僕と先輩の殺人問答

村正のぼや

どこまでも終わらない

 階段を昇り切る頃には、少し息が上がっていた。校舎の離れに位置している部室棟まで、ノンストップで走ってきたせいもある。あの先輩を一人にさせておくのは、何だか可哀想な気がした。

 四階の一番端っこ、何も書かれていない扉をノックすると、すぐに返事があった。

「どうぞ」

 透き通っている、そう感じた。教室で耳にしているクラスメイトの声とは、決定的に違う。もしくは、何かが抜け落ちている。

「少し遅れました」

 そう言って、僕は部屋に入った。長机とパイプ椅子が二つ、それ以外は何の備品もない。先輩はパイプ椅子の一つに腰かけていた。黒々とした長い髪が、腰の辺りまで届いている。その顔は病人みたいに真っ白だ。唇を結んでいるせいで、余計にマネキンのようだった。一たび喋り出せば、その茫洋とした瞳はたちまち色を帯びる。


「もう、遅いよ。待ってたんだから」

「すみません。少し補習があって……」

「あー、そうだったんだ。勉強って、面倒だよね」

「ですね」

「でも君が勉強をサボると、部活動の時間が減っちゃうんだよ。だから、ちゃんと勉強して試験で良い点数をとってね」

「ちょっと理不尽じゃないですか?」

「先輩の言い分なんて、大抵が理不尽なものだよ」


 そう言って、机の上に学生鞄を置いた。その中から取り出した物を指先で弄んで、ぽいっと投げる。それは硬い音を立てて机の上を滑った。――拳銃、だった。


「今日の議題は、どうして人を殺してはいけないか、ということについて」

「……また突拍子もない」


 この先輩は一応、文芸部の部長を務めている、ということになっている。というのは、そもそも文芸部は部員不足によって廃部しているわけで、この部活動は生徒会からの許可を得ていない非公式のものだ。

 ゆえに、先輩は自称・文芸部の部長だった。そして僕は自称・文芸部の平部員だ。先輩は筆を折ってしまったし、僕は読み専門だ。なので活動らしい活動といえば、『執筆のための議論』と称してディベート未満の言い合いをしている。

 それで、今日の議題は「どうして人を殺してはいけないか」らしい。まったく、この人は小学生か。そんなの答えは決まっている。


「どうしてって、法律で決まっているからですよ」

「刑法によって規定されていると?」

「え、いや規定されているんじゃないんですか。殺人罪って」

「確かに殺人罪はあるよ、刑法第199条で決められてる。けれど、そこには『殺してはいけない』とは書かれていないんだよ」

「え?」


 不思議に思った僕は、答えを出される前にスマホで調べてみた。

 ――刑法第199条。人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

 先輩の言う通り、殺人を禁じるという文言は載っていなかった。あくまで殺人を犯した前提で書かれている。


「どうしてですか? 殺人なんて、絶対にしたらダメなのに」

「それは簡単だよ」


 先輩はにっこりと笑って、卓上の銃を手に取った。


「今から私は血も涙もない極悪な殺人犯です。もう一万人以上は殺してきました」

「どこの能力者ですか……」

「そして、私は次に殺すべき相手を決めました。君です」

「最悪な指名もらっちゃいました」


 先輩の人差し指は引き金に掛かっていて、銃口は真っ直ぐこちらを向いている。


「さて、こんな状況で君は『殺人は法律によって禁じられてる!』って主張できる?」

「……不可能ですね。というか、もう一万人も殺してますし」

「うん、無理なんだよ。法律は物理的な拘束力を持たない。だから、禁ずるという文言は使っても意味がないの」

「なるほど」


 と納得してみせるけど、腑に落ちない点もあった。


「その通りですけど、これって揚げ足取りじゃないですか?」

「へえ、具体的には?」

「死刑とか懲役があるのは、殺人への抑止力となるためですよね。実質的に、してはいけませんって言ってるようなものじゃないですか」

「確かに、そうかもしれないね」


 先輩は構えていた銃を下ろし、再び机の上に放る。ゴツっ、と硬質な音が響いた。


「なら、逆に殺人罪がなかったら、人は殺してもいいのかな?」

「それは……」


 法律によって決められていない。少なくとも、刑罰を恐れる必要はないということだ。でも考えてみればすぐに分かる。殺人に関するリスクなんていくらでもあるのだ。


「ダメですよ。殺せる保証なんてないですし、仮に成功したとしても、身内や仲間からの報復に遭います」

「ふふっ」


 先輩はその言葉を待ち望んでいたように、唇に薄っすらと笑みを描いた。


「じゃあ、その人に身内や仲間がいなかったら……もしくは、誰にも殺人が露呈しないような環境下に置かれていたら、殺人は許容されるのかな?」


 ……完全犯罪。ノーリスクで人を殺せる。いや、そういう問題ではない。そもそも僕は、先輩に自分の意見を伝えていなかった。


「ちょっと待ってください。僕にはそもそも、誰かを殺す意思なんてありません。道徳的に、倫理的に、生理的に無理なんですよ」

「うん、それが普通だよね。でも、例外というのもあるよ」

「殺人に例外なんて……」


 言いかけた言葉を引っ込める。確かに、例外はいくつかあった。


「正当防衛、ですか」

「正解。そして、死刑もね。禁じるどころか、殺人は法律によって認められているんだよ」

「それは……」


 言い淀んだ僕に向けて、先輩は机上の銃を弾いてみせる。拳銃はくるくると回転しながら、僕の手前まで滑ってきた。


「ある日、私と君は謎の集団によって拉致され、脱出不可能な部屋に閉じ込められてしまいました。それがここです」


 辺りを見回してみる。老朽化が進んだ部室棟の扉は、いとも簡単にぶち破れそうだった。リアリティーは微塵も感じないけれど……まあいいか。僕は突っ込むのを止めて、ジェスチャーによって続きを促した。


「外界との連絡手段は断たれています。また、外部からの救出も見込めない状況です。いわゆるクローズド・サークルです」

「ああ、孤島症候群的な……」

「ハルヒでも十角館でも、まあ何でもいいよ。とにかくそんな状況の中、犯人たちから指示が飛ばされます。今からちょっと殺し合いをしてもらいます」

「今度はバトロワですか」

「生き残った人は解放してあげます。さあ、どうする?」


 先輩の好奇心を湛えた瞳が、じっと拳銃に注がれている。兇器は、僕の手前にあった。手を伸ばすと、硬くてひんやりとした感触に触れた。


「僕は……」


 その拳銃を押し返した。くるくると回って机の真ん中で停まる。


「え、私を殺さないの?」

「殺しませんよ」


 即答だった。先輩の両目には、はっきりとした疑問の色が浮いている。


「どうして?」


 言いながら拳銃を拾い上げた。再び銃口が向けられる。


「私は、君を撃つかもしれないよ」

「嘘ですね。先輩はそんな人じゃありません」

「……」

「僕は、先輩を撃ちたくないんです」

「……」


 先輩の目が丸くなった。予想外、というような顔をしている。


「ふふっ、君は優しいんだね」


 静かに拳銃を置いて、


「なら、こうしよう。膠着状態に飽きた犯人は、私たちとは関係のない男性を連れ込んだ。これで三人になる。さあ、君はどうする?」


 その問いが投げられた時、僕は咄嗟に拳銃を掴んでいた。トリガーに指を掛け、銃口は誰もいない場所に向ける。ただ、その虚空には見えない男性の姿があった。


「そいつを殺しますよ」


 はっきりと言う。先輩は一度、大きく頷いた。


「正解。これで君は、倫理観や道徳観、生理的な不快感すらも克服した。改めて訊くけど、殺人はしても良いと思う?」

「それは……」


 口ごもる僕に対して、先輩は畳みかけるように続ける。


「例えば戦争では、殺人は軍法に則って容認されている。そして、より多くの敵兵を殺した人が称賛されるよね。状況や立場が変われば、殺人は正義に変わる」

「……僕は」


 手にしていた銃を放る。放物線を描いて床に落ちた。


「殺人は、場合によっては仕方がないと思います」

「……へえ。つまり人は殺しても良いと?」

「いいえ、それは違います。そもそも、先輩の質問はずるいです。誘導尋問ですよ」

「どういうことかな?」


 うそぶく先輩の顔には、やはり笑みが浮かんでいた。これから僕が提示する答えを待っている、そんな顔だった。


「『どうして人を殺してはいけないか』、これは答えの幅を狭めています。いけない、つまり悪ということです。その反対は正義――殺してもよいとなります。僕は、殺人に正しいも悪いもないと思います」

「その理由を教えてくれるかな?」


 先輩は床に落ちた拳銃を拾い上げて、くるくると指で回している。


「はい。いくら正当防衛だろうと戦争だろうと、殺人は殺人です。正当防衛で人を殺したからといって、それは自慢できるようなものでも、ましてや称賛や羨望を浴びる行為でもない。戦争だって、それが終わった後は同じです。良いことでも、悪いことでもないんです」

「たとえ通り魔だとしても?」

「そうです。戦争だって、結局は大きなエゴのぶつかり合いなんです。通り魔にしても、正当防衛にしても、結局は自分の都合で人を殺めているわけです。根本は一緒なんですよ」


 それは何だか、とても悲しい結末のように思えた。

法律も、倫理も、社会も、全て取っ払ってしまえば、殺人を否定することはできない。ただし肯定もできないけれど、僕は今まで殺人など総じて悪だと思っていた。どんな理由であれ許されざる行為だと。

 その考えは正しい。ただ、根本的な部分においては間違っていた。


「善悪なんて概念は、ほんとは存在しないんですよ。だから、人間が決めたんです。基準となるルールを」


 だから、死刑という制度ができた。正当防衛は許されるようになった。


「つまるところ、僕は先輩の問いに答えることができません。そして、この問題には答えが用意されていない。正解も不正解も、ないんです」


 そう、絶対的な答えなんて存在しない。なぜなら『どうして人を殺してはいけないか』という質問自体が破綻しているからだ。

 答えはどうやって生み出されるか。それは、他者との共有である。この問題には決められた答えがないから、結局は自分の考えを告げるしかない。そしてそれは、共有化されていないため正答にはなり得ない。


「でも、それは一種の逃げです。だから質問内容を歪めて、殺人そのものが正しいか、正しくないか、と二極化するならば、僕の考えはどちらでもない、です。ただ、この社会においては悪であると、僕は思います」

「……なるほどね。ちなみに、あらゆる殺人が許容されるようになったらどうなると思う?」

「……そうですねえ。人だけでなく、社会も死んじゃいますね」


 そう言うと、先輩は満足そうに頷いた。


「うん、素晴らしいよ。正解だね」

「正解ですか。つまり先輩は、僕がそう答えるのを予想していたわけですね。二つの意見が一致したから、その答えは共通の認識になって、正解になると」

「そういうことだよ。語りえぬものについては、沈黙しなければならない……なんて言うけれど、私たちの間では答えが出た。これはね、とても大事な意味を持つと思うよ」

「大事な意味……」


 それが具体的に何なのか、先輩は口にしなかった。なので僕も黙っていると、先輩はいきなり苦笑しながら言った。


「まったく、今日は意地悪な議題を出しちゃったねー」

「あ、自覚あったんですか」

「うん、だっていじわる問題も良いとこだよ、こんなの。普通、人は質問に対して疑問を抱かないから」

「じゃあ……僕からも一つだけ。もしこのいじわるな質問に答えるとしたら、先輩はどう言い返しますか」

「ふふっ、君の方がひどいと思うけどなー」


 と、先輩は拗ねたみたいに唇を尖らせた。それから「どうして人を殺してはいけないか」と続けた。


「あくまで私の考えだけど、それは私たちが人間だから」

「人間だから……」


 よく分からない話だった。


「人は社会的に生きているよね。人権があって、法律がある。社会は殺人を認めていないんだよ」

「法律がなかったら良いんですか?」


 僕は先輩と同じ質問をぶつけてみた。先輩は、やれやれと両手をもたげた。


「自分で言っておいてなんだけど、それは仮定として成立しないんだよ。人と社会は切り離せない関係にある。あり得ない仮定を持ち出せば詭弁となり空論となるし、仮定は証明するために用意するものだからね。それに法律がなかったら、という仮定を許してしまえば、人は人でなくなってしまう。この時点で、主題となる『人』という概念が揺らいでしまうよね」

「……まったく、ずるいですよ」

「ふふ、だから言ったでしょ? 先輩の言い分は大抵が理不尽なものだって」

「あー、じゃあ倫理がなかったら、というのも通用しませんね」

「うん、人には倫理観が備わっている」


 今度は僕が両手を挙げる番だった。先輩は唇の端だけで笑っている。


「なら、殺人を犯した人は人ではなくなるんですか」

「いいや。殺人を犯した人間は殺人者という属性になるんだよ。人権は失われない」

「……人って、なんか愚かですね」


 と、そんな感想を呟いていた。先輩は同意するように頷いて、


「人は愚かだよ。ときおり原始的な感情に逆らえない。でも、人間は賢くもある。だからルールを作った。自らを、そして他人を戒めるためにね」


 そう言って、先輩はパイプ椅子から腰を上げた。僕もつられて立ち上がると、ぎぃと鈍い音が鳴った。


「今日は重い話をしちゃったね」

「昨日の議題なんて、ライトノベルの定義でしたからね」

「あはは、確かに」


 と、先輩は部室の窓を開けた。


「外の景色でも眺めて気分転換する?」

「……景色って、校舎しか見えないじゃないですか」

「まあね。ここからだと、校舎とその屋上くらいしか見えないかな。とは言っても、全部見えるわけじゃないけど」

「……どちらにせよ、面白くないものですね。あ、少し肌寒いので、もう閉めても大丈夫ですよ」

「ん、分かった」


 頷いて、先輩は窓を閉める。


「ところで先輩。先ほどの話に戻ってしまうんですが……」

「んー?」

「殺人に関して、一つ出さなかった例がありますよね?」


 そう言うと、先輩はわざとらしく頬を掻いた。まったく白々しい。


「……あー、忘れてたよ。まー、その必要はなくなったかな」

「……なるほど。では、そういうことにしておきます」


 それから、僕たちは他愛のないことについて語り合った。それを数回繰り返すと、あっという間に下校時刻となる。僕は鞄を持って立ち上がった。


「この銃、以前に僕が持ってきたものですよね。回収しておきます」

「えー、面白いのに」

「いやいや、必要ないでしょう」


 そう言って、受け取った銃を鞄の底にしまう。もちろん玩具で、弾なんか出ない。


「……そろそろ、気は変わった?」

「はい?」


 突拍子もない、どころか前後の脈絡すらない質問に、当然のごとく戸惑った。先輩は学生鞄の中から冊子を取り出してみせる。それは文芸部の冊子だった。

 僕も、同じ物を自宅の本棚に入れてある。もっとも、先輩が持っている冊子とは違い、所々に手垢が付いていたり、表紙が波打っていたり、ページに変な折り目がついていたりと、だいぶ使い古した感がある。


「……ああ、なるほど」


 僕はその綺麗な冊子を眺めて、ようやく先輩の意図に気付いた。


「小説を書いてみるのも、良いかもしれませんね」

「やった」


 先輩は小さくガッツポーズを作った。まったく、この人はそんなに僕の書いた小説が読みたいのだろうか?


「言っておきますけど、期待しないでくださいね」

「それは無理だよ」

「う……じゃあ、笑わないでくださいよ」

「めっちゃ笑うかも」

「……やっぱり書くの止めようかな」

「あー、ごめんね。嘘だよ、なるべく我慢するから」

「結局笑うんですか!」


 ……まあ、小説を書いてみるのも良いかもしれない。今までは、いくら先輩に頼まれても書く気なんて起きなかったけど。


「……今度、いや、なるべく早く書いてきますね」

「おー、楽しみに待ってるからね。ちなみにジャンルは?」

「うーん、無難に学園モノなんてどうでしょうか」

「恋愛要素もあったり?」


 先輩は、いかにもニヤニヤとした類の笑みを広げている。


「……それはお楽しみです。ちなみに、ハッピーエンドですよ」

「えー、それ言ったらつまらないよー」

「そうでしょうか? まあ、明日にでも議論しましょうよ。小説にバッドエンドは必要か、という題で」

「あ、それ良いねえ」


 ……なんて。そんな話をしながら、先輩と別れた。外はオレンジ色の光で満ちている。そのまま門を抜けようとしたら、教師に見つかった。確か、生活指導の松平。厳つい顔に海苔のような眉がくっ付いている。

 彼は威嚇するみたいに分厚い身体を寄せてきた。


「お前、また無断で出入りしてたな。これで何度目だ?」

「無断って、どうせ許可なんて下りないじゃないですか」


 誰がなんて言おうと、僕は文芸部の一員なんだ。


「だからってなあ……」


 松平先生は野太い眉を上下させた。


「ともかくだなあ――

 僕は松平先生の小言をスルーして、学校から離れた。ゆっくりと振り返る。部室棟はもう見えなくなっていた。

 ……でも、確かにある。まだ、ある。

「先輩に免じて、もうしばらくは止めておきますよ」

 ……そうして、僕は明日も学校へ行く。放課後になれば、また部室棟の四階に足を運ぶのだろう。たとえ、どのような場所にでも。


 あの先輩が、僕を待っていてくれる限り――。


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