第6話 冬の子どもたち(後編)
(1)
一か月間の活動停止。それが美術部に起きた事件の結末だった。小春さんも二週間の停学と部費の返還を命じられた。警察沙汰にはされなかったそうだが、それはむしろ学校側の都合だろう。
小春さんは停学が解けたあとも半月ほどは在学していたらしい。美術部の部員一人ひとりに謝罪を申し出たが、受け入れた生徒は数えるほどしかいなかった。クラスにも居場所がなくなり、結局は自主退学という形で梅女へと転校する。本来であればトラブルを起こした生徒が入学できるような高校ではないはずだが梅女と父親との間に何かの伝手があったそうだ。編入はあっさりと認められた。残された美術部は一か月の喪が明けても活動を再開する人間は現れなかった。互いが曝した醜い本音は小春さんが罪を被ることで雪げるようなものではなかったのだ。一人また一人と部員の籍がなくなり、顧問の新里も今年三月に他校への異動を命じられた。そして、ただ独り冬子先輩だけが残った。
俺は丸椅子の座枠を両手で掴み美術室の天井を見上げる。ここでこうやって眺め回してもそんな大それた事件が起きたとは信じがたかった。窓ガラスは割れていないし、床に石膏像も落ちていない。合唱部の歌声だって聴こえてくる。穏やかで、間が抜けていて、平和な放課後そのものだ。でも、刻まれた傷痕は今でも確かに残されている。見えなくとも、確かに。
全てを語ったあとで小春さんはこう言った。
「神坂さんが私を嫌うのも当然のことです。でも、それは彼女が美術部にいられなくなってしまったからではありません。中山さんの居場所を私が壊してしまったこと。神坂さんはそれに対して怒りを抱いているのです。神坂さんにとって中山さんはそれだけ大切な友人なんです」
神坂と中山先輩はいつも一緒に行動している。まるで姉妹のように。
冬子先輩にとっても小春さんは大切な存在だったはずだ。幼い頃から共に育ってきた親友同士。姉のように慕い、妹のように守ってきた。二人は確かな絆で結ばれていた。それでも、先輩は許せなかったのだ。小春さんが自分を差し置いて認められたことが。彼女が自分より優れているという事実が。むしろ姉妹のように近しい存在だったからこそ余計に受け入れられなかったのかも知れない。その存在が大きかったからこそ、余計に。
「よお藤宮。今日は一人か。暇してんな」
突然がらりと扉が開き、気楽な調子でゆいちゃんが入ってきた。特別教室棟の分厚い扉は開閉の度に振動が三階まで伝わる。どうやらそれに気付かないほど考えに耽っていたらしい。
丸椅子に腰かけるゆいちゃんに俺は言った。
「先輩は来ないと思います。待ってはいるんですが」
「ふうん。で、お前は?」
「別に何も」
「……前から訊きたかったんだがお前どうして美術部に入ったんだ?」
俺がどうして美術部に入部したのか。改まって答えるほど大層な理由などないのだが、少々ナーバスになっていたらしい。教室の薄暗さが心地良かったせいかも知れない。自然に口が滑った。
「……部活紹介のとき、美術部って何もしませんでしたよね」
ゆいちゃんが、ああと頷いた。
「柊が断ったからな。そのせいか知らんが今年はお前以外の入部者はゼロだ。部自体が存在していないと思われてるのかも知れん」
「でも、部活動の一覧表には名前があったから気にはなっていたんです。それで廊下の窓から一度中を覗いてみたことがあって……。ちょうど今みたいに薄暗い時間帯でした。冬子先輩が独り絵を描いていたんです。誰もいない教室で、独り、黙々と」
そのときの先輩の姿は、まるで絵を描くためだけに存在する一個の道具のように見えた。余分な一切が削ぎ落とされて、純粋だった。
「聞けば今年新入部員がいなかったら美術部自体がなくなるって話じゃないすか。それを知って、すげえなって思ったんです。もうなくなるかも知れない部活でどうしてあんなふうにできるんだろうって。こんな人がいるのにもったいないなって」
ゆいちゃんが目を丸くした。
「それで、部を潰さないために入部を?」
「格好良く見えたんスよね、先輩のこと」
だから、力になりたいと思った。何一つ持たない俺が籍を置くだけでこの人の助けになれるのなら、それはどれだけ意義深いことだろうと。価値のない俺に、価値が見出せるような気がした。
「憧れたんだな、柊に」
「さあ、どうなんですかね」
「だったらなおさらだ」
なおさら?
「どうして自分で絵を始めようとしない? 柊みたいになりたいとは思わないのか?」
俺は窓を見やった。空があった。遮るものは何もなかった。自分の手を見て、足を見た。目を伏せた。
「思わないわけじゃありません。でも無理です」
「なぜ」
「俺に才能なんてないですから」
「はあ?」
ゆいちゃんが素っ頓狂な声を上げる。織り込み済みの反応だった。俺は余裕で笑ってみせる。
「先生、俺、もう十五ですよ? 歩き始めたばかりの子どもみたいに親から何かを期待される齢じゃない。勉強は中の下。運動はからっきし。美的感覚も十把一絡げ。まとめていくらの能力しかないことぐらい自分でも分かりますよ。運がいいから成功したなんてコメントは才能があるやつだから言えることです。何も持たない人間は端から発言を求められません。だから、絵を始めようだなんて、そんな無理をする気はそもそも起きないんです」
こんなことを話すと大抵の大人は呆れ果てる。そうすることが義務であるかのように、頭ごなしに否定をする。若いのに何を言っているんだ。冷めたことを言うな。一所懸命夢を追え。
でも、いくら理想を掲げたところで覆らない現実があることに彼らもとっくに気付いている。気付いていながら目を逸らす。模範解答に避難する。自分にどの程度の能力が備わっているのか。何ができて何ができないのか。限界がどこで、どこまで通用するのか。高校生にもなれば、そんなことは全部分かってしまうのだ。
見上げるだけだ。見上げて下から喜ぶだけ。1%を持つ人間の成功を、どこまでも他人事だと知っていながら。
どうして冬子先輩が俺に絵画を薦めなかったのか、今では痛いほど理解できる。結局、生まれ持った能力がなければ拓けない道だと先輩は気付いてしまったのだ。まさに途轍もない才能の開花を目の当たりにして。だから俺に同じ轍を踏ませたくないと思った。先の途切れた、疲れて果てるだけの
「なるほどな」
ゆいちゃんが相槌を打った。その声が、呆れるでもなく、怒るでもなく、存外に優しげに聞こえたので、俺はつい顔を上げた。
「藤宮、お前の勘違いを一つ正してやる」
「勘違い?」
「お前、才能は自身に備わった能力だと思っているだろ?」
それ以外に何があると言うのだ。
「違う。才能は結果だ。何かを成して結果を残した者だけが才能があると認められるんだ。だから、何も結果を残していないやつが自分に才能がないなんて言えるはずがない。矛盾だ。論理として破綻してる」
吹き出しそうになった。何を言い出すかと思えば。
「屁理屈ですよ。現実として個人の資質は平等じゃないでしょう。スポーツなら体格や筋量によっても行使できる能力は違ってくる。そこには絶対的な個人差があるはずだ」
「なら訊くが、仮に百メートルを9秒台で走れる能力を備えた男がいたとしてだな。そいつが短距離走に興味を示さず平凡な会社人として一生を終えたとしたら……そいつには陸上選手としての才能があったと言えるのかな?」
「……ありますよ、才能は」
「なぜわかる? 結果も出していないのに」
口ごもってしまった。納得したわけではない。すぐに反論が思い浮かばなかったのだ。ゆいちゃんが「な?」といたずらっぽい顔を見せた。
「行使されない能力はないと同じだろ? お前はまさにそういう選択をしようとしているんだ。それにな藤宮。才能才能と言うがお前は一体どこまでの結果を想定しているんだ? 地方の公募展で入賞する程度か? 職業として食っていけるぐらいか? それとも歴史に名を残さなきゃ気が済まないか?」
分からない。考えたこともない。
「趣味の範囲で楽しむという選択だってあるし、自分が納得できるものを追求したいのなら他人との比較なんて端から無意味だ。そもそも結果を残せなかったからってそれが何なんだよ。目標を定めるからには全力を尽くすのは当然だが、成功すれば幸せになれるとは限らない。逆もまた然りだ。結果なんて長い人生の中では一つの点に過ぎない。そこを過ぎてもお前の生活は続いていく。結果が全てと人は言うが、私はそれを求める過程で培われたものが無意味になるとは全く思わない。私も若い頃は芸術家になりたかった。環境がそれを許さず果たせなかったが、そのとき得た知識と技術のおかげで教師としてお前と話をしていられる」
ゆいちゃんがすくと立ち上がった。俺が座っているせいだろうか。小さなゆいちゃんがいつもより大きく見えた。
「お前に必要なのはたった二つだ」
ゆいちゃんは腕を組み力強く言い放った。
「始めること。そして続けること!」
校舎の外に響くほど高らかな声だった。
「人生を豊かにしてくれるのは才能じゃない。学び、出会い、成長し続けることだ。そのためにまずは一歩目を踏み出さなければならない」
「始めること。続けること……」
シンプルだった。そんなことでいいのかと思えるほどに。単純で、分かりやすかった。
ゆいちゃんが俺の頭にぽんと手を乗せた。
「お前まだ十と五つの坊やじゃねえか。才能だの結果だのとくだらねえことに惑わされんな。そんなもんはな、始めたあとから蹴散らしていきゃいいもんなんだよ」
そして、先生はにかりと笑った。
始めること。そして続けること。
駅へと向かう俺の頭にゆいちゃんの言葉が焼き付いていた。綺麗に磨かれた鐘の音みたいにカランコロンと響いていた。
無論、全てに納得ができたわけではない。
依然として腑に落ちないところもある。
ゆいちゃんは才能とは結果のことで、結果とは通り過ぎていく点に過ぎないと言った。続けることこそが大切なのだと、そう言ってくれた。
ならば、想いとはどう向き合っていけばいいのだろう。理想の自分。掲げた目標。こうありたいと願う気持ち。それらを実現させるために人は努力し歩みを続ける。では丹念に年月を重ねても求めるものが手に入れられなかったとしたら……。それでも人は進み続けることができるのだろうか。叶わぬ夢を抱きながら、それでも。
確かに、何も始めていない俺が考えるべきことではないかも知れない。でも冬子先輩は違う。先輩には想いがあった。積み上げてきたものへの自負があった。希望があった。揺るぎないそれが打ち砕かれたとき、先輩の想いは親友を拒絶した。美術部から皆を追い出す結果を招いた。
まるで呪いだ。
先輩は今もなお呪いを引きずりながら絵を描き続けている。果たしてそれは豊かな生き方と言えるのだろうか。
「……ん?」
美術部から皆を追い出した?
そう、美術部に下された処分は一か月間の活動停止。喪が明けたあとも帰ってきたのは冬子先輩だけだった。でも、それっておかしくないだろうか? どこか不自然な気がする。
「だとしたら、あれって一体……」
ふとした疑問だが見過ごせなかった。確かめる方法はないだろうか。俺は考えを巡らせる。ある。九割方問題ないはずだ。ポケットからスマホを取り出し画面に触れた。そのときだった。
「あれー? 真一くんじゃん。久しぶりー」
能天気な声が飛んできた。視線を上げると、交差点の曲がり角で見知った顔が手をひらひらさせていた。
「風花さん」
「つれないなあ真一くん。ばななって呼んでよ」
風花奈々さん。霧代大学一年生。先輩の根付を拾った嵐山さんの後輩にあたる人だ。ノースリーブにショートパンツと相変わらず目のやり場に困る格好をしている。今から夜の街へ繰り出すのだろう。派手な服装はその宣言にも見えた。風花さんは気合の入った格好とは裏腹に折り目正しくお辞儀をする。
「先日はうちのアホがご迷惑をおかけしまして」
いえいえこちらこそと俺は返した。
「奈々さん、今日は嵐山さんと一緒じゃないんですか」
「いやいや、あたしら別にいっつも一緒ってわけじゃないんだよ? 今夜はサークルの飲みで合流するけどさ。あ、真莉姐さんも来るよ。真一くんもどう?」
「俺まだ未成年ですよ?」
「? あたしも未成年だよ」
深くは突っ込むまい。
「お店で合流するんですか?」
「うんにゃ、霧代駅。真一くんも駅だよね?」
ええと頷く。奈々さんに利用している駅を教えた覚えはない。でも今いる場所から駅までは数分で着く。進行方向からも駅へ向かっていると考えるのは自然だろう。俺はスマホを制服に仕舞った。
「折角だから一緒に待たせて貰おうかな」
「なに? やっぱり来たい?」
「行きませんってば」
少し、と口を開いたところで大型のトラックが歩道の間近を走り抜けた。温い風が顔を叩く。走行音が遠ざかる間、俺と奈々さんの間に沈黙が生まれた。気を取り直して言った。
「少し、知りたいことがあるんです」
「才能の壁にぶつかったときどうすればいいか、ねえ。難しいこと考えるんだね少年は」
俺と奈々さんは改札口の近くのベンチに並んで座っていた。時刻は午後5時前。嵐山さんが到着するまで数分はある。退社したサラリーマンがロビーに溢れ返るにはもう少し時間がかかるだろう。今はまだ利用客の半数を学生が占めている。あとの半数はよく分からない。休暇を取っている人もいれば、夜勤の人もいるかも知れない。窓口で駅員と話している老婆は旅行者のようだった。どうやら道に迷っているらしい。駅員が地図を片手に南口方面を指差しているが、老婆は咎めでも受けているかのように弱り切った顔で小さくなっていた。哀れで心もとない光景だったが、どうすることもできなかった。
「俺の周りで色々あって……。俺自身も教師から絵を始めてみないかって誘われてるんですけど、間近でそういう人を見てしまうと、どうしても」
「尻込みしちゃうんだね」
首肯する。
「奈々さんはどうして写真をやってるんですか?」
奈々さんは組んだ脚に頬杖を突きながら、んーと唸った。
「そんな深い理由はないよ? 大学入ってたまたまラシヤマ先輩の写真見て、ああ綺麗だなって、あたしにもこの人みたいに写真が撮れたらなって、そう思っただけ。要は楽しいからかな?」
「嵐山さんも?」
「あの人は写真で食べていきたいって言ってるからあたしとはまた別の人種」
「……嵐山さんより上手い人なんていくらでもいるでしょう。収入が安定するとも限らない。不安になったりしないんでしょうか」
そう言ったあとで馬鹿なことを口にしたと思った。不安にならないはずがない。俺が本当に言いたかったことはこうだ。『プロになんかなれるわけないだろう』 恥ずべき失言だった。
奈々さんがどこまで汲み取ったかは分からない。何気ない顔で話し始めた。
「……前に聞いたんだけどさ。あの人、機会があって一度プロのカメラマンに自分の写真を評価して貰ったことがあるんだって。結果はボロボロ。写真の出来はもちろん人格まで否定されるくらいひどいこと言われたらしいよ。そのときのことは今でもたまに夢に見るって」
実力の世界だ。人柄なんて見てはくれない。情け容赦ない言葉が浴びせられたことは俺でも容易に想像できる。正直ぞっとした。
「そんなになってまでどうして続けたいと思うんでしょう」
「そりゃあもちろん写真が好きだから」
奈々さんは澄ました調子で言い切ったあと、あははと笑った。
「……って言いたいとこだけど、好きだけで続けられるものでもないと思うんだよね。あたしにはよく分かんないけど。……そうだね。たとえば真一くんさ、ある日お医者さんにね」
「医者に?」
「うん。あなたの右手は病気です。放っておけば数年で腕まで腐ってしまいます。切り落とせば大丈夫ですが1%くらいは自然に治る可能性があるかも知れませんって言われて、すぐに右手を切って落とせる?」
「……無理だと思います」
「あたしも無理。多分、先輩にとって写真はそういうもの。もう先輩の、生き方の一部なの。誰だって自分の身体を、価値観を、心を否定することなんてしたくない。たとえ、どんなにそれが他人と比較して劣っているものだとしても、誰かと取り換えたくても、それはやっぱり自分自身なんだもの。限界まで肯定し続けるしかないの」
肯定し続けるしかない。自分の一部だから。
電車の到着を告げるアナウンスが駅舎に流れた。槌を打つような線路の音と甲高いブレーキ音が響く。プラットホームから乗客が溢れ、程なくして舎内は靴音で満たされた。家族が迎えてくれる人。重そうなトランクを引きずる人。友達に笑顔を見せる人。黙々と歩き続ける人。色色な人がいて色色な表情がある。まるで一枚の絵画のように。でも違う。描き上がって終わりではない。どこからか来た人は、どこかへと向かっていく。駅に着いたそのあとも。
流れていく人々の中に見覚えのある顔が混じっていた。奈々さんは揺れる茶髪頭を見つめて言った。
「それにさ、やっぱ悔しいじゃん? 好きな気持ちを諦めるのって。それが誰か他の人のものでもさ。はいそうですかって簡単に手放したりはできないよ」
「……奈々さん」
奈々さんの瞳がカラフルに染まっていた。胸の奥から広がる感情の色だった。彼女は立ち上がり、色のままに叫んだ。
「せんぱーい! ねえさーん! こっちこっちー!」
うるせえぞばなな叫ぶんじゃねえと声が返ってくる。よく見ると嵐山さんの隣に一際高く突き出た頭があった。
「おおお、あれが真莉さんですか」
すごい。あの嵐山さんが小さく見える。モデルみたいだ!
奈々さんがくすりと笑った。
「何かを始めるのって不安だよね。先のことを考えちゃう君みたいな子だと余計にそうだと思う。でも、最初は手探りで始めるくらいがちょうどいいんじゃないかな。好きなことをやる。興味があるものを手に取ってみる。そうしてそれが自分の手足みたいに捨てられないものになったとき、そのときは……しっかり悩んで苦しむしかないんだと思う。案外、朝起きて歯を磨くくらいのことは当たり前にやれてるかもよ?」
奈々さんが俺の腕をばしりと叩いた。
「しっかり青春しろよ、少年!」
(2)
柊冬子。霧代西高二年。美術部部長にして唯一のまともな部員。名は体を表すとの言葉どおり周囲との温度が数度は違っていそうな女。無表情。冷血。自分勝手。初対面で抱いた印象は今でもさして変わらない。今もまたそこにしか居場所がないようにキャンバスの前に座っている。でも、それが冬子先輩の全てではないことを俺は知っている。意外とお喋りが好きなことを知っている。ちょっと得意気にうんちくを語ることを知っている。面倒見が良くて優しい一面があることを知っている。先輩もまた悩み苦しむ一人の女の子であることを知っている。そして、誰よりも強い人であることを俺は知っている。
キャンバスには女性の全身像が描かれていた。冬子先輩の幼馴染。親友であり妹のように想っているひと。その微笑み。夕陽に彩られた彼女はとても優しくて、きっと記憶のままの姿をしている。
その記憶が、思い出が、先輩自らの手によって塗り潰されようとしていた。画布を撫でる音がざらざらと耳障りだった。
刑務所のようだと先輩は言った。特別教室棟はまるで牢獄だと。ならばこれは先輩に科せられた罰なのだろうか。一体、何の罪で?
「突っ立ってないで入ってきたらどうだ」
先輩の横顔が話しかけてきた。俺はドアに手を添えたまま質問を返す。
「その絵、どうするんですか」
「やめる。これ以上続けても無駄だ。描きたいものは描けない」
「捨てるんですか」
「油絵は展色材に乾性油を使っている。顔料と練られた乾性油は酸素を吸収しながら樹脂状の硬い皮膜を作って…………なんでもいい。上書きができるんだよ油絵は。描き直すかどうかは、まだ決めていない」
上書きができる。既にあるものを覆い隠すことができる。単なる偶然だろうか。
「去年、先輩はそれと同じことをしたんじゃないですか」
「? 何の話だ」
ずっとキャンバスしか見ていなかったからだろう。先輩は筆を止め、初めてそれに気が付いた。
「お前、それ」
俺は反応の薄さを少し残念に思いながら、それを手に取り美術室へ入った。
「こんなでかいもん抱えて楽しくハイキングさせられる身にもなってくださいよ。持ちにくいんすよ、これ」
座る先輩の足元にキャンバスを置いた。
「これ、先輩の絵でしょ」
昼なのか、夜なのかもわからない暗い牢獄。光を拒絶しうずくまる痩せ枯れた女。腕の傷。滴る赤い血。薔薇の花。観る者に世界の現実を突きつけるかのような、耐えがたく息苦しい描写。冬子先輩は絵画『薔薇を抱く女』に手を添えた。
「これで任務完了ですね。大分遅くなっちまいましたが」
「……遅すぎるくらいだ」
違いない。気付くタイミングはいくらでもあった。それこそ小春さんに絵を預けたとき、彼女の口から持ち主を教わる可能性が最も高かったはずだ。でも、作者が冬子先輩だと分かったのは去年の事件を聞かされたあとだった。
『薔薇を抱く女』は素人が描いた作品ではない。それがゆいちゃんの見立てだった。授業で描かれたのでなければ美術部の誰かの作品ということになるが、部員の作品は去年の事件でいずれも疵を付けられている。また、小春さんも見たことがないのだから『薔薇を抱く女』は彼女が転校したあとに描かれたものということになる。そして、事件後、美術部に残った部員は冬子先輩一人しかいない。
「大体、先輩が小春さんの絵を見間違うはずないでしょ」
先輩は意図して俺を運び屋に仕立て上げたのだ。小春さんと仲違いしている自分では彼女に会うことはできない。だから自らの作品を小春さんのものと偽り、間抜けな後輩に運ばせることにした。
「見て貰いたかったんですか。小春さんに」
先輩は手元に戻ってきた自身の絵を、本当に他人のものであるかのように見下ろしていた。
「お前には関係ない」
「それなら」
と返したのは俺ではない。声は俺の背後、美術室の入口からだった。
「私には関係あるよね」
「のどか……」
今度こそ先輩の目が驚愕に揺れた。無理もない。ここは西高の美術室だ。いくら元生徒言えども部外者が立ち入ることは許されない。禁を犯して連れてきたのは俺だ。西高の制服を着て貰ってはいるが、小春さんの外見はどうしても目立つ。見る人が見れば一目で彼女と分かるだろう。特別教室棟に入るまでも相当に神経を使った。
冬子先輩が俺たちを、取り分け俺を睨みつける。でも、前回のように走って逃げようとはしなかった。出入り口付近を俺と小春さんが塞いでいるのだから当然だが。見方によれば俺たち二人で先輩を追い詰める形になってしまっている。先輩は憮然として言った。
「ご苦労なことだな。それで、どうする。お前たちで私の絵を論評してくれるのか?」
「まさか。話を聞いて欲しいだけです」
「今さら何を話すことがある。嫉妬に狂ってこいつの絵を切り刻んだことを謝罪しろとでも」
「冬子」
言葉こそ刺々しかったが態度は淡泊だった。今の俺にはその棘すらどこまで本物なのか分からない。
「先輩、去年のことは小春さんから聞きました」
「だろうな」
先輩は『薔薇を抱く女』を持ち上げ、机に寝かせた。
「その絵が先輩のものだということもそれで気が付きました。でも……全く同じ理由で、先輩の嘘にも気が付いたんです」
「……嘘?」
問い返す調子が含まれていた。先輩には嘘を吐いたという認識はないのかも知れない。俺もその言葉が適切かどうかは分からなかった。でもニュアンスは伝わるはずだ。事実、伝わったのだと思う。少しして先輩は動きを止めた。俺は言葉を重ねる。
「この前返した根付はありますか?」
「……あれがどうしたと言うんだ」
「なければないで構いません。確認したいのは時系列です。先輩は準備室を荒らした際に二つあるとんぼ玉のうち、一つを机の角に引っかけて床に落としてしまった。その後、根元の部分も嵐山さんとぶつかったときに失くしてしまった。間違いないですね?」
冬子先輩は肯定も否定もしない。
「なら、それはいつだったんでしょう? 素直に考えれば、少なくとも事件が発覚した十一月六日以降ということになる。時刻は夜の8時半頃。でも、発覚した日はもちろん、その日以降も美術部は一か月間の活動停止を命じられている。活動が許可されていないのにどうして先輩は夜の8時なんて遅い時間まで学校に居残っていたんです?」
「そんな日もあるだろう。別に部活がなければ居残っちゃいけない決まりなんてあるまい」
「……あるよ。用のない生徒は速やかに下校するよう校則に定められてた、と思う」
小春さんが控えめに言った。あるのか。俺も知らなかった。
「まあ、そこは問題じゃない。仰るとおりです。部活以外で居残ることだってあるかも知れない。だから確かめたんです。先輩があの根付をいつ落としたのか。……先輩、嵐山さんはこう言っていました。根付を拾ったのは十一月の上旬、祝日の翌日か、その次ぐらい。小春さん、十一月上旬の祝日って何の日か覚えてますか」
「待て」
先輩は答えを遮った。
「それは全て嵐山とかいう男の証言だろう。半年も経てば記憶も薄れる。信憑性がない」
「霧代美術展もその日に合わせて開催されるんでしょう? 趣旨からしても当然だ。嵐山さんは去年も美術展に出展していた。だからある程度日付を覚えていた」
「証拠がないと言っているんだ」
「いえ、先輩。証拠はあるんです。誰の目にも明らかな、客観的な証拠が」
「……どうして。あの男の証言以外に記録なんて」
怪訝な目で言いかけて、はっと気付く。
「画像データか」
俺はこくりと頷いた。
「先輩とぶつかったあの日、嵐山さんはただ散歩をしていたわけじゃない。歩きながら写真を撮影していたんです。当然デジカメだ。写真を撮ればデータが残る。データには撮影日が記録されている。それがいつの日だったか、先輩には言わなくても分かりますね?」
振り返って小春さんに問いかける。
「事件が発覚した朝、冬子先輩は美術室にカバンを持ち込んでいたと言いましたね」
「……ええ」
「でも、カバンに根付は付いていたんでしょうか?」
「え?」
「ちゃんと確認しましたか? カバンに根付が付いていたのか」
小春さんは口元に手を当て「そこまでは、いや、でも」と考え込んだ。意地の悪い質問だったかも知れない。記憶を探らずとも俺は答えを知っている。
「付いてなかったんですよ。あるはずがない。なぜなら冬子先輩が根付を落としたのは文化の日の二日後、先輩が美術部に侵入したとされる五日の夜なんです。翌日事件が発覚したとき既に根付は失われていた。でも、それだっておかしい。先輩が侵入したと推定される時刻は美術部に人がいなくなった8時半過ぎから顧問の新里が警報システムを作動させた9時過ぎまでの小一時間ほど。でも嵐山さんは8時半頃に先輩にぶつかったと言っていたし、複数の写真の撮影時刻からそれはおおよそ裏付けられている。そうなると先輩は8時半には美術室を荒らし終えて学校を後にしたことになってしまう。中山先輩と一緒に」
薄暗い美術室に沈黙が落ちる。教室から見える景色が俺は好きだった。でも、ふと考える。俺は窓の外が好きなのだろうか。外光が生み出す部屋の陰影が好きなのだろうか。かぶりを振る。今はどうでもいいことだ。
先輩は押し黙っていた。先輩は俺が事実を知っていることを知っている。本来解説などセレモニーに過ぎない。それでも沈黙を貫くところに先輩の義理堅さを感じる。
「ここまで言えば十分でしょう。これが先輩の吐いた嘘だ。上書きされた事実だ。美術室を荒らしたのは冬子先輩一人じゃない。その場には中山先輩もいたんだ。……いや、違う。事件の原因は中山先輩にあると俺は思っている。あなたは中山先輩を庇っているんだ」
背後で小春さんが息を呑んだ。小春さんには何も話していない。困惑していることは気配でも分かった。小春さんはおずおずと尋ねてきた。
「ですが、藤宮さん。なぜです? 中山さんが行ったことだとしたら、なぜ冬子は」
中山先輩を庇わなければならなかったのか。問題はそこだ。冬子先輩にとって、小春さんにとって中山先輩は高校からの知り合いだ。同じ美術部の友人ではあったろうが、特別親しかったわけではないことは伝聞からも伝わってくる。そんな彼女の罪をたとえ芸術のためでも犯罪は許されないとまで言い切った冬子先輩が庇うだろうか? 汲むべき事情があったとしても、せいぜい黙認がいいところという気がする。
仮に中山先輩と冬子先輩が単なる共犯関係だとするなら先輩が小春さんと決別した夜に彼女の名前が出てきても良かったはずだ。小春さんを憎んでいるのは自分だけではない。その事実は小春さんを傷付ける有効な攻撃手段になり得るし、また自分一人が悪いわけではないという罪悪感の軽減にも利用できる。功績を独り占めにする人間はいるだろうが、悪事を独占しようとする人間はいない。
冬子先輩は明らかに中山先輩の存在を秘匿しようとしている。一方が一方を庇うとき、そこにはどんな関係が考えられるだろう。たとえば上下関係。弱みを握られている場合が当てはまるかも知れない。
「しかし、無理に従わせられるほどの弱みが冬子にあるとは思えません」
小春さんは否定する。それはどうだろう。他人が何を隠しているかなんて他人に分かるようなことではない。たとえ親友同士でも知り得ないことは今の状況が証明している。ただ、弱みを握られていたわけではないという意見には俺も賛成だった。弱者と強者の関係は必ず態度に現れる。二人の接し方を見てもそこに上下が在るようには見えなかった。
なら、他にどんな理由があり得るだろうと考え、俺はこう結論付けた。
「中山先輩は被害者なんでしょう? しかも、その被害を公にできない類の。だから先輩は彼女を庇わなければならなかった。たとえ自分が悪者になり親友を傷付けることになったとしても、守らなければならない弱者だったから」
冬子先輩は無反応だった。
言葉を溜め、心臓の鼓動に耳を傾ける。先を続けるには勇気が必要だった。
「先輩、もし俺の推測が間違っていれば違うと言ってください。殴って軽蔑してくれても構いません。俺だってそうじゃないと願いたい。こんなおぞましいこと……。でも」
崖下に飛び降りる気持ちで自らの考えを形にする。
「中山先輩は、ここで誰かに襲われたんじゃないですか?」
(3)
冬子先輩は俺を殴りはしなかった。怒りも、否定も。ただ、先輩がまとう棘のような空気が、夕陽に溶けて霧散していくように感じた。やがて先輩はぽつりと語り始めた。
「あの夜、美術室に戻ったのは偶然だった」
先輩は描きかけのキャンバスに目を向けた。
「画塾の日ではなかったが私は放課後、市内にある師の自宅を訪ね指導を仰いだ。自分の作品のどこが悪かったのか。なぜ評価されなかったのか。今後どう改善していくべきか。話を終える頃には7時半を過ぎていたが、私は自分が仕上げている絵をどうしても見たくなった。学校の前を通ると美術室にまだ灯りがついていた。幸いと思い特別教室棟に入り……窓ガラスが廊下に飛び散っていることに気が付いた」
冬子先輩は俺の背後を指差した。
「何事かと思い中に入ると姫川が作った左手の彫刻が割れた窓の下に落ちていた。美術室の奥からは誰かがすすり泣く声がする。私は誰かいるのかと尋ねたが返事はなかった。そして、教室を覗き込むと……机の陰で制服の乱れた中山が泣いていた。同時に、準備室のほうでドアを開閉する音が聞こえた。廊下を走る何者かの足音が響き、階段を下りて遠ざかっていった。そいつは私が美術室に近付いてくることに気付き準備室のほうに隠れていたんだ。準備室に隠れ、私が美術室に入ったのを確認し、それから準備室のドアを開けて逃げ去った。顔は見ていないがそんなやつがすぐ隣の部屋にいたかと思うと今でもぞっとするよ。私は泣きじゃくる中山から辛抱強く事情を訊き出した。居残って独り作業をしていたこと。知らない男が中に入ってきたこと。手近にあった彫刻を投げつけこと。狙いが外れて窓が割れたこと。そのあと力ずくで……」
先輩は不快と悔しさに歯噛みした。
「私は新里に相談して警察を呼ぼうと言った。だが中山は半狂乱になってそれはやめてくれと叫んだ。こんなことは誰にも知られたくないと。どうか秘密にしておいて欲しいと。私はそれでも警察に相談すべきだと思ったが、中山の気持ちも痛いほどに理解できた。私が同じ立場だとしたら、やはり同じことを言ったかも知れない。だが美術室の現状はどうかしなければならなかった。明日になれば部員の目に曝される。彫刻は落としたで済むが、窓ガラスに関しては必ず説明が必要になってくる」
「……それで泥棒が荒らしたように見せかけたの? 何が起こったのか痕跡を消すために」
「言い出したのは中山だ。新里が警備システムの作動を遅らせたのは全くの僥倖だったな。下校直後に作動させられてしまうと犯人を仕立てあげる時間がなくなってしまう。当初の予定では中山が新里を足止めして時間を稼ぐ手筈だった。制服の乱れもコートを着れば隠すことができる。しかし、知ってのとおり新里はすぐに見回りはせず残業を優先すると言った。おかげで中山に不審の目が向けられる可能性を自然に取り除くことができた」
つまり、実際はやはり中山先輩が下校を報告した8時半の時点で既に美術室は荒らされていたということだ。特別教室棟を出た二人は一旦別れ、中山先輩は職員室へ、冬子先輩は校外へ出る。のちに再び合流し、二人で帰ろうとしたところで嵐山さんとぶつかった。
「だが、私は空き巣の仕業に見せかけるだけでは不十分だと思った。仮に外部の人間の仕業に見せかけて本当に警察の捜査が入ればどうなる? 素人の偽装など簡単にばれてしまう。中山の身に起こったことは必ず暴かれる。どうしても部内だけの問題で終わらせる必要があった。犯人は必ず見つからなければならなかったんだ。生徒の犯行となれば学校も穏便に済ませようとするだろう?」
「じゃあ、準備室で落としたとんぼ玉は、わざと?」
冬子先輩は、そこまでは気付いていなかったんだなと呟いた。
「そうさ。誰かが見つければそれでよし。見つけなければ頃合いを見て中山が公開する手筈になっていた。美術室荒らしは私がストレス発散にやったこと。それで中山の身に起こった出来事を覆い隠すことができる。だが、仕掛けはそれだけじゃない。のどか」
先輩は小春さんの名を呼び、柔らかな、それでいてどこか複雑な表情を見せた。笑っているようにも、泣いているようにも見えた。薄い唇を控えめに動かした。
「お前なら必ず私を庇ってくれると信じていた」
不意に石ころを放り込まれたように、すぐには意味を理解できなかった。咀嚼し、呑み込み、企図を掴んだとき、湧き上がってきたのは怒りだった。が、真っ直ぐに向けられた先輩の右手が感情の噴火を制止した。
「違うさ。信じて貰えなければ仕方がないがのどかに罪を着せるつもりなんてこれっぽっちもなかった。最後は私が罪を引き受けるつもりでいたんだ。大体こいつが自分がやりましたと名乗り出たところで誰が信じる? 誰も信じやしないさ」
確かにそうだと納得した。俺が信じられなかったから余計に。強いて根拠を言えば当時の小春さんは絵描きとして順風満帆だった。荒れる理由がない。
「……訳が分かりません。だったら、そのプロセスを踏むことに何の意味があるんです」
「上書きだよ。お前も言ったじゃないか。最初から私が名乗り出るだけでは何か隠しているのではないかと疑念を持つ者も現れるかも知れない。万全を期すには最初にのどかに私を庇わせ、それをあとから私が庇う形にするのが最も効果的だと考えた。私なら美術部を荒らしてもおかしくない理由がある。何より物的証拠を持っている。のどかに対し違和感を抱かせたあとで、私が真犯人だと名乗り出れば必ずや全員が納得するだろう。柊の仕業なら頷ける。小春は友人を庇ったのか。そこで思考停止だ。中山に疑いの目が向けられることは永遠にない……はずだった。だが、誤算があった」
準備室で細工をした際バックから取り外していたからだろう。冬子先輩は、事件の当日に証拠であるはずの根付を紛失してしまった。
「……それとのどかだな。まさかあんな派手に暴れるとは思わなかった。ああなってしまっては誰も何も言えなくなる。私も呆気に取られて動けなかったくらいだ。お前は私とは全く別の方法で皆の思考を停止させたんだよ」
冬子先輩は机に置いた『薔薇を抱く女』に視線を送る。
「一方で私はこうも考えた。のどかは私を庇った。結局それは私を信用していないのと同じことではないかと」
「そんなことっ……!」
小春さんが強く否定する。冬子先輩は彼女の声を穏やかに受け止めた。
「分かっているさ。お前は私を守ろうとしただけだ。……いや、違う。本当は分からなくなっていたんだ」
先輩は窓辺まで静かに歩んだ。窓枠に手を当て開け放たれた窓から空を望む。風が先輩の髪を梳いた。
「藤宮、お前は私が嘘を吐いたと言った。半分は正解で半分は不正解だ。私は確かに中山を守ってやりたいと思った。でも、のどかに浴びせた私の言葉も紛れもなく私の本心だった。お前はいつかゆいちゃんが公募展について批判していたことを覚えているか?」
記憶を呼び起こす。
「確か、長老たちがどうとかって」
「そう、公募展の審査は公平じゃない。運営や審査員の匙加減で受賞が決まる。彼らの好みや過去の実績、場合によっては派閥や人間関係によって『優れた作品』が決められる。私は霧代美術展の受賞傾向を熟知している。何しろ師が運営委員に席を連ねているし、何年も主催側から作品を見てきたからな。だから、ここで勝負をすればのどかに負けないと思った。お前は恐ろしいスピードで上達していたが、それでもまだ私のほうが上だと証明できると思った。私は審査員が好みそうな画風を徹底的に追及した。主催者には身内もいる。負けるはずがなかった。だが……」
先輩は言葉を区切った。先を話すのを躊躇っているようだった。
「結果は知ってのとおりだ。プライドを捨てて審査員に媚びた私をお前は難なく一蹴した。贔屓も派閥も画の力でねじ伏せて見せた。あまりに惨めだった。情けなかった。気付けば自分の中の醜い泥を全てお前に吐きつけていた。私は怖かった」
先輩は独白を続ける。
「怖かったんだ。いつの間にか私はお前のことが分からなくなっていた。私の後ろでいつもにこにこ笑っていたお前のことが。絵だって私が教えてやったから上手くなったんだと思ってた。でも違った。気付けばお前は私を追い越して全然知らない場所に立っていた。そのとき私はお前のことが分からなくなった。お前が何か得体の知れない人間みたいに見えた。私は怖かった。自分の存在意義を失うことが。私はお前が怖かったんだ。お前は何も変わってなんかいないのに」
夕陽色に染まる雲を背に冬子先輩が振り返る。少し口元を緩めていた。
「のどか。前に聞いたな。お前は何に対して謝っているのかと。答えはもう分かっただろう?」
「冬子」
「お前が謝るべき相手なんてどこにもいない」
どこにも。先輩は繰り返した。
言葉が途切れる。話は終わったのだ。確かめるべきことはもう確かめた。ゆいちゃんが顔を出す前に小春さんを帰すべきだろう。でも、あと一つだけ知りたいことがあった。純粋な好奇心だ。俺は机に目をやった。
「その絵、本当は何てタイトルなんですか」
「『造花』だ。偽物の花。私にぴったりだろう」
冬子先輩は自嘲する。小春さんが絵に歩み寄った。見下ろし、言葉を零す。
「そんなこと、ない」
冬子先輩が表情を作った。笑いたいのだろうと思った。
「ここでその絵を描いているときはまるで罪人のような気分だったよ。息が詰まって死にそうだった。それでもお前に見て欲しかった」
「冬子は罪人なんかじゃない」
「最近は何も、思うように描けない。私の理想は確かにあるのに、描けない。私はもう囚人でいることに疲れた。これが最後の絵になるかも知れない」
「冬子は罪人なんかじゃない!」
「分からないよ。羽のない生き物は空を飛べないから」
小春さんの華奢な肩が震えていた。彼女は制服の袖で頬を拭うと先輩が立つ窓辺へと向かった。掬うように先輩の手を取り、そこにもう片方の手を重ね合わせた。彼女は先輩に何かを握らせたようだった。俺のいる場所からは流れる黒髪しか窺えない。しかし、想像はできた。
二つの影は逆光の中で一つになっていた。やがて影が言った。
「またお前の家に行ってもいいかな。絵を、見せて貰いたいんだ」
小春さんが先輩の胸に顔を埋めた。
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