幸せのあった話

圃本 健治

幸せのあった話

海に囲まれた小さな、春が2回分来た後に夏と秋を飛び越して冬になる国の、ある小さな、国の中では発展していると言える町。

そこに、幸せな男と、彼と暮らす女が居た。

女は外国から来た、と男に言っていた。それは事実だったけれど、自分の国に嫌われて逃げて来た事は伝えなかった。 男も、彼女が来た理由を聞かなかった。

2人は裕福とは言えない暮らしをした。だけど、2人ともその生活が気に入っていた。

まず、男は毎朝、女よりも早く起きた。隣で寝ている彼女の姿をみて世界一幸せそうな顔をして、彼女に抱きつく。女は毎朝男のハグで目を覚ます。たまに鬱陶しいと思うこともあったけど、1人で起き上がる冷たい朝よりも、とても、とても寝起きの気分は良かった。

女は先に洗面所で朝の支度を済ませてから朝食を作る。トースターで焼いた食パンと、ゆで卵、ベーコン。手が込んでいるとは思えない朝食だけど、母国の都会の、ただ一人暮らしで料理をしたことが無かった彼女にとっては、今の精一杯だった。

男は女の後に洗面所を使ってから朝食の用意された洋机を見て、よく頑張ったねと笑顔で言って頭を撫でる。彼女は俯いて素っ気なく振る舞うけど、嬉しくて耳まで顔を真っ赤にしているのはきちんと男にもわかっている。女が初めて朝食を作った日、男か大変に喜んで彼女を抱きしめた時、それが彼女にとっての初めてのハグで、初めての「頑張ったね」で、彼女が泣いてしまったのを覚えているから。

男はまた幸せそうな顔をして、彼女を抱きしめる。

 2人は飲食店で働いている。男が店長で料理役。女がそれを運んだり注文を受けたりした。最初の頃に比べて、随分と上手く店は回った。それなりに忙しく、それなりに退屈な店の中。薄く聞こえるジャズレコードに足踏みで合わせながら、彼女は楽し気だった。

 店が終われば二人で閉店の準備をして、二階のリビングで夕飯を食べて、映画を見て、眠くなればまた同じベッドの中にもぐりこんだ。時々愛し合うこともあった。子供が出来てもいいかもねと、少し汗ばんだ男の腕の中で笑う。

 

 でも、そんな暮らしも長くは続かなかった。何処に居たって人の目はある。彼女のことが新聞に載った。彼女の生い立ちも、顔も、小さいころによく言った遊園地の場所でさえ報道されて、彼女は瞬く間に男の国でも有名人になった。いや、有名人に戻った。

 それだけなら、まだ良かったのかもしれない。

 彼女はまだ若く、これからも長く生きて行かなければ成らない。でも、男はもう年老いていて、しかも心臓に病気があった。治らないことはもうずっと前から分かっていた。彼女には内緒にしていたけれど、病院通いがもう何年も続いていた。立っているだけで意識が遠のいて行くような気分になることすらあった。

 でも、彼は幸せだった。やっと心から愛せる人に出会ったから。その人に見守られながら最期を迎えられたから。


 男は女に嘘を沢山ついていた。それは彼が死んでから分かったことだ。

 彼は小さなレストランの店主ではなかった。彼はその国で一番大きな会社の社長だった。ずっと一人で会社を大きく育てて、誰とも仲良くなろうとしない、鉄の様な人だった。彼が人を愛せたのは、心臓の病気が末期になった頃だ。初めての恋の相手が彼女だった。それだって彼女には知らない事だったのだ。

 なので、二人で住んでいたあのレストランも、彼が彼女と暮らすために作った場所で、演劇の舞台の様な物だった。あの幸せは男の思い描いた幸せの形で、もしももう一度人生が送れるならば、こうしたいと思った形だった。家の中に居れば常に互いの存在を感じるようなあの小さな家は、そうやって生まれたものだった。


 記者はもちろん男と女の関係を見つけ出して、彼女は遺産目当てに彼に交際していたのだと報じた。でも彼女にはどうでもよかった。両目から溢れる涙は愛する人を失った悲しみの為に流すもので、誰か知らない人々が自分を指さして上げる非難の為には一滴だってこぼす価値はないと思ったから。

 葬式が終わって、彼女は遺言通り男の財産の全てを受け継いだ。会社の権利は譲渡した。それは彼女の守りたいものではなかったから。あのレストランは取り壊した。もうあそこに住んでいた二人はこの世界の何処にも居ないから。


 

 暫く経って、女はその国で一番大きな家に住み始めた。男の本当の家。その巨大な家の中で一人、もともとは彼の書斎だったらしいその暗い部屋の真ん中で、彼と主に暮らした時、彼が買ってきた中古のレコードプレーヤ。あのレストランの中に薄くジャズを流していた、その機械の前で毛布に包まっていた。レコードを回して音楽を聴いて、終われば裏返して、飽きれば次の盤と取り換えた。目を閉じれば厨房からフライパンに油がひかれる音がじゅうじゅうと、彼の鼻歌が聞こえてくるようだった。

 そうして何年分も無い記憶を思い出して、彼女は涙の枯れた瞳に瞼を下ろした。そしてかすれた声でぽつり、

 「ああ、幸せだったなぁ」

 そう言って、浅い眠りについた。幸せが確かに存在していた、あの頃の夢が見れればいいなと、きっと彼女はそんなことを願った。

 

 ああ、幸せだったなぁ。

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幸せのあった話 圃本 健治 @Izumiya

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