僕が知らなかった僕は、君が知らなかった君に恋をする。
syatyo
僕が知らなかった僕は、君が知らなかった君に恋をする。
その世界は人形に支配されていました。人間が政治をして、人間同士が争う世界。そんな時代はとうに過ぎ去りました。『魔法』を扱い、人間を虐げる人形と、その暴虐から逃げるため『ゴミ捨て場』と呼ばれる町に住む人間。
それが当たり前になった世界で、一人の少年と一体の雌型の人形が出会いました。それは日が長くなり始めた、初夏のこと。海の向こう側に太陽が沈み始め、少しだけ冷たい風がそよぐ草原で、二人は不思議な挨拶を交わします。
「僕は人間。まだ、名前はあなたでいいよ。これからよろしくね」
「……わたしは、人形。名前は——君、でいいわ。わたしの方こそ、よろしく」
この世界では禁忌とされている、人間と人形の対等な会話。でも、そんな馬鹿げた禁忌のことなど二人は気にしません。ただ話したいことを話して、ただ言いたいことを言う。かつては当たり前だった関係を二人は手に入れました。
それは『友達』と呼ばれる関係。
でも、これは男女の『友達』のお話ではありません。
ただ、偶然出会ってしまった人間の少年と人形の少女が、お互いに好きになってしまっただけの物語。
——人間を愛してしまった人形の物語。
——人形を愛してしまった人間の物語。
※ ※ ※
少年はできるだけ身を低くして、音を立てないように森の中の獣道を歩いていました。小さな足音も呼吸の音すらも潜めながら。
すでに太陽も落ち始め、裕福な生活をしている人形は森になんて来ないはずです。それでも少年は細心の注意を払います。それは彼が臆病だからではありません。それが彼ら人間にとっての常識なのです。
少しずつ、森がひらけてきました。人が一人通るのでやっとの細さだった獣道は、少年が大の字に寝転がることができるほどに太くなりました。そして少年を覆う分厚い木の葉の天井も、薄くなり始めています。
森の匂いではない、少し泥臭い草の匂いが少年の鼻腔をくすぐりました。そうされることでやっと、彼は緊張から解放されます。
「やっとだ……!」
ずっと我慢してきた分、感情のこもった独白が少年の口から飛び出しました。家から三十分の道のり。決して安全とも、安心とも言えない道のりを経てまで少年がそこに訪れる理由は——、
「誰もいない、よね」
森を抜け、草原に足を踏み入れると、そこはもう少年にとって癒しの空間です。人間と人形に区別される世界とは隔絶された空間。それだけで少年は多幸感に包まれました。
そしてその少年が見つめる先には、輝いているかのように綺麗な海がありました。
青く透き通った海。それが夕日に照らされ、赤く染まります。——しかし、底が見えるほど透明な海は少年に感動など与えません。皮肉にも、絶景と言えるほどの綺麗な海の姿になったのは、人形のおかげだったからです。すべての生物が人形に置き換わり、食べる必要も排泄する必要も無くなったとき、人形たちは綺麗さを求めたのです。その結果がこの世界の海の姿でした。もちろん、人間たちもその偽りの綺麗さを強要されています。
「————」
だから、少年は意識的に海を見ないようにして、ただ空だけを見るために草原に寝転がります。全く管理されていない雑草が少年の頬をくすぐります。でも、それさえが彼にとっては幸福でした。
「綺麗だなぁ……」
今日は快晴——ではありません。雲はまばらに浮かんでいて、ところどころ灰色がかったものまであります。それでも人形の手が介入していない、その『汚さ』が彼にはとても綺麗に見えました。
そんな風に流れる雲を目で追っていた少年の視界の端に、何かの影が映りました。それに気づいた少年はすぐに首を回して、影の正体を確認します。
「……人?」
少年は自分にしか聞こえないほど小さな声で呟きます。もちろん感慨に浸っていたからではありません。この世界において、人間が見知らぬ誰かと出会うということは常に危険を伴います。なぜなら、相手が人形かもしれないからです。
だから、少年は正体不明の誰かに見つからないように息を潜めます。しかし、それに反して興味は誰かに向いてしまいます。
金色の髪の毛。透明感に溢れる白い肌。可愛らしい白一色のワンピース。すべての外見が可愛らしさを作り上げていました。そのせいかもしれません。少年は声をかけずにいられませんでした。
「ねぇ!」
大きく声を張り上げます。そうしてすぐに、少年は後悔しました。なぜ、人間か人形かわからない相手に話しかけてしまったのだろう、と。人形と話すなど、自殺行為です。良くて、理不尽な理由をつけて衛兵に渡されて処刑される。悪ければ、その場で魔法に殺される。そんな理不尽な二択を、彼は自ら強要してしまったのです。
「なに?」
しかし、少年の呼びかけに応じた少女は、幸いにも魔法を使うことも衛兵を呼ぶこともしませんでした。ただ、ぶっきらぼうに呼びかけに応じました。
「ここに来る人なんて珍しいなと思って」
少年は「人形じゃなかったんだ」とほっと胸を撫で下ろします。そうして、勢いよく立ち上がって少女に歩み寄りました。
「別に。ただ暇だったから来ただけよ」
歩み寄る少年に対して、少女は近づくことも遠ざかることもせずに、なおもぶっきらぼうな返事を続けます。それが少年には面白くありませんでした。
「ふーん。暇なだけで危ない道を通ってここまで来たんだ。人間にしては危機管理ができてないね」
「あなただってここにいるんだから同じじゃない。それに、わたしは危機管理なんてしなくていいの」
少し馬鹿にするような言い方の少年に、少女は正論を放ちます。もちろん的外れな皮肉と正論では勝負になりません。少年は悔しげに口を閉じることしかできませんでした。
「それよりもあなたこそ大丈夫なの? こんな遅い時間に外にいて」
「それは僕の方こそ君に聞きたいよ。僕は男だから大丈夫だけど、君は女の子でしょ? 家に帰ったほうがいいよ」
それはさっき言いくるめられたことへの意趣返しと、一人になりたいがための詭弁でした。しかし少女は小さく溜息を吐くだけで、答えることも、無視することもしませんでした。——ただ、少年の目を見つめて、
「——あなた、人間?」
そう、短く質問したのでした。
それは少年にとっては天地がひっくり返るほど驚くことでした。そして、それは例えなんかではなく、少年は驚きと緊張で気を失ってしまい、地面に倒れこんでしまいます。まさしく天地が逆さになった少年は、薄れ行く意識の中で少女の声を聞きました。
「大丈夫?」
その声には嘘と言うにはとても無理があるほどに心配の色が滲んでいて、少年を抱きかかえる少女の手は人間と人形が区別された世界ではあまりにお人好しが過ぎるほどに慈悲深いものでした。
しかし、少年は少女のその言葉を信じることはできませんでした。
なぜなら——、
「あなたが気絶したのは、わたしが人形だから?」
少年の意識が夢の世界に迷い込んだあと、少女は悲しげに少年の寝顔を見つめます。そして、少年に投げかけられた少女の虚しい問いは一瞬だけ強く吹いた風に流され、消えました。
——あなた、人間?
それは人形が人間をあぶり出すために使われる言葉でした。
※ ※ ※
少年は夢を見ました。それは幼い頃の記憶、少年の父親の死が彼の耳に届いたときの記憶でした。
今から九年ほど前、少年が五歳のときでした。そのときには既に人形が人間を差別するという世界の構図は出来上がっていて、人間たちは『ゴミ捨て場』で過ごしていました。
そんな中の出来事でした。少年の父親はあろうことか人形の子供を助けたというのです。崖から飛び降りようとしていた人形を。そしてその反動で少年の父親は崖から落ちてしまい、結局、彼の死体が見つかることはありませんでした。
人間たちはその事実にひどく驚き——ひどく無意味だと蔑みました。なぜ、自分たちを虐げてきた人形を助けたのか。それも死なない人形を助けるなんて、人間にとっては愚かな行いとしか捉えられませんでした。
その無意味な死が少年に伝えられたのは、死から一日が経ってからでした。人形は人間に助けられたという汚点を公にするはずもなく、また人間も少年の父親の話をしようとはしませんでした。だから、少年の父親の死は彼の中で完結してしまったのです。人形たちへの憎しみと、父親を馬鹿にした人間たちへの不信感を抱えたままに。
それから夢は少しずつ現在に近づきます。
一年、また一年と年月を経ても、少年の心の中に巣食う憎悪が消え去ることはありませんでした。彼が唯一信じられるのは死の後も父親を愛していた、母親だけでした。だから彼は、外の世界は何も知らなかったのです——『ゴミ捨て場』のことも、まして人形の世界のことなど知る由もありません。
そのおかげかもしれません。——少年が、少年だけの世界を見つけられたのは十二歳を迎えたばかりの頃でした。
少年はいつものように家で本を読みながら退屈を過ごしていました。母親は食料を買うために出かけていました。そんなときです。家の扉を誰かが叩きました。母親なら、扉を叩くなんてことはしません。それならば誰がと、少年は素朴な疑問を抱いて、扉を開けてしまいました。
「君は人間かぁーい? ひひっ、いぃや、人間だろうね」
気持ち悪く間延びしていて、不気味な笑いが混ざった声でした。その言葉は本で読んだことのある、人間をあぶり出すための決まり文句でした。少年は戦慄します。目の前に立っている巨躯の男は、人形なのだと。そして同じく本に書いてあった、人形と出会ったときの結末を思い出します。死ぬか、死ぬ。極限の選択でした。
「知ってるかい? ひっ、人間の脳ミソはたかぁく売れるんだ。だから僕ら人形はぁ、君たち人間を殺すんだぁ」
不自然に綺麗な腕が、少年を捕まえようと伸びてきます。捕まれば死ぬ、少年はそう予感しました。——いいえ、それはむしろ確信だったかもしれません。
少年は決死の覚悟で人形に体当たりをしました。そしてそのまま家を出て、走り去ることにしたのです。もしかしたら家に母親が帰ってきて、殺されるかもしれません。それでも、少年は『死』が怖かったのです。
走ります。足を前に出して、腕を思い切り振って。自分でもどうやって走っているのかわからなくなるほど、必死に走ります。とにかく遠くへ、人形に見つからない場所へ。それだけを考えて走り続けました。
そうやってどれくらいの時間が経ったでしょうか。少年はついに見つけたのです。人形に怯えなくてもいい、『死』に怯えなくてもいい場所を。
——少年の目には不自然なほど綺麗な海が映っていました。
少年は嘆きます。「なぜ、僕たちは虐げられるんだろう」と。
少年は嘆きます。「なぜ、僕は人間に生まれてしまったんだろう」と。
——少年は嘆きます。
「こんな世界、滅んじゃえばいいのに」と。
※ ※ ※
夢から覚める時の感覚は、夢に身を浸し始めた時の感覚と少しも変わりません。どこから夢でどこから夢でないのかがわからない、曖昧な境界。そんな境目を乗り越えて、少年は現実に回帰しました。
後頭部に固い感触を感じました。冷たく、それでいて人間的な温かみを感じさせる何かは、誰かの膝でした。
「あ……」
少年の口から小さな声が漏れました。その声は笑えるほど情けなくて——少年の、人形に対する恐怖を象徴していました。
「やっと起きた。あなた、いきなり倒れるから」
寝起きのせいでまだ靄のかかった視界に、美しい誰かが映り込んでいます。美しい金色の髪、美しい透き通った肌、美しい顔立ち——全てが不自然に美しい少女でした。
「あぁ……」
「そんなに怯える必要はないのに……なんて無理な話よね」
少女はいわゆる膝枕を少年に施したまま、話を続けます。少年を見下ろす彼女の目には寂しさがちらついていました。
「大丈夫。わたしは人間を襲ったりしない——いいえ、むしろ人間を助けたいと思ってる」
「嘘だ……そんなこと言ってお前ら人形は……」
震える手で、少年は顔を覆いました。いつかの記憶が蘇ります。気持ち悪い、間延びした声。あきらかな殺意を持って自らに向けられた作り物の手。全てが恐怖を掻き立てます。そして、その恐怖の象徴が自分の目の前にいて——、
「大丈夫よ。さっきも言ったでしょう? わたしは人間を襲わない。もちろん、あなたのことも襲わないわよ」
「嘘だ……」
「嘘じゃないわよ。なんて言っても信じてくれないでしょうけど」
少年は暗い世界の向こう側で、少女がため息をついたのを聞きました。そして、少しだけ時間を置いて、温度のない何かが少年の頭を撫で始めました。
「こんなことで落ち着くとは思わないけど……気休めにはなるでしょう」
「あ……」
今度の呻きは恐怖のせいではありません。母親の手に比べれば、少女の手はひどく冷たく、心地よさは感じられません。でも、その手に込められた温かい感情は母親のものと少しも変わらなかったから。
「大丈夫よ。ここはわたし以外、誰も知らない。人形なんて来ないわ」
「……本当?」
「嘘なんてつかないわよ。本当の本当に知ってるのはわたしだけ——あとは君だけね」
少しずつ平静を取り戻し始めた少年は、手を下ろし、宥める少女の言葉に疑問を投げかけます。しかし、少女は当たり前だと言うようにより一層手に慈しみを込めて質問に答えました。
「びっくりしたわ。わたししか知らないと思った場所に誰かいるんだもの。それも人間だなんて——命知らずだと思ったわ」
「僕だって驚いたよ。最初に話した時は君が……人形だと思わなかったから。いや、今も人形だなんて思いたくない」
「どうして?」
今度は少女が質問する番でした。しかし、少年にとって、その質問は愚問でしかありませんでした。なぜなら——、
「人形は人間を襲う。それが世界の常識だからだよ。でも君は僕を殺さないし、衛兵に突き出そうともしない。だから、人間じゃないのかとも思うけど……」
「体温がないから」
少年の言葉の続きを、少女がぽつりと呟きます。
「心臓の鼓動を感じられないから。怪我をしないから。——全部、この体のせい」
「あ——」
少女の悲しい呟きに、少年は何か言おうとして——結局、何も言えませんでした。少女の頬を一筋の涙が伝うのを見てしまったから。
「ほらね、こんなところは律儀に人間を再現してる。悲しいときに涙が出るのも、怒ると顔が赤くなるのも、全部機能。感情だって機能に過ぎない。君を心配するこの気持ちだって、きっと」
どうして少女の苦悩を取り払うような言葉が言えないのでしょう。どうして彼女が自分にしてくれたみたいに、頭を撫でてあげられないのでしょう。きっと、全ての答えは少年にも少女にもわかっていました。
少年が人間で、少女が人形だから。少年が虐げられる側で、少女が虐げる側だから。
だから、少年は手を伸ばせないのでしょう。人生の全てをかけて植えつけられた人形への恐怖があるから。
だから、少女は「慰めて」と請うことができないのでしょう。少年の恐怖が、嫌という程わかってしまうから。
「——ごめんね。いきなり泣いて」
少女は短く息を吐いたかと思うと、少年の頭を優しく地面におろして立ち上がりました。
「今日のことは誰にも言わないから。わたしも君と会ったことは忘れる——だから君も、わたしと会ったことは忘れて」
「待って!」
走り去る少女の背中に、少年は叫びます。このまま別れてしまっては、もう会えないような気がしたから。そして彼女に届いたのか、それとも届いていないのかはわかりません。それでも彼女は一瞬だけ、足を止めました。
「僕、ここで待ってるから! 君が来るまで! 今日みたいに太陽が沈み始める頃に! だからもう一回会おう!」
どうにか届くようにと、少年は腹の底から声を絞り出しました。精一杯、少女に届くように。
「————」
少女は答えません。ただ、涙を拭って再び走り去ってしまいました。森の向こうへ、人形が住む世界へと。
少年は揺れる金髪が見えなくなるまで、少女を見つめていました。そうして見えなくなった後も、ずっと森を見つめ続けて、ふいに強い風が少年の身を揺らします。
「もう帰らなきゃ」
気がつけば、太陽の半分以上が海に隠れていました。もうすぐ母親が帰って来る頃です。女性だというのに毎日、力仕事をして、人間が二人生活するには物足りない食事を持って帰ってきてくれるのです。
まだ子供の少年には何もできません。働きたいと思っても、人間法のせいで許されません。だから、せめて母親が帰って来る頃には家で待ってあげようと、そう決めていました。
それからどれくらいの時間をかけて、家に帰ったでしょうか。なぜだか今日は家までの道のりが長い気がしました。そのせいで少年の心は孤独に支配されかけていました。でも、家が見え始めて、ちょうど母親が帰ってきていて——、
「おかえり、お母さん」
「ただいま、
少年は母親と一緒に家に入りました。小さく、今にも壊れそうなほど古い家。それでも少年にとってはそこが家で、世界で二つしかない心が安らぐ場所でした。
——こうして少年の恋の始まりの日は終わりました。
※ ※ ※
少女は涙をぬぐいながら街の中を走っていました。すれ違う人の好奇の視線など気にもなりません。だって、涙を流しているのを見て心配することも、興味を持つことも全部機能に過ぎないから。
ふいに一人の少年の姿が少女の記憶の中で主張を始めました。短い時間でしたが、たくさんの思い出がありました。
人間だとわかっていたから無感情に接しようと思ったのに、まるで人間同士の会話のように話してくれたこと。なのに、少女が人形だとわかると気絶して、苦しそうに呻き始めたこと。泣いていた少女に何かを言おうとしてくれたこと。
——人形である少女に「もう一回会おう」と言ってくれたこと。
「まるであの人みたい……」
少女の独り言は誰にも届きませんでした。でも、少女の言葉は彼女自身を慰め、『あの人』のことを思い出させます。
「——こんなこと考えてる場合じゃ……早く帰らないと」
街の中心にある時計台の長針は七を少し過ぎたところを指していました。いつもなら家にいて、夕食を待っている時間です。両親は心配しているでしょう。だから、少女は少年に会いたいという気持ちを抑えて、家を目指して歩きます。
すれ違う人形たちは皆、楽しげな表情を浮かべています。——いえ、楽しげではない人もいますが、少なくとも悲しい表情をしている人はいません。皆、自分の好きな服を着て、自分の好きなことをして。時には怒られることもあります。そして彼らは自分の中で自由を作って——全部、かつては人間のものだったはずです。
「——っ」
不思議と再び涙が溢れてきました。どうして人形は人間を差別するのか。あまつさえ、殺してしまうのか。何が人形にそんなことをさせているのか。
「————」
帰らなければいけないのに。当たり前になってしまった理不尽を嘆いている暇はないのに。それでも少女は考えずにいられませんでした。
人形が人間を差別する理由——それは歴史でした。正しくは歴史の誤読でした。人間が人形を作った。この歴史は少しの歪みもなく現在まで伝えられてきました。しかし、歪んでしまった歴史は人間が人形をどう扱っていたのかということ。
——人形たちは人間たちに奴隷のように扱われていたと勘違いしてしまったのです。
そうなれば『魔法』という圧倒的な力を扱える人形は躊躇などしません。人間を蹂躙し、世界を牛耳り、私利私欲のために人間を生かし隔てて——二百年も前のことでした。
「あら、マルシア。遅かったわね」
「お母さん……」
人形の愚かさに悲嘆していた少女を呼び止める声がありました。少女によく似た顔立ち、よく似た髪色髪質、よく似た雰囲気。声の主は少女の母親でした。
「早く家に入りなさい。また遊んでてお腹が空いてるんでしょう? ご飯、できてるわよ」
「……うん」
少女の母親の言葉には、とても人形のものとは思えないほど慈しみと愛情が込められていました。そしてその愛情の塊とも言える母親の姿を見るたびに、少女の心は痛むのです。
——こんなに優しい人形もいるというのに。人間も人形もそれをわかっていないのです。ただ、人形であるというだけで人間を迫害するのは当たり前だと思われているのです。それが間違いだとは気づかずに。
「また、会わないと……」
「ん、何か言った?」
「なんでもないわ、お母さん」
胸の内に決意を秘め、少女は独白を漏らしました。人形にも優しい人がいるのだということを彼に伝えないと。そうやって逸る気持ちに理由をつけて、自分を納得させます。
「そういえば、二年前に政府に許可を取らないで人間を殺した人いたでしょう? 彼、他にも窃盗だったり、人形の核を抜き取ったりで余罪がたくさんあったらしいわ。死刑執行だそうよ」
そんな母親の世間話を聞き流して、少女は空を見上げます。そういえば、あの日も夕焼け色に染まる綺麗な空だったな、なんて感慨を覚えながら。
——こうして少女の恋の始まりの日は終わりました。
※ ※ ※
その夜、少女は夢を見ました。今から九年前、少女が五歳だった頃のことです。このときから、彼女は人間を差別することに疑問を抱いていました。どうしてなのだろう。そう思って少女は必死に勉強をしました。色々な本を読んで、色々な人形に話を聞いて——そうして彼女は、人形の身勝手が理由だったのだと知りました。
ある人は言います。昔、人間が人形をゴミのように扱っていた、と。
ある人は言います。この世界は昔からそういう風だった、と。
ある人は言います。これは人形と人間が戦争をした結果だ、と。
しかし、そんな事実は本には書いていませんでした。どれが真実なのか、少女はそれを確かめたくなって『ゴミ捨て場』に向かいました。人間なら本当のことを語ってくれるのではないか。加害者ではなく、被害者に話を聞けば——でも、そんな期待は馬鹿なことだったと知るのです。
「人形が来たわよ! 逃げて!」
「お前たちさえいなければ……」
「殺すなら殺せ。俺の妹を殺したみたいにな、なあ!」
誰も少女と話してくれる人なんていませんでした。皆、少女を恐れ、憎み、恨んでいました。——少女は何もしていないのに。ただ、人形というだけで恐怖され、憎まれ、恨まれていたのです。
——なんで人形なんかに生まれたんだろう。
少女はそんな疑問を抱きました。そして抱いた疑問を消し去ろうと、『ゴミ捨て場』を出て、少女は無我夢中に走ります。そんなことを考えても人間にはなれません。人形が人間になることなど不可能なのです。
——それなら。
自分でも馬鹿な考えが浮かんだと、少女は思いました。人形に生まれてしまったことを悔やむなら。この世界の理不尽が気にくわないなら。
——世界からいなくなってしまえばいい。
少女にはもう、足を止める術はありませんでした。向かうのは森の中。死ぬのなら誰にも見つからない場所で、なんていう少女の幼い配慮でした。
そして森の中へたどり着き、少女は死に方を考えます。魔法を自分に放つことも、ところどころに垂れ下がっている蔦で首を締めるのも、どうも勇気が足りません。もっと、自分の意思に関係なく、ほんの少しの勇気で死ななければ。
そうやって頭を働かせながら歩いていた少女は、偶然にも絶好の自殺場所を見つけるのです。切り立った崖は、飛び降り、死ぬのにはちょうどいい高さで。最後に見る景色としては、あまりに綺麗なほどの海が広がっていて。
まるでここは死ぬ場所だと言わんばかり、少女にはそう思えたのです。だから逸る気持ちに身を任せ、小さな勇気を胸に宙に足を一歩踏み出したときでした。
そのときの少女は、身近に迫る死の気配に意識を取られていて、背後から近づいてくる足音に気がつけなかったのです。
「おい!」
身体が落下し始めたときでした。怒号とともに、肩を掴まれ、少女は身体がふわっと浮き上がる感覚を得て、地面に着地しました。——それと同時に、少女は崖の下に落ちていく一人の人間の男性の姿を見ました。
彼の表情は、もうすぐ死んでしまうというのに妙に晴れやかでした。そして、最後に目をつぶって一言だけ。
「世界を変えてくれ、人形さん。そして、また会おう」
そう言って、彼は崖の下に姿を消し、肉が爆ぜる音を響かせて命を落としました。
一瞬の出来事。あまりに一瞬すぎて、少女には理解できませんでした。なぜ、死ぬはずの自分は死んでいないのか。なぜ、死なないはずの男性が死んでしまったのか。当たり前のことを考えて、考えて——やっと気付きました。
少女の自分勝手で、あろうことか人間を殺してしまったのです。
「あ……」
そう気付いてしまえば、絶望を感じるのに、そう時間はかかりませんでした。あんなに人間を差別することに疑問を抱き、嫌悪していたのに。今の少女はどうでしょう。理由もなく人間を殺す悪党の人形と、少しも変わりません。少なくとも、少女はそう考えていました。
「あぁ……!」
少女は自分の心の弱さに苛立って、何度も何度も身体を殴りつけました。でも、傷がつくことはありません。血が出ることも、ましてや皮がはがれることも。——自分を助けてくれた人間は、簡単に死んでしまったのに。
少女はおぼつかない足取りで崖の下を覗きました。
「あぁぁぁぁ!」
——少女の目には赤く染まる海が映っていました。
少女は嘆きます。「なぜ、私たちは虐げるんだろう」と。
少女は嘆きます。「なぜ、私は人形に生まれてしまったんだろう」と。
——少女は嘆きます。
「こんな世界、滅んじゃえばいいのに」と。
※ ※ ※
少年はひどく葛藤していました。こうして、森の中を歩く今も。
——あの子、どうしてるかな。
そんな心配ばかりが心の中に浮かんでは消えていきます。相手は人形で、慈悲や心配なんてしてはいけないのに、少年の心は理屈に反して少女のことを想っていました。
「あ……」
森を抜けた少年は眼前に広がる草原に、少女の姿がないのを確認して小さく声を漏らしました。「待ってるから」と約束した日から一週間。毎日、少年は約束の時間より少し早く崖を訪れていましたが、未だ少女と会うことはできていませんでした。そしてその度にため息をつくのです。
「待ってるって言ったのに」
そう呟いて、少年は草原のど真ん中に寝転がります。頬を撫でるそよ風がくすぐったくて、擦れ合う雑草の音が心地よくて、今日も灰色の雲で汚れた空が綺麗で——、
「会いたい……」
居ても立っても居られなくなってしまいました。いつもと変わらない安らぎが、少年には不十分に思えたのです。——人形とは思えない人形の少女と出会ってしまったから。
だから、いつもは気づかないその異変に少年は聡く気付きました。
「————」
少年は無言のまま立ち上がり、雑草に引っかかった『それ』を手に取り、逸る気持ちに任せて街を目指して駆け出しました。もちろん、人間たちが住む『ゴミ捨て場』ではありません。人形たちが住む街に、です
冷静な少年だったなら、人形の街に繰り出すなど愚行だと切り捨て、大人しく家に戻ったことでしょう。でも、今の少年にはできませんでした。
『それ』——草原に落ちていた綺麗な金色の髪を見つけてしまったから。
「来てたんだ……!」
約束の日から——いいえ、昨日か今日、少女は草原を訪れていたのです。今、手の中に握られている金髪は疑う余地もなく少女のもので、昨日は落ちていませんでした。ならば、少女は街を抜け出して、草原に来ていたのでしょう。
少年が早すぎたのか、遅すぎたのか。何か理由があって少年には会えないから、あえて少女が時間をずらしたのか。すれ違ってしまった理由はいくらでも思いつきます。でも、あの後、少女が一回でも約束を守ろうとしてくれたなら。
「会わなきゃ……!」
もはや、少年に『会わない』という選択肢はありませんでした。禁忌だったり、危険だったり、迷惑だったり。ありとあらゆる障害は、少年が足を止める理由にはなりません。少年を支配していたのは『会いたい』という感情だけでした。
「はぁ……はぁ……」
少年は自分の立てる音など全く気にせずに、森の中を走っていました。できるだけ速く走れる姿勢で、体が求めるままに酸素を取り入れて。
まだ太陽は昇っていて、物好きな人形は森を訪れるかもしれません。なのに、少年は安全も配慮も捨てて全力で走ります。彼が考えなしだからではありません。それが今の彼がするべきことだったからです。
少しずつ、森がひらけてきました。人が一人通るのでやっとの細さだった獣道は、少年が大の字に寝転がることができるほどに太くなりました。そして少年を覆う分厚い木の葉の天井も、薄くなり始めています。
森の匂いではない、美味しそうな料理の香りが少年の鼻腔をくすぐりました。そうされることで、彼は緊張と高揚感に体を支配されました。
「やっとだ……!」
ずっと我慢してきた分、感情のこもった独白が少年の口から飛び出しました。崖から三十分の道のり。決して安全とも、安心とも言えない道のりを経てまで少年がそこに訪れる理由はただ一つです。
「あ」
少年は待ち望んでいた光景に、小さく声をあげました。
もうすぐ森を抜けて人形の街に入るというところで、一体の少女が少年を見つめていました。金色の髪の毛。透明感に溢れる白い肌。可愛らしい白一色のワンピース。その外貌は初めて会ったあのときと、少しも変わっていなくて——、
「久しぶり」
「久し……ぶり……」
あまりに素っ気ない少女の反応に、少年は戸惑いながらも同じ反応を返します。でも、そんな気まずい空気の中でさえ、二人の思考は少しのズレもなく一致していました。
一言の会話もなく、二人は森の奥へ向かって歩きます。人形の街から遠ざかるように、人形に見つからないように。そうしてしばらく歩いて、二人は目的の地にたどり着きました。
「やっとね」
「…………」
風そよぐ草原で、少女はポツリと呟きました。でも、少年はそれに反応しません。どころか、顔をしかめて少し怒っているような表情を浮かべました。その様子に少女は困ったような顔をして、もう一度声をかけます。
「ねえ——」
「先に言うことがあるんじゃない」
「——っ」
しかし、少年の少し棘のある声音に遮られ、少女は喉を鳴らします。それを機に二人の間を沈黙が流れて、その沈黙を埋めるように雑草たちが自然の音楽を奏でます。
でも、気まずさによる沈黙は長くは続きません。やがて、少女はすっかり重くなってしまった口を開きました。
「ごめんなさい。もっと早くに会いに来れなくて」
「……そうじゃなくて。なんで昨日、ここに来たのに帰ったの?」
「あ……」
少年の発言はあくまで推測でした。自分の記憶と金色の髪を頼りにした、あまりに頼りない憶測です。でも、少女の反応が正しかったことを証明しました。やはり、少女は草原を訪れていたのです。
「なんで?」
「——わたしが……」
言いかけて、少女は少年から顔を逸らしました。理由が思いつかなかったからではありません。ただ、その言葉がとても長い間、少女の中で消えない塊として心の底にこびりついていたから、口から出すのに手間取ったのです。今までの彼女なら、再び湧き上がる衝動に任せて、崖から飛び降りようとしたかもしれません。でも今は、すぐそばに少年がいたから。
「わたしが、人形だから。あなたが人間だから。会いたいって、何回も思ったわ。でも、会っては駄目だとも思ってしまったの。人形のわたしがあなたに会ったら、あなたに迷惑がかかるから——」
小さい頃に感じた、人形と人間の関係への疑問。なぜ、人形は人間を差別するのか。その謎を解き明かそうとして、少女が直面したのは——人形と人間の間にできた、埋められない溝でした。
理由なんてなかったのです。人形は人間が人間であるからと差別し、人間は人形が人形であるからと恐怖したのです。そのことに、少女は『ゴミ捨て場』に訪れたあの日、初めて気がつきました。そして、少女はその時のことを今も忘れられずにいて——、
「僕は」
しかし、そんな少女の憂慮は、少年の力強い声音に遮られました。少年は少女に顔を近づけて、息のかかる距離で言葉を続けます。
「僕は人形の君と会いたかったんじゃない。あの日、僕を助けてくれた君と会いたかったんだ。人形だとか人間だとか、そんなの関係ない。僕は『君』と会いたかったんだよ」
「あ——」
少年は言い切って、少女を抱き寄せます。力強く、それでいて優しい少年の手に、少女は小さく声を漏らしました。そうして、一度声を出してしまえば、少女に溢れる想いを止めることはできませんでした。
「わたしでいいの? わたしは人形で、あなたを殺す立場で」
「でも、君は助けてくれた。気絶した僕を襲わないで……その、膝枕、をしてくれた」
「あなたは人間だから、人形のわたしと会ったなんて他の人に知れたら、大変なことに——」
「僕だってそれくらいわかってるよ。まさか人形嫌いだった僕が君と会いたいと思うなんてびっくりだけど——でも、会いたいって思ったから。……好き、だって思ったから。他の人のことなんて関係ないよ」
「……わたしも、あなたのことが、好きだって言っても、いい?」
「そう言ってくれたら、嬉しいね」
少年は照れ臭そうにそう答えました。本心は今にも走り回りたいくらいに嬉しくて——そもそも、抱き合っているだけで少年の心臓は破裂しそうなくらいに跳ね回っていました。たぶん、少女にも心臓の鼓動が伝わってるんだろうな、なんて考えながら、少年は少女の言葉を待ちます。
「好き。あなたのことが好き。わたし、人形だけど、あなたのことが好きなの!」
その『好き』はどれほど重い想いだったのでしょう。少女の中で膨れ上がった人形と人間の溝を埋める『好き』という感情が、彼女の口から溢れ出しました。泣きながら、少年に抱きつきながら。
そして、その『好き』を聞いて、少年も応えます。
「僕も好きだよ。人間も人形も関係ない『僕』として、人間も人形も関係ない『君』のことが好きだ」
少年の言葉が、少し冷たい風に流されていきます。気がつけば太陽は海の向こう側に姿を隠しています。
もうすぐ本格的な夏が始まる頃。少年の心の拠り所だった草原で、少年は心の拠り所となる『人』に出会いました。
「僕は『人間』。まだ、名前はあなたでいいよ。これからよろしくね」
「……わたしは、『人形』。名前は——君、でいいわ。わたしの方こそ、よろしく」
お互いに挨拶を交わして、二人揃って草原に倒れこみます。
二人が言う、『人間』と『人形』という言葉に、かつての意味はありません。今はただ——名字のようなものです。心臓の鼓動があることも、関節が球体であることも、それはそれぞれの個性です。だから、お互い、そんなことは気になどしていなくて——。
お互いに手を握って、空を見上げます。空を見上げる二人の目には、灰色に淀んだ雲が映っていました。
——これは『人間』と『人形』が愛し合う物語。
僕が知らなかった僕は、君が知らなかった君に恋をする。 syatyo @syatyo
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