第11話 お帰りのハピーバースデイ

 目に映るのは、シミの付いた天井だった。食欲をなくすようなアルコールの臭いと、清潔な真っ白い布団。

時刻は十九時三十二分。

富士総合病院の東棟―306号の病室で、ベットに横たわる泉はゆっくりとまぶたを開いた。

「…ここは」

「…室戸…君、起きたの…」

身を起こし声の発生する方向に振り向くと、パイプ椅子に座る水月の姿が見えた。

「あっ水月さん…っておわっ」

水月は有無を言わさず泉に抱きついた。

「良かった…本当に…良かった…」

うれし涙を浮かべ、かすれる声で水月は泉の肩越しで呟く。彼女の胸、鼓動、熱が容赦なく五感を刺激し、泉は意識が甘くとろけそうになった。

「み、水月さん…俺はすごく嬉しいんだけど、その…いったん離れて」

「あっ、ごめんなさい」

水月は慌てて泉から体を離し、もう一度パイプ椅子に腰をかける。泉の顔も真っ赤だったが、彼女の顔も彼に劣らないほど高潮していた。

「あ…あの、ゴメンねっ…急に抱きついたりなんかして…」

俯きながら、水月は恥ずかしそうに声を漏らした。

「いや、俺は損してないっていうか…寧ろ良かったというか…」

「えっ」

水月の顔がさらに紅潮する。

「っていう励まし方はどうかな。あははははは。それより心配してくれてありがとう水月さん」

泉は片手を頭に回し、下手糞な作り笑いを浮かべて場を濁す。そんな姿を見て、水月も苦笑した。

「私。室戸君に励まされちゃった」

「普通、逆だね」

「そうだね」

そうはにかんだ水月の顔は、凄く魅力的だった。聖母のような純朴な表情に、今風のくりっとした大粒な瞳が、よく見ると若干赤い。

「室戸君?」

水月の瞳と泉の瞳の焦点が合い、そのまま二人は見つめ合ってしまう。

「……」

「……」

いくばくかの時が流れる。

熟れた果実のような雰囲気があたり充満し、端正に整った水月の顔が泉の鼓動を促進させる。正直、泉はこういう雰囲気には慣れてない。

「あのさっ、俺…どうなってたの」

残念ではあるが、早くこの雰囲気を変えたい泉は、死後の経緯を彼女に問う。向こうの世界との口裏を合わせるためにも、必要な情報である。決してチキンだと言わないでくれ。

「そうだったね。起きたばかりだから何があったか知らないよね。あのね、室戸君は胸を刺された後、この富士総合病院に救急車で運ばれたの。それで、一度は死亡が確認されたらしいんだけど、室戸君の生命力が凄いのかな。奇跡的に息を吹き返したらしいの」

そういうことになっていた。無茶苦茶な戻り方だが、泉にとってはつじつまを合わせるには都合がいい。

「そうだったんだ」

「でも本当に奇跡だよ。心臓がまた動きだすなんて。担当の笹原先生もすっごく驚いてたよ。心臓が貫かれていたのに、いつの間にか傷が綺麗さっぱり無くなってたって。それに危なかったんだよ。皆川さんが室戸君の遺体からずっと離れなかったら、室戸君の体燃やされずに済んだんだよ」

(あいつ…やっぱり俺が本当に見えてたんだ…)

泉がそう物思いにふけっていると、

「あの、室戸君…ゴメンね」

唐突に水月が謝罪した。

「刺されたことか。あれは勝手にやったことだから、水月さんが謝る必要無いよ」

「違うの…そのこともだけど…私、ずっと室戸君に意地悪してた」

「い、意地悪?」

平等でいたいと言った水月には、とても似合わない言葉である。

「あのね。その…恥ずかしいんだけど…室戸君って私にどういうイメージある?」

「うーん。真面目で凄く頑張ってて、皆に人気のある委員長って感じだけど」

「やっぱし…そうだよね」

「?」

水月はパイプ椅子をベットに近づけて、少しばつが悪そうに泉に語りかける。

「私ね、高校に進学して気づいたことあるんだ。その…室戸君と皆川さんの姿を見て、私ってちょっと真面目に生きすぎてたかもしれないなって思った。だって…二人共…凄く仲が良かったから…その…」

徐々に声色に力を無くして水月は俯くが、意を決して再度唇を開く。

「羨ましかったのっ…室戸君と皆川さんの関係が…私には…そんな気軽に話せる男友達いなかったから…だから…」

そのようにもじもじする水月は、しきりに上目遣いで泉を見る。しかし、

「だから…何?」

泉は他人の善意に鈍すぎる。いつまでたっても水月の意図が理解ができていない。悲しいことに彼は今まで女性に好意を寄せられたことが無いのである。無論、それも気づいてないだけなのだが。

そんないつまでもデリカシーに欠ける泉を見て、水月も痺れを切らして開き直ったように言葉を発した。

「もうっ、気づいてよ。私も輪に入れて欲しかった。私って男の人から見たら凄くとっつきにくい女だと思うし…その…室戸君は皆川さんと慣れてると思ったの…それに明に相談したら『ユー、罵っちゃえよ』って言ったからあんな酷いこと言っちゃたの。だから…だからゴメンって謝ったんだからぁっ」

そう言って水月はパイプ椅子から泉が横になるベットに雪崩れ込み、『ぽかぽか』と力なく泉の胸を両手で叩く。可愛い目をきゅっと閉め、鈍すぎる泉に制裁を加えたのだ。うろたえる泉は顔を赤くして、慌てて抵抗を試みる。

「ちょっと水月さん。明らかに自爆なきがするんですけど。ちょっ、近い。近いってっ」

ぽにゅん

それは、不可抗力だった。

シェリーより柔らかく弾力がある。と、比較している場合ではない。手の平で、水月のお椀型の胸をしっかりと彼は握り締めていた。

(これは…また…死んだかな)

体中の毛穴からダラダラと汗を噴出しながら、泉は水月の顔色を伺う。

「んっ」と甘い声を漏らして水月は瞼を恥ずかしいそうに閉じていた。加えて泉の予想と反して水月はそのままじっと動かない。まるで泉の手を受け入れるかのように、朱色に染まる顔が瞼を開き、物欲しげに泉の顔を見返した。

(この反応も……非常に困る…)

より一層の汗が泉の体中から流れる。この状況をどう乗り切るか。そんなことを泉が考えているときだった。

「明、なにやってるの」

「皆川さんっ!あっ、ちょっとダメだって。今いいところなんだかー」

ガラガラガラ

泉がベットで横になる病室。ドア越しに聞こえる会話の主が二人ほど姿を現した。もちろん、場の空気が一瞬で凍りついた。しかも…

「あんっ」

(やばい…驚いて…もう一揉みしちまった)

身を屈めていた明は、手を額に当て『あーあ』っと小さく言った。そして肝心の幼馴染は、

「………」

何も言わない。表情も変えない。ただ伝わってくるのは、突き刺すような視線。浮気現場を見た妻のようにゴミを見るような冷たい視線。

「あ…あれ…」

ようやく最悪な状況に気づいたのか、水月は周囲を『きょろきょろ』と見渡した。明、皆川の姿が視界に入り、今までとは別種の顔色を見せながら、思わず水月は自分の顔を両手で覆った。

「あの…その…ゴメンなさいっ」

ますます疑惑を生むような言葉を残し、水月はきびすを返して皆川の隣を通り、そのまま病室の外へと走っていった。

「ねぇ、ちょっと。葵っ」

そう言って明も水月の後を追っていく。

そう、その場に残るのは…

「本当に…泉は…元気だね」

徐々に近づいてくる皆川だ。

「うっ…待て、俺にも言い訳する時間をくれ。いや、いいわけじゃなくてちゃんとした説明をさせてくっぶぅぅぅ」

皆川が泉の顔面を殴った。

「これ、さっき葵が殴っといってって」

「嘘付けっ。すれ違いざまでそんなやり取りがでキッフぃぃ」

また皆川が殴った。

「くっ、今のも頼まれたのかよ」

「いや、今のは私がムカついた」

クールに呟くその表情が、小さく歪んで一粒の涙を見せた。

「泉。私…待ってた。なのに…」

「いや違うんだ。あれは不可抗力なんだ。水月が俺の態度に怒って、成り行きでああなったっていうか…とにかくやましい事は何もしちゃいないっ」

「知ってる」

「あれ?何でそんな素直に信じるんだよ」

「童貞チキンの泉には、強姦する度胸は無い」

(うわー…言い切るなー)

ちょっぴり涙を滲ませて、泉しみじみとそう思った。

「私が言いたいのはそうじゃない」

「じゃあ、何なんだよ?」

「遅い」

「何が」

「帰ってくるのが、遅いっ」

皆川はそう言ってゆっくりと泉の上半身に馬乗りする。

「おっ、おい」

慌てはしたが、そんな行動を泉は拒まない。やはり、皆川といると落ち着くのだ。

「泉」

「ん?」

「目を…閉じて」

「どうして?」

「いいからっ」

泉を見つめる彼女の瞳は据わっていた。こんな瞳、泉は今まで見たことが無かった。

「んん。分かったよ」

そう言って泉がしぶしぶ目を瞑った瞬間。皆川の唇が彼の唇と激しく触れ合い、彼女の唇から伝わる熱が、泉の顔を著しく紅潮させた。

「っぷは」

泉がそんな声を漏らすほど、長い長いキスだった。

「おっ…お前…」

「泉。そんなに良かった」

女の余裕を見せながらそう言って、皆川はペロッと自分の唇をなめた。が、

「…!!!」

何かに気づいたように皆川は再度、ペロッと唇を舐めた。

「こっ…これは……」

皆川のこめかみが一度ぴくっと引きつき、次の瞬間、泉にとって最悪の呪文を口にする。


「これは…ロリの味っ…」


(えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ。何で…何で分かるのコイツ…)

皆川は感づいた。自分がファーストキスではないことを。その上、ありえない味をも言い当てた。

「こっ…この」

流石の皆川もショックが大きい。自分が飼いならした犬がどこぞの発情ロリに取られたのだ。そりゃお冠である。

「このっ、童貞ロリコンチキンっ」

何かの鶏肉のような敬称で皆川は冷たく罵り、泉の頬に優しく手を添えた。

「言って…どこのロリ」

表情はポーカーフェイスを保つが、目が笑ってない。

(答えようが無い。というかルカのことを伝えたら間違いなく死ぬ)

「隣の家の瑞樹ちゃん。それとも、三件隣の八重ちゃん」

「待て。不確かな証拠で決め付けるのはおかしいぞ。とにかく冷静になるんだっておいっ、なに服脱がし始めてんだコラァァッ!」

「こっちの初めては私が奪う」

「馬鹿っ、こっちも初めてじゃー」

(って…しまった)

「へぇー。やっぱしキスも、あまつさえそっちも…もう済ましたんだ」

完全に切れている。この世のものとは思えない、地獄の顔を目の当たりにした。

(やべぇ。シェリーの事も言ったら殺される。というか手遅れだ。ああもうこうするしかない。どうせ…遅かれ早かれこうなったんだ)

少し照れくさそうに泉は上半身を起こした。

「泉…覚悟ができたんだね」

表情の変わらない皆川から、死刑宣告が告げられた。

「うっ…まあな」

少々たじろぎながらも、彼は彼女の瞳を強く見つめた。

「皆川…いや神子っ…すっ、済ませたのはな…お前と…俺の親友の関係だよっ」

そう言って泉も皆川の体を抱き寄せ、強引に唇をに奪った。

彼の強い意志は、いつもポーカーフェイスを気取る皆川をときめかせ、

「んっ」

彼女も彼の意思を受け止めた。


「ねぇ」

「何だよ」

二度目のキスを済ませた二人は、恥ずかしそうにお互いを見つめあった。

「あの時、何で泉は私に会いに来たの」

期待を込める瞳が泉の顔を凝視する。

(うっ…これは…答えるしかない)

ついに男を見せるときがきた。生まれて何度もあったこのチャンス。それを何度も棒に振ってきた、お人よしで、愚鈍で、どうしようもなかった男の、これが最大の勇気である。

「それは、お前のことが…好きで好きで心配になって、安心させるために来たんだよ。はぁ、これで満足か」

その言葉を聞いた皆川は、嬉しそうににっこり笑って、

「満足」

そう言った。さらに、

ガラガラ

「イズミーン。起きたって聞いたけどってわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

羨ましすぎて悶えてしまった水谷が、病室で奇声を上げた。

「イズにぃ…やっと素直になったんだね」

感涙でむせる海は、右手で涙をぬぐった。

「みっ…皆川、泉…二人共…何しようとしてたんだ」

青ざめた顔で、柏田が凍りついた。

「そんなの…決まってる」

そんな柏田に、頬を赤くする皆川が答える。

「セッ――」

「だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ。お前何考えてんだ。妹もいるんだぞっ」

「そうだぞ…皆川、高校生にはまだ早いっ」

「柏田君、五月蝿い」

「…み、皆川っ…」

最後にそう呟いて、柏田は弁慶の立ち往生となった。

「イズミンッ。今すぐ説明するんだ。この状況をっ」

「そうだよイズにぃー」

水谷は羨ましそうに、海は嬉しそうに泉と皆川を眺める。そう言われた二人はお互いの顔を見合わせ、二人で苦笑しながらこう言った。

「お前ら少しは空気読めよ」

「そう…私と泉はこいびー」

「ダメぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ」

今度は、『バンッ』引き戸を思い切り引いて突如水月が乱入してきた。その後ろにはひょっこりと明の姿もある。

「室戸ぉ、乙女の柔肌触っといてそれはないんじゃないの」

と、やや斜めに構えて明が泉を横目で見た。

「室戸君。その…まだ急いで決めることじゃないと思う。まだゆっくり考えてみる余地があるじゃない…だからね…その…私とか……」

『ぷるん』っと胸を揺らして水月がそう言った瞬間、

「おっぱいだぁぁいびゅっふぇっつ」

彼女の胸に飛び込もうとした水谷が、明のクロスカウンターで叩き落される。しかもツーコンボだ。

こっちはこっちで。

「何、この泥棒猫」

「貧乳」

「「っつ……!」」

「へぇーイズにぃ、やるー」

二人の熾烈なにらみ合いが始まり、海は呑気に泉を賞賛した。


こうして病室は七人で一杯になり、はた迷惑な大声が病室の外へこだまする。隣の病室のおじさんが迷惑そうに壁を叩き、泉の病室に警告するが、そんな事はお構い無しに彼らは騒ぎ倒す。

病室は幸せで一杯になった。それは、あの日行われなかった誕生日会よりも、多くの幸せを彼の胸に届ける。

ブーブー

泉は胸ポケットから、入れた憶えの無い黒い携帯を取り出し、メールが届いたことに気づくと、顔をしかめながらも添付してある一枚の画像データを再生した。


「ありがとう……姉さん」


泉は画像を見終わるとベットにそのまま携帯を置き、左の壁際にある窓を開けた。そして、冬の夜に吹き抜ける風を一身に受け、中々冷めやまぬ熱を冷ますと

「おいっ、今日は俺の誕生日なんだぞ。もうそれぐらいにしろっ」

そう言ってまた、嬉しそうに騒ぎの中に飛び込んだ。


再生された画面には、にっこりと笑顔を作る女性の姿が映されていた。


ハッピーバースデー


そう書かれた大きなボードを持つ、仮面の無いリスティの姿がそこには映し出されていた。

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ゼロイチ @kuroto28

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