◆


 だが、運命はときに悪魔のように無慈悲である。薬を飲ませてもステラの母親の体調は良くならず、むしろどんどん悪化して、二日後に亡くなってしまった。

 本当にあっけなかった。ステラは自分で母の墓を掘って母の遺体を埋めた。村の皆が手伝ってくれると言ったが、それを断って一人で堀った。

 それからステラは墓に植える花の種を買いに出かけた。それがこの地方の俗である。疲労は頂点に達していたが、休んでいたくなかった。

 花を栽培している村外れの農家に向かって歩きながら、これからどうなるのだろう、とステラは思った。

 村長がステラを引き取ると申し出たが、断った。いつもぼろ着の村長の家に厄介になるより今の家に住んだほうが気が楽だし、家の三羽の鶏も処分したくなかった。今までのように、毎日、朝から晩まで一日中仕事をしていれば、なんとか食べてはいけるとは思う。薬を買って残った五万エルトもまだ手元にある。十五になればもう一人前とみなされるのだから、それが少し早まっただけだ。畑で村の人と毎日会うし、全くの孤独でもないだろう。

 そうして五年、十年、二十年……と過ごすのだろうか。結婚なんてできそうにないし、いったい、何を楽しみにして?

(いっそのこと、母ちゃんと一緒に死んでしまえば良かった)

 一度そう考えると、本当にその方が良かった気がして、ステラはどうしようもないくらいに気分が落ち込んで泣きたくなった。

 そのとき、ふと、道の先に見慣れた人影を見た。黒いローブにフードを深々と被る姿は、間違いなくアルデバランだ。アルデバランもステラに気付き、駆け寄ってきた。

「やあ」

 事情を知らないアルデバランは、屈託のない笑みでステラに話しかける。

「会えて良かった。探してたんだよ。絵を描き終わったんで、もう次の村へ行こうと思ってるんだ。あれから河原に来なかったけど、何かあったのかい」

「あれがガラス玉だって知ってて黙ってたでしょ!」

 道端に石があったら投げてしまうような勢いで、ステラはアルデバランに怒鳴った。それが八つ当たりだとステラは分かっていたが、心の堰が切れてどうにも止められなかった。

「私のこと子供だからって馬鹿にして! 無駄なことしてるって、心の中で笑ってたんでしょ!」 

 ステラにはそうとしか思えなかった。巷間に誉れ高いキーパーが、宝石とガラスを見間違えるはずがない。

「ガラスだって? あれが?」

 アルデバランはきょとんとした顔をした。

「俺の見立てでは、ちゃんと磨けば百万エルトはすると思ったんだがな」

「ほんと?」

 ステラは石でがんと頭を殴られたような気分だった。同時に自分の愚かさに気付いてぶるぶると足が震えた。

「いや、俺は宝石が専門でないから確かだとは言えない。だがあの輝きは、ガラスではないと思ったんだがなあ」

「ちょっと一緒に来て!」

 アルデバランの手を引きながら、ステラは生まれて初めて人に殺意を抱いていた。


 ◆


「ガレオンさん! ガレオンさん!」

 ステラは、アルデバランが逃げないよう左手でぎゅっとアルデバランの右手を掴みながら、右手の拳でガレオンの店の戸を壊れるほど叩いた。

「ガラスだと言われて安値で売っちゃったのかい」

 アルデバランは事情を察したようだった。

「そう。たったの十万エルト」

 ステラは手の骨が折れるくらい強く戸を叩き続けた。怒りがあとからあとから湧くようにこみ上げてきて、どうにも抑えることができない。

 一番許せないのは、騙されながらそれを善意だと思い感謝していた自分だった。

 何と無知で世間知らずだったのだろう。

「馬鹿みたい、馬鹿みたい、馬鹿みたい」

 ステラは取り憑かれたようにそう繰り返して戸を叩き続けた。だが、ドンドンと乱暴な音だけが近所にむなしく響くばかりで、一向にガレオンが出てくる気配はない。

(逃げたんだ)

 ステラは直感的にそう思った。

「呪ってやる! 殺してやる!」

 戸を思いっきり蹴飛ばそうとして、アルデバランに後ろから羽交い締めにされた。

「やめなさい。その人が君の宝を不当な値段で買ったのなら俺もキーパーとして見過ごせない。協力するから、まずは落ち着いて」

 そのとき、売り物の大きな藁籠を六つ重ねて前に抱えたガレオンがよろよろと通りから歩いてきた。

 アルデバランに羽交い締めにされているステラを見たガレオンは、血相を変えて藁籠を道端に放り捨てて走ってきた。慌ててアルデバランはステラから両腕を離し、手のひらを見せて敵意がないことを示す。

「お前、ステラに何をしようとしていた!」

 右腰の短刀を掴んでガレオンは叫んだ。大人の男の本気の怒りだった。終始ガレオンの気迫に圧されながら、アルデバランは事情を説明した。

「……それは申し訳ないことをしたね」

 全てを聞き終えて、ガレオンはこの世の終わりが来たような顔をして頭を掻いた。

「本当にガラス玉だと思ったんだよ。誓うよ。……しかし参ったな、手元にあったらすぐに返すんだが、昨日ルーベンが娘を連れて来たんでその娘に見せたらえらく気に入ってね、あげちゃったんだよ」

「ルーベンとこね」

 ステラはすぐに走り出そうとした。ルーベンの家こそ、ステラが花の種を買いに行こうとしていた農家だった。それは単なる偶然ではなく、花や香木や香辛料に使う植物など、普通の農家と少し違う特殊な商品を扱うルーベンは、商売のことでガレオンと付き合いが深く、よく会っているのだ。

「ちょっと待った」

 アルデバランがステラの手を引いて止めた。

「ただのガラス玉だと思ったものに十万エルト払ったんですか?」

「それは……」

 ガレオンが言葉に詰まっている様子だったので、代わりにステラが説明した。

「母ちゃんの薬代。無駄になっちゃったけどね」

 ステラの言葉の意味を理解したアルデバランは、ステラの右頬を強くはたいた。

「君のお母さんが生きていたらこうしていたと思う」

 じわりと右頬に痛みが走った。

 涙が出た。

「十万エルトあります」

 アルデバランは懐から札束を取り出して、ガレオンに手渡そうとした。

「いや……、あんたに貰ういわれはないよ」

 ガレオンは首を振って受け取ろうとしない。

「深く考えずに宝石だったと口に出した俺が悪いのです。大きくなったとき、ステラは自分を許せなくなるでしょう。ですからあなたからステラへの恩を買いたいのです。あなたはこの十万エルトの使い方を知っている方ですから惜しくはありません。ぜひ」

「……なるほど。つまりこれを受け取ることでお前さんがステラの母親の薬代を出した恩人になり、わしはステラからただで宝石を奪った悪人になるわけだ。よし、頂戴しておこう」

 ガレオンはにやりと笑って札束を受け取った。

 アルデバランはガレオンに一礼して、終始ぼうっと立ったままのステラの手を引いた。ステラは暫くどうしていいか分からずただ手を引かれるままに歩いたが、ふと後ろを振り返って億劫そうに散らばった藁籠を拾うガレオンを見ると、膝と額を地面に擦り付けて深く深く謝らずにはおれなかった。


 ◆


「ルーベンさんの家を教えてくれるかな」

 ガレオンが去った後もいつまでも額を地面に付けるステラに、アルデバランが言った。

「宝の運命を最後まで見届けるのもまたキーパーの仕事だ」

 それでも頭を上げないステラの両脇を、アルデバランはひょいと持ってステラを立たせた。そして懐から水色の綺麗な手巾を取り出すと、汚れたステラの額と手と膝を拭いた。

「行こう」

 アルデバランは右手を出してステラの左手をぎゅっと握った。ステラは頷いて歩き出した。

「さっきの十万エルトなら心配しなくていい。キーパーはお金持ちだからね。まあ、全員とは言えないが、少なくとも俺は金を持っている」

 ステラの左手から、アルデバランの暖かさが伝わる。

 体温だけでなく、心の暖かさも。

 それは頭が怒りでいっぱいになっていたときには気付かなかったものだった。

「キーパーとして宝に関わっていると本当にいろいろなことが起こる。だからキーパーは面白い。……と言っては、言葉が悪いか。ホウセンの皿の話を聞いたことがあるかい?」

 ステラは首を振った。

「ある貴族が戦争のあおりで遠くに逃げることになった。屋敷は大騒ぎ。急いで値打ちのあるものを持っていく準備をしなきゃならなかった。その中にホウセンの皿もあった。名匠の作った皿だ。屋敷のお手伝いはそのホウセンの皿が割れないように紙に包んで箱に詰めた。……さて、どうなったと思う?」

「……割れちゃった?」

「ホウセンの皿は偽物だったのさ。ところが、その貴族のご先祖様は有名な画家で、くしゃくしゃになっていた紙は未発表の絵だった。お手伝いが落書きだと思って皿の包み紙にしていたものは、皿より高価だったってわけさ」

 何が宝で何が宝でないかを見分けるのは本当に難しいよ、とアルデバランは言った。

「この世界を愛する人にとってはこの世の全てのものが宝とも言える。逆にこの世界を嫌う人にとっては、全てのものがゴミだ。ただ、一つ確かなのは、宝を宝と思う人にとっては、それが失われるのは本当に悲しいことだということだ。俺たちはその悲しみからみんなを守るために居るんだよ。それがキーパーだ」

 そう語るアルデバランは、本当に誇らしそうだった。

「あ、そうだ、もう一つ面白い話を思い出した。……」

 そうしてアルデバランはルーベンの家まで行くみちみち、ステラの落ち込んだ気持ちを上塗りするように、キーパーとして見聞きした面白い話や奇妙な話いくつもいくつもしてくれるのだった。


 ◆


 ルーベンの家に着いた。戸を叩くとすぐにルーベンが来て戸を開けてくれた。

「あの……」

 そこでステラはどう説明したものやら困ってしまった。もし本当のことを話せば、宝石を返して貰えるわけがない。

「どうも、私、『アーカ』のキーパーでして」

 アルデバランが助け舟を出して、ルーベンに光る右手の甲を見せ、石の価値をうまく誤魔化しつつ、大幅な脚色を交えて事情を説明した。

「――結果、この娘、ステラの『光る宝の石』をガレオン氏が拾い、それがこちらに来てしまったのです。私は宝を守るキーパーとして、宝をきちんともとの持ち主のもとに返すべく、こちらに参上いたした次第です」

「ああ、なるほど」

 ルーベンは得心したようだった。

「あのガラス玉――じゃなくて『宝石』はステラのものだったのですね。もちろんお返ししますよ。少々お待ち下さい」

 そう言ってルーベンは家の中に消えたが、しばらく待ってもルーベンは戻ってこない。やがて家の中から小さな女の子の泣き叫ぶ声が聞こえ、続いてルーベンとルーベンの妻らしき女性の怒鳴り声が聞こえた。そうして飛び交う大声を聞きながらもう少し待っていると、ようやく苦い顔をしたルーベンが宝石を持ってやってきた。

「お待たせしました。聞こえちゃいましたかね、お恥ずかしい。これに間違いないかな」

「そうです。でも、やっぱりいりません。もう別の子の宝になっちゃったみたい」

 ステラは目一杯の笑顔を作った。

「……そうかい、いや、正直に言うと助かるよ。ああなると娘は二、三日はずっと不機嫌だから。ああ、そうだ、これ」

 ルーベンはズボンのポケットから袋を取り出した。

「花の種。お母さんのこと、聞いているよ。お悔やみ申し上げます。お代はいらないからね。宝のお礼」

 ステラは袋を受け取って、深々と頭を下げた。


 ◆


「百万エルトだぞ」

 ステラの家までの道を帰りながら、アルデバランは意地悪く、さも勿体無いという口調で言った。

「いいの」

 心の底からそう思っていた。もともと自分は宝石を薬のために手離したのだし、その宝石も、それそのものを必要とする、一番ふさわしい者の手に渡ったのだ。こうして花の種までただで貰ってしまって、かえって申し訳ないくらいだ。……と、ルーベンに貰った袋ががさがさすることに気付いて袋を開けると、中には種と一緒に五千エルト札が入っていた。

 ステラが袋からお札を取って見せるとアルデバランは察して頷き、二人は合わせ鏡のように一緒に微笑んだ。

「しかし、総合すると、やはりこの騒動の中で俺だけが悪かったわけだ」

 アルデバランは、ばつが悪そうに肩を竦めた。

「俺が何も言わなければ、ステラはガレオンさんの善意を信じたままで、ルーベンさんの娘が泣く必要もなかった。この村は善人ばかりだな。素晴らしい村だね」

 それは違うとステラは思った。

 アルデバランは善人の中の善人だ。

 ガレオンの善意を疑った自分だけが悪者だったのだ。

 ステラは、もっと大人にならなければ、と思った。

 それからアルデバランに付き添われて、ステラは母の墓に花の種を植えた。

 二人で手を合わせ終わったあと、

「ねえ、どうしたらキーパーになれるの?」

 とステラは聞いた。

 アルデバランがその質問に答えない限り、ステラはアルデバランをどこにも行かせないと心に誓っていた。

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