エピローグ
太陽が真上に差しかかろうとしていた。容赦ない照り付けに汗が滲む。西の山際に浮かぶ雲が熱線を遮るまで半時間はかかるだろう。予報に拠ると今日の気温は真夏日並らしい。信じていなかったわけではないが、さして気にも留めていなかった。五月もまだ半ばなのだ。梅雨入りにも半月以上ある。雨が降り、紫陽花が咲き、また太陽が恋しくなった頃に本当の真夏がやってくる。俺はまだこの坂道の先にすら辿り着かない。
「しっかし、何度来てもきついっすねえ、小春さんち。あー熱い。疲れた」
道には僅かな木陰が零れている。影はまばらで日除けにはならない。気休めのために通り過ぎるだけの場所。それでもついつい足で追ってしまう。
「ったく……。男のくせに、情けないやつだな」
呆れ口調の冬子先輩は俺の後ろで切れ切れに息をしていた。汗に濡れたシャツが二の腕に張り付いている。顔は地面に伏せたままだ。
「先輩こそまさに疲れ果ててるじゃないっすか……。どうしたんすか。初めて来るわけでもあるまいに」
「うるさい。久々なんだよ。それに、前はもっと体力あったから……」
「美術室に籠って、外に出ないからっすよ」
「あー、もう、うるさいうるさい」
俺は太陽と愚痴に曝されながらもニヤリと笑う。
『絵を見せて欲しい』 冬子先輩のささやかな願いは次の日曜に早速叶うことになった。友達が友達の家に遊びに行く。難しく考えるまでもない当たり前のことだ。そして俺はその当たり前のことがしたかった。冬子先輩も、小春さんも、年上だけどいい友達だと思っている。機会があれば日野を誘ってみるのも面白いかも知れない。神坂は難しいだろうか。それに、中山先輩。
あの日、冬子先輩から去年の真相を聞かされたあとも、俺はしばらく事件について考えていた。話の途中で口は挟まなかったが腑に落ちない点がいくつかあった。そんな釈然としない部分を掬い上げて眺めているうちに事件の別の側面が見えてくるような気がした。俺は片面だけしか、冬子先輩が見たものしか見えていなかったのかも知れない。結論はこうだ。
中山先輩は強姦なんてされていないんじゃないだろうか?
「そうだよ。どうして分かったの?」
昼休みの屋上、俺が率直に質問をぶつけると中山先輩はあっさりと認めた。中山先輩は指先でくるくると鍵を回している。
「どうして鍵なんて持ってるんですか?」
屋上に来るのは初めてだった。だから普段施錠されていることも初めて知った。施錠されている以上は立ち入りが禁止されているということであり、一般の生徒が鍵を持ち歩けるはずがない。
中山先輩の答えはこうだ。
「あると色々便利なのよ」
眼鏡の奥でにっこりと微笑み、鍵を制服に収める。
「それで? 藤宮くん。お話を聞かせてくれるんだよね?」
中山先輩は柵に両手を預け、悠然と空を背負った。俺は扉から数メートルの場所で立ち止まる。仮に先輩が予期せぬ行動を取ったとしてもこの距離ならば止めることはできるだろう。とは言え別に不測の事態を心配しているわけではないが。
「……まあ、一つは先輩の振る舞いですかね。俺も想像で話をするしかないですが……女性が誰かに負わされた傷ってそんな簡単なものですか? 不眠症や男性恐怖症、人によっては外出することすらままならなくなると聞いたことがあります。なのに先輩は翌日も普段どおり登校しているし、特に変わった様子があったとも聞かない」
事件直後には男性教師とも会って話をしているはずだ。いくらなんでも落ち着き過ぎている。
「確かにね。でも、それだけで?」
「もう一つは美術室の位置です。去年の事件でも話題になったそうじゃないですか。美術室は三階の奥の奥。わざわざこんな場所まで空き巣に入るやつはいないって。これって他の犯罪でも言えることでしょ?」
特に部員の把握が難しい。特別教室棟は本校舎とも離れている。犯人が校内の人間だろうと校外の人間だろうと三階の奥の美術室に誰が居残っているかなんて知りようがない。一人かも知れないし三人かも知れない。男かも知れないし女かも知れない。教師が巡回に来るかも知れない。そんな場所で誰が犯罪に及ぼうとするだろう。
「んー、部員全員を把握してればできなくはないんじゃないかな?」
「絶対に不可能とは言いません。合理的でも最適でもないと言いたいだけです」
「うん、わかってる。他には?」
中山先輩が楽しげに先を促す。調子が狂う。
「彫刻、という部分です」
先輩が興味深そうにする。
「知らない男に襲われそうになった。咄嗟に手近にある彫刻を投げつけた。どこか変かな?」
「変ですよ。先輩は花の絵を仕上げていたんでしょう? だったら手近にあるのは花瓶か油絵の道具。投げつけるならまずそれだ。少なくとも彫刻じゃあない。でも冬子先輩はそんなものが落ちていたとは一言も言わなかった。イーゼルやキャンバスが倒れていたとも」
だから思った。そもそも中山先輩の手元に油彩の画材なんて置いていなかったのではないか。
「冬ちゃんが描写を省いただけじゃないの?」
「そう捉えていいんですか」
「いいえ、正解よ。一度パレットを落としちゃったことがあってね。する前に片付けるようにしていたの。冬ちゃんは気付かなかったみたいだね。あのときは彼女も冷静ではなかったから」
あとは? と先輩が訊いてくる。
「そうですね。冬子先輩は運が良かったと言っていましたが、生徒の下校を確認してから警報装置の作動させるまでに三十分以上。さすがに怠慢に過ぎるでしょ。それに元々遅くまで作業する生徒に付き合って居残ってたそうじゃないですか? その日だけ自分の仕事で残業してたなんて話が出来過ぎかなと」
中山先輩が「まあね」と苦笑する。
つまり、先輩は強姦されたんじゃない。合意の上のことだったのだ。そして、相手は美術部にどんな生徒が在籍し、どんな生徒が居残っているのかを把握できる人物。部員に付き合い居残ることが不自然でなく、警報装置をある程度自由に操作できる人間。なおかつ間違っても生徒との関係が公に知られてはいけない立場。
「密会してたんでしょ。新里先生と」
「ご明察」
中山先輩はゆっくりと眼鏡を外した。実用的な価値のない偽りのもの。先輩がまとう空気ががらりと変わった。湛える笑みも、落ち着いた物腰にも変わりはない。ただそれは、普段の彼女から感じられる温かみのある表情ではなく、冷たく不情なものへと変貌していた。夜の海を覗き込んだらきっとこんな顔をしているのではないか。優しく、残酷で、吸い寄せられそうだった。
「……それが先輩の本性ですか」
「おかしなことを言うのね。あれも私。これも私。で? 部屋が荒れていた理由は? 藤宮くんの推理だと今度は彫刻を投げる理由がなくなってしまうのだけれど」
「大方ケンカでもしたんでしょ。怒ったあなたは……姫川先輩でしたっけ? その人が作った左手の彫刻を新里に投げつけた。それが手の届く位置にいたんだ。投げた彫刻は狙いを外して教室の窓を派手に割った。そこで運悪く冬子先輩が特別教室棟に入ってきた」
「見てきたように言うのね」
先輩が可笑しげにする。でも間違ってはいないのだろう。否定はしなかった。
「冬子が来たことは1階の扉の開閉音で分かったわ。あれ、重くて響くでしょ? それまで誰も来ないと思ってやってたし、実際に誰も来なかった。そうね。確かに運が悪かったのよ」
「玄関から教室まではゆっくり歩いてもせいぜい1分あるかないか。身なりを整える時間はない。焦ったあなたは咄嗟に偽のレイプ事件をでっち上げた。あなたの格好と割れた窓ガラスを見て驚いた冬子先輩はあなたの作り話を信じてしまう。その間美術準備室に隠れていた新里は隙を見て廊下へ脱出する」
そして帰り際、職員室へ戻った新里に頼み、警報装置の作動を遅らせて貰う。新里も自分の職がかかっている。当然協力する。
外で嵐山さんとぶつかったとき、中山先輩が眼鏡をかけていなかったのも行為の際に外していたのをそのままにしていたからだろう。
「……冬子先輩は気付いてるんじゃないですか。あなたが嘘を吐いたこと」
「でしょうね。冬子は利発だもの。だとしても同じことよ。のどかを拒絶したのはあの娘の意志だから」
「そうさせたのはあんただ」
「弱い娘なのよ。私と同じように」
中山先輩はくるりと俺に背を向けた。
「誤解しないでね」
先輩の言葉には誤解を恐れる響きはなかった。ただ少し疲れが滲んでいた。何を、と問う間もなく先輩は続けた。
「初めからそういう目的で居残ってたんじゃないの。初めは本当に真面目に絵に取り組んでいたわ。私は冬子の絵を見た。のどかの絵を見た。……勝てないと思った。私が目指して辿り着ける場所に二人はいなくて、あの娘たちが見ている景色を私は一生見ることはできないんだって、そう思った」
先輩は鉄柵に白い指先を這わせた。
「それでも最初は諦めなかった。頑張って描き続ければいつかきっと二人に追いつくことができる。……そう考えようとした。でもね、また次の日が来てあの娘たちの絵を見ると、私が塗りつけた薄っぺらな気概なんて紙のように剥がれ落ちるの。段々何のために絵を描いているのか私にも分からなくなってきた。絵を描く演技をするために遅くまで残る日々が続いた。キャンバスを無意味に塗りつぶした。自然と教師と二人きりになる機会が増えて、いつの間にかそういう関係になっていたの」
先輩は右手を左腕に添えた。自らの身体を抱くように。
「こんなことはやめようと言われたとき私は彼に彫刻を投げつけていたわ。私は泣いて激昂した。見捨てないでと懇願した。でも……そんなみっともない真似を曝しながら、心の中ではひどく冷静な自分がいることも自覚していたの。私はのどかたちに敵わない空虚さを埋めるために彼を求めた。くだらない行為に耽るのはそれだけ自分の中に空いた穴が大きいからだって、そう思ってた。でも、そうじゃなかった。だって、私、涙を流しながら怒る演技をしていたんだもの。私、全然怒ってなんかなかった。だから、本当は、空しさなんて感じてないんじゃないかって……」
先輩は空を仰いだ。雲がゆったりと流れていた。眠たくなりそうな晴れ空だった。
遠くを望みながら、言う。
「お父さんがね、上手だって褒めてくれたの。お前の絵は上手だって。それが嬉しくて絵を習い始めた。新しいものを描いたら、またお父さんが褒めてくれた。周りの皆も褒めてくれた。それが嬉しくて十年間描き続けてきた」
先輩は振り返り、うっすらと笑った。
「美術室を荒らしたときね、冬子は最後までのどかの絵を切りつけることができなかったわ。どうしてかわかる?」
当たり前の答えしか浮かんでこなかった。
「親友の絵だから、ですか?」
中山先輩は首を横に振った。
「違うわ。ましてや自分が描かれた作品だからでもない。冬子はね、のどかの絵に芸術を見たのよ。彼女の絵を畏れ、平伏したの。ダーク・ストルーブがストリックランドの絵を傷付けることができなかったように、彼女の絵を切り刻むことなんてとてもできなかった。私も同じ気持ちだったわ。私も心の底からのどかを尊敬した。そして、刃を突き立てた」
先輩は笑っていた。それは、微笑みではなく嘲笑や侮蔑の入り混じるものだと俺は気付いた。俺が嘲られているのではない。小春さんでも、冬子先輩でもない。
「所詮、私の絵に対する気持ちなんて、尊敬する人間の結晶を破いて捨てることができる程度のものでしかなかったということなのよ」
静かな時間が流れた。痛いほどに。
先輩は冷たい笑みを浮かべたまま、うたった。
「私はどうしようもなく偽物だった。絵の技術も嘘なら情熱も嘘。言葉も嘘なら心も嘘。憎しみも嘘で、愛も嘘。全部嘘。みんな嘘。これが私の生き方。中山詩奈の生き方。真一くん、私のこと軽蔑する?」
彼女は後ろ手を組み、首をことりと傾ける。答えを求めながら答えを求めていない。それは彼女の中で決定した事実だった。俺が何を言おうと揺るぎはないだろう。だからこそ俺はこう答えたかった。
「しませんよ」
彼女は偽物だった。どうしようもなく空虚だった。美しかった。
「俺だって本物を持っていない」
坂の上に辿り着く頃には俺も冬子先輩も膝を震わせていた。でも、道から小春さんの家を眺めていると不思議と疲れが癒えるようにも思えた。歳月を感じさせる、昔ながらの建物だ。絹のような風に吹かれ、輝く葉桜がさらさらと揺れる。奏でられる音色の中で家は安穏と佇んでいる。心地良い風景はそれだけで人を幸せにする。ずっとその景色に浸っていたくなる。
冬子先輩は俺とはまた違った想いでいるはずだ。先輩はしばらく石垣を見上げたあと、静かに段を上り始めた。俺も緊張を胸に後へと続く。先輩が鉄柵を開く。花が香り立つ。風景が広がっていく。どこか懐かしさすら込み上げる長閑な庭。午後の陽光に照らされた縁側に、彼女はいた。
彼女は柱に寄りかかり、夜空色の髪を垂らしていた。深い夜の色は彼女が纏う薄紅色に滴っていた。湖面のような瞳は閉ざされ、胸が穏やかに上下していた。彼女は眠りについていた。
俺は可笑しくなってつい吹き出してしまう。まったく、こちらの気も知らないで、この人は。
先輩は小春さんの前に立った。眠る彼女へ腕を伸ばしその黒髪に指を挿し入れる。先輩の指先は上から下へと髪を梳り、頬のあたりでひたと止まった。流れる髪を掌で掬い取った。
「……冬子」
小春さんの瞼がうっすらと開いた。
「おはよう、のどか」
先輩が告げる。小春さんはしばし眠気眼で先輩を見つめていたが、程なくして先輩の右手に左手を添えた。引き寄せ、頬に当て、その存在を染み込ませるようにじっと動かなくなった。
「夢じゃないよ」
「……うん」
小春さんは冬子先輩の手を両手で握り立ち上がった。先輩は小春さんの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ここは少し変わったか。……お前も背が伸びた気がする」
小春さんも先輩を見つめ返す。
「変わらないよ。私たちはずっと変わらない」
それは嘘だった。小春さんは嘘を吐いた。
全ては変わっていく。
花は散り、キャンバスは色褪せていく。誰もそれを止めることなんてできない。俺もきっと変わらないで欲しいと願う。でも、この世に完全なものはない。変わらないものなんてどこにもない。みんな弱くて、不完全で、永遠に耐えられない。どうしようもない偽物ばかり。でも、だからこそ綺麗に思う。永遠に残したくなる。
小春さんは桜の前にイーゼルを組み立てると、家の奥から持ち出してきたキャンバスを立てかけた。
「完成したんですか」
「いえ、あきらめただけです」
それは丘に立つ桜を描いた作品だった。時期は今よりも少し前。枝葉は満開の春に覆われていた。スケッチで見せて貰った写実的なタッチとも違っていて全体がぼんやりと光っているように見えた。
描かれているのは桜だけではない。花の下には白いワンピースを着た黒髪の少女が立っていた。彼女は桜色の笑顔を湛えながら鑑賞者に手を差し伸べていた。まるで背景に広がる麗らかな春空へ誘うように。
不思議なのは、少女の背に翼が見えたことだ。翼が見えた。何も描かれていないのに。これは何かの技術なのだろうか。少女のポーズが透明な翼を鑑賞者に連想させるのかも知れない。だが、翼は片翼だった。それのみでは飛ぶことのできない不完全な羽。そうか、だから、この女の子は……。
俺は冬子先輩を見た。先輩は泣いていた。差し出された少女の手を笑みで受け入れながら、涙を流していた。
あの日先輩は言った。『造花』が最後の作品になるかも知れないと。でも、俺は確信する。冬子先輩は絵を辞めたりはしないだろう。才能に苦しんでも、自信なんか持てなくても、決して筆を捨てたりなんかしないだろう。
だって、先輩はこんなにも小春さんのことが好きなんだから。
「先輩、そんなふうに笑うんですね」
冬子先輩は頬を指で拭い、芽吹くような笑顔で言った。
「うっさい、ばーか」
もうすぐ春がやってくる。
(了)
造花のうた 大淀たわら @tawara
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