すなるり

萩尾みこり

すなるり

 とある所に娘が一人住んでいた。


 娘は夜な夜な、砂を一粒、また一粒と数えていた。まじないを唱えながら一粒、また一粒。

 すると砂は瑠璃と変わり、娘はそれを一人の人間に与えた。恋焦がれていた一人の男に。まじないの如き愛の唄も添えて。夜な夜な繰り返されるそれが積み重なり、二人は結ばれた。


 人は娘をこう言った。「恋を叶えるために瑠璃を捧げたのか。哀しい娘だ」「誠か否かも解らぬ愛にしか見えぬ」「それでも叶ったのなら、砂を数えることなど辞めてしまえばよいだろうに」

 数えた砂の数だけ、瑠璃の数だけ、富は増えてゆく。苦労せずに手に入る富に、男は徐々に狂っていった。それでも娘は瑠璃を貢ぐ。周りから見れば破滅を招くと解っていたにも関わらず。


 やがて男が狂いに狂った後、娘は突如棄てられた。誠か否か解らぬ愛より、目の前の富を選んだと男は言った。富さえあればいい。既に手元には巨万の富があるのだ、お前など用済みだ。


 愛ゆえの行動だと叫んだ娘は、発狂して男の心臓を包丁で刺した。

 そうして自らは貝となり、海へと消えた。


 人はこの娘の物語をこう記した。


「瑠璃の乙女を怒らせてはならない」

「瑠璃の乙女を悲しませてはならない」

「瑠璃の乙女の逆鱗に触れたなら、近いうちに死が訪れる」


 *****


 キサキの住む村には、そのような伝承があった。キサキはこの伝承を信じてはいなかった。むしろ、信じるほうが可笑しいとも。その日が訪れるまで、キサキはそれを物語を好む誰かの作り話だと思っていた。


 その日キサキが家へ帰ると、兄が見慣れない女を連れてきていた。

 兄はキサキを指して「こいつ俺の弟な」と女に語りかけていた。女は不思議な笑みをたたえながら、よろしくねとキサキに語りかけてきた。

 まるで此の世の者ではないようだ。キサキはその笑みに奇妙な感覚を覚え、笑い返すことができなかった。素直に受け入れてはいけないような、生きる所の線引きをしておかねばならないような。

 兄は「ごめんな、こいつ人見知りするんだよ」と笑いながら女に語りかけていた。女は笑顔を崩す様子などは見せなかった。まるで人形のようだ。兄にも女本人にもわからないように、キサキは細い声で呟いた。


 *****


 その翌朝、キサキは倦怠感を覚えて目を覚ました。きっと昨日の女とのやり取りのせいだろう、そうに違いない。あれからしばらく、感覚が狂ってしまったのかと思えていたのだから。自身に言い聞かせながら、キサキは布団から出る。一つ伸びをした後、キサキは自室の襖を開ける。真っ先に目に飛び込んできた光景はとても奇妙なものだった。


「瑠璃。本物よ。貴方にあげる」

「本当か、ありがとう!」


 人形のような笑みを浮かべる女。両手一杯の瑠璃の砂が兄の手に一粒ずつ落ちていく。兄は満面の笑みで何度も女に礼を言う。ありがとう、ありがとうと。明るい声色、その喜びは本物だ。だが、正の感情を見せる兄とは違い、キサキがこの様子を見て感じたものは、言うなれば負の感情。


「瑠璃の乙女を怒らせてはならない」

「瑠璃の乙女を悲しませてはならない」

「瑠璃の乙女の逆鱗に触れたなら、近いうちに死が訪れる」


 この村の伝承。目の前の女が伝承でうたわれる瑠璃の乙女と重なる。

 キサキは悪寒を覚えた。伝承など信じてはいない。作り話に決まっている。だが、感じてしまった恐れは本物なのだろう。伝承どおりの物語が紡がれるなら、いつか兄は富を選ぶように変わってしまい、瑠璃の乙女たる女は兄の心臓を刺すのだろうか。

 そんな未来など訪れるわけが無い。でも。震える唇で、キサキは言った。「兄さん、その人大切にしてあげなよ」と。


 *****


 翌朝のことだった。キサキは兄からこう言われた。「キサキ、この瑠璃の砂を売っておいで」と。「いいの?」とキサキが問うと、兄は笑顔でこう答えた。「いいんだよ、あいつもいいって言っていたからな」と。その笑顔に嘘はない。本当に女が言ったのだろう。そう確信したキサキは「じゃあ売って来るよ」と言って、兄が差し出した瑠璃の砂が入った袋を受け取った。間髪いれず、キサキは兄に問いかけた。瑠璃の砂のやり取りをしているのに、中心となっているであろう者の姿が見えないのだ。「ところであのひとは?」

「あいつは疲れているから寝る、ってさ」兄はそう言って踵を返した。「さぁ、あいつのために朝飯でもこしらえるか」と言う鼻歌混じりの声が聞こえた。

 兄は本当に、あの女に惚れているのか。キサキは子供ながらに確信を覚えた。キサキが知る限り、兄は真面目な人間だ。堕落することなど無いはず。昨日言った自分の言葉を――祈りにも似ているそれを兄はきっと守ってくれることだろう。きっとこのまま狂わずにいてくれることだろう。そう思いながら、キサキは草鞋を履きながら、瑠璃の砂がよく売れる場所は何処だろうか、と呟いた。


 *****


 何日かが経つ。兄はあいかわらずあの女を大事に、大事にしていた。思いに答えるように、女は瑠璃の砂を兄に貢いでいた。兄を介して渡される瑠璃の砂。それを売る事は、キサキにとって半ば日課と化していた。

 奇妙だ、とキサキは思っていた。この数日の間、女を見てきた。盲目ともいえる献身的な姿、兄と愛の言葉を交わす様子、増え続ける瑠璃の砂。それら全てが瑠璃の乙女の伝承を彷彿とさせる。あの女は伝承の瑠璃の乙女だ。キサキが得た確信だ。だが、その証拠がどこにもない。むしろ、見つけられないと言った方が正しいのかもしれない。


 女はキサキの知らないところで、瑠璃を作っては兄へと渡している。持って来ている、とも言えようか。キサキはその行為を知ろうとも知りたいとも思わなかった。瑠璃の乙女の伝承は禁忌を伝える伝承。触れたら最後、堕ちるしかない。誰かが言っていた。

 しかし、なぜ伝承を信じもしない自分がここまで思ってしまうようになったのか。兄が女を連れて来たときからだろうか、それとも瑠璃の砂を始めて見た時からだろうか。少なくとも、女のせいであることは確信していた。


 *****


 その日、瑠璃を売り終えたキサキは貨幣を丁寧に包み込んで、帰路に着こうとした。

 道中、キサキは自身の視界に見慣れた何かが映りこむのを確認した。父と、兄と見慣れない女だ。父と兄は口論しているようで、女はその口喧嘩を必死で止めている様子だった。

 よく聞き耳を立てて聞いてみると、「俺はあの人と結婚するんだ!」という兄の声と「そんなこと許すわけないだろう!」と叫ぶ父の声が聞こえてきた。巻き込まれないうちに、帰ろう。そう思ったキサキは兄たちのほうを向くことなく、その場から駆け出した。

 兄はキサキが思う以上にあの瑠璃の女に堕ちていたのだろうか。父はその様子を自分よりも把握していたのだろうか。あの様子は強制的な縁談の話と捉えていいのだろうか。あの見慣れない女は父が決めた、兄の見合い相手なのだろうか。兄はそれを拒んでいるようだ、だが拒んでからそのあと何をしようとしているのだろうか。さまざまな疑問がキサキの中に浮かんでは消える。

 そして自分はどうすればいいのか。キサキが家へたどり着いたのは、ちょうどこの疑問を得た時だった。視界に入る、迎えの者。それは例の瑠璃の女だった。


「おかえりなさい、キサキくん。どうかしたの?」

「……ねぇ、お姉さん」


「兄さんのこと愛してる?」キサキは自分でもなんでこんなことを問うのだろう、と思いながら口を開いていた。どうかしてしまっている、そのことは自分でもよくわかった。自分は今おかしい表情をしているのだろう。穏やかな笑みをたたえる女の表情は、自分のそれとは対照的だった。


「愛してるわ。でもそれがどうかしたの?」

「……なんでもない、なんでもないよ。兄さんのこと大事にしてあげてね」


 これしか言えない。自分は当事者じゃないのだ。これ以上の言葉などだせない。本当の答えは兄が出すべきなのだろう。キサキはそう思いながら、自分の部屋へと足を早めた。後ろのほうで女が「キサキくん?」と問いかけていたが、キサキはそれを聞いていないことにしようと思っていた。


 *****


 その夜、キサキは妙な夢を見た。


 瑠璃に埋もれて、兄と女が安らかな表情で眠っている。兄と女はぴくりとも動かない。まるで眠っているかのように死んでいた。キサキはその様子を呆然と見ているだけだった。足も動かない。頭も働かない。ただそこに立って、二つの死体を目に入れているだけ。


 夢なのか、現なのか。目覚めたとき、キサキは真っ先にそう思った。なんて夢なんだ、全身に嫌な汗をかいている。ぞっとする夢、正夢じゃありませんように。そう願った。


(夢だよ、あんなの。兄さんがあの人と心中するなんて)


 そう自分に言い聞かせながら、キサキは部屋を出た。

 昨日見たあの様子の解釈は出来ていた。明らかに兄は縁談を拒んでいた。そこまで兄はあの瑠璃の女に堕ちていたのだ。だから拒んだ。キサキには、兄が女に向ける感情が「富を与えてくれる存在」か「恐ろしいくらいに愛した存在」なのかは解らない。解るのは堕ちている、という事実だけ。兄にとって女は無くてはならない存在。でも心中をするほどまで堕ちてはいない。そう信じたい。

 キサキは兄の部屋へと向かっていった。嫌な予感がする、全身に悪寒が走る。ごくり、と唾を飲む。意を決し、キサキは兄の部屋の襖を開けた。


 そこに兄はおらず、一通の手紙が残されていた。

 あの瑠璃の乙女と駆け落ちする。叶えるなという言葉は聞かない、思いを貫くことを選んだからだ。ここへは決して戻らない。自分は彼女を選んだのだ。手紙に記されていたのは、その思いだけ。


 キサキは瑠璃の乙女の伝承を頭で繰り返した。

「瑠璃の乙女を怒らせてはならない」

「瑠璃の乙女を悲しませてはならない」

「瑠璃の乙女の逆鱗に触れたなら、近いうちに死が訪れる」

 そして。


「瑠璃の乙女に魅入られたなら、決して幸せにはなれない」


 魅入られているのは幸せか。それとも不幸か。どう捉えるかで変わってくること。キサキが知っていた兄は幸せでもなければ不幸でもないように見えていた。だが、今はどちらかに見える。兄にとっては幸せかもしれない。女にとっては幸せかもしれない。だが、キサキにとっては女しか見えなくなった兄がとても哀れなものに見えている。得たものは一時の幸せでしかないように。永久を約束されていないものでしかないのに。

 キサキは兄の考えを理解したいとは思えなかった。兄に待ち受けるのは不幸のみ。その確信だけは得ていた。


「あんたは馬鹿だよ、兄さん」


 堕ちてしまったが最後、二度と戻れない。

 キサキはそう、手紙に語りかけた。

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すなるり 萩尾みこり @miko04_ohagi

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