拾壱ノ話

 長雨に降り籠められた反動なのか、夜の大通りは、ここ数日で一番と言っていいほどの賑わい振りをみせているようであった。

 目深にかぶった菅笠をひょいと持ち上げた嵐角は、居酒屋の軒から漂ってくる芳ばしい香りに惹かれ、思わずはたと足を止めていた。

 よくよく考えてみれば、ぼろが出ることを恐れるあまり、早々にあの呉服屋を後にしてきたおかげで、朝方から何も口にしていない。

 騒ぎ立てる腹の虫をよしよしと宥めすかす。

 一刻も早くこの静賀を離れなければと、そればかりを案じていたが、少々の間くつろいだところで、大した支障はあるまい。

 気が付けば嵐角は、あれやこれやと思うがままに、夜涼みの縁台を、色とりどりの酒と肴で埋め尽くしてしまっていた。

 川辺から吹き付けてくる涼風を感じながら飲み干す冷酒は、臓腑の隅々に染み渡るほどの芳味がする。思えば、常磐国を出てからというもの、のんびりと美酒に舌鼓を打ったことなど一度も無かった。

 今宵くらいは許される筈だ。一世一代の大博打を打ち終えた、今宵くらいは。

 そうしてひとときの至福に浸っていた嵐角は、見慣れた人影が縁台の脇をするりと通り抜けていくのに気が付いていた。

 この町で見慣れた人間など、そうそう居るものではない。

 案の定その人影は、数刻前に城鉦山のあばら屋で出遭った、あの若侍であった。

 何処ぞの居酒屋で買い上げたものなのか、青年は串に刺さった味噌田楽を頬張りながら、往来をてくてくと歩いている。

「おお、其方はあの時の! 何処かで逢えはしないかと気に掛けておったところだ!」

 程よく酒が回っていたところに知った顔を見つけたせいか、すっかり浮かれ調子になっていた嵐角は、思わず大音声だいおんじょうを響かせて、青年の細長い後ろ姿に呼び掛けていた。

 穏やかを絵に描いたような糸目でこちらを振り返った青年は、人ごみの合間を縫って走り寄った嵐角を見つけるや否や、すぐさま口許をほころばせてくれていた。

「これはこれは嵐角殿。またお会い出来るとは、思ってもみませんでした。私の薬はお役に立ちましたか?」

 青年の口調は相も変わらずのんびりとしていて、思わずこちらも釣られてにっこりとしてしまうほど、長閑のどやかそのものであった。

「それはもちろん! おかげであの若者はすっかり良くなったようでな。何もかも其方のお陰だ、感謝しているぞ」

「いえ、そんな――私は医学を志すものとして、当然のことをしたまでですから」

 ぎこちなく首を振った青年は、驕った様子もなく、ただひたすら照れ臭そうに頬を掻いていた。

「そうだ、世話になった礼に一杯くらいご馳走させては貰えんか」

 益々気を良くした嵐角は、気風に似合わぬ厳めしい手甲に覆われた青年の細腕を、無理矢理に固めてやろうとする。

「あの、お気持ちは嬉しいのですが、明日早くに故郷の武科へ発たなければなりませんので……」

 青年は、困惑を露わにしながらまたも首を左右に振ったのだが、すっかり興に入っていた嵐角には、はなからその遠慮を聞き入れてやる気などなかったのだった。

「まあまあ、固いことを言うな。ほんの少し付き合うくらい、何の問題もあるまい?」

「し、しかし――」

 慌てふためく青年を、半ば引き摺るような勢いで連行した嵐角は、再び意気揚々と、あの夜涼みの縁台を目指していた。


「い、今何と言ったのだ? よく聞こえなかったが――」

 青年の言葉はいつも唐突だ。

 たった数刻ほど前にも、今のようにその言葉の意味を解することが出来ず、頭の中が白一面に変わってしまうような感覚をおぼえさせられたばかりであったが、今回は少し違っていた。

 単純にそれを理解できなかったわけではない――耳を疑ってしまったのだ。

 それほどに、青年のもたらした情報は、あまりに無常で、あまりに絶望的すぎたから。

 思わず取り落とした漆塗の杯が、からからと乾いた音を立てて足元に転がる。

 飛び散った冷酒が墨色の脚絆きゃはんに斑点を描いても、無慈悲な現実にすっかり打ちのめされていた嵐角には、もはや塵ほども気に掛ける余裕はなくなっていた。

「ですから、あの特効薬を使われる折には、ご自身も事前に薬を飲んでおかねばならないことを、忘れておいでではありませんかと申し上げたのです。まさか、飲むのをお忘れになられていたのですか? 先生の分もと、少し多めに調合したつもりだったのですが」

 しかし、対する青年の態度は、酷くあっけらかんとしたものだった。

 不思議そうに首を傾げた青年は、さも当たり前のことのように、さらりとそれを言ってのけたのである。

 冗談ではない。何故今更になってそんなことを言い出すのか。

 いばらで締め上げられるような鋭い痛みによって、胸の中心を雁字がらめにされている気分だ。

 まさかこの青年、こちらがまともな医者でないことを分かっていて、 端からたばかる心積もりで近付いてきたのでは――

 疑心暗鬼に陥っている。

 青年の穏やかな笑顔が、呑気な語調が、何もかも偽りのものであるかのように思えてくる。

 ――待てよ。落ち着け。

 もし仮にそうであったとして、この青年に何の益がある?

 青年は言っていた。嵐角に薬を託す前に、件の患者の元へ一度薬を届けようとしたが、受け入れてもらえなかったと。

 自らの厚意を冷たく突っ撥ねた者の肩を持ち、仇討ちのような真似をする意味がどこにある?

 ――そうだ、この若者を衝き動かしたものは、純粋な厚意。

 たとえ冷たく突き放されても、苦しむ病人やみびとをどうにかして救ってやりたいと願う、医者としての厚意から来たもの以外に有り得ない。

 思えば青年は今、嵐角のことを“正真正銘の医者”だと信じて疑っていないのだ。故に、高名な医師である嵐角が、薬の使い方を心得ていないなどとは、夢にも思っていなかった。くどくどとした説明などなくとも、正しく薬を使いこなしてくれるはずだと思い込んでいた――そう、たったそれだけのことなのだ。

「いや、そんなことはない。薬を飲まなければならないことを忘れておったわけではないのだが、その……そうしなければならない理由わけを度忘れしていてな」

 それならば、この窮地を乗り越える術は単純だ。

 これから聞き出せば良い。

 この如何にも人の好さそうな青年から、あの禍々しい妖に関する諸事を、洗いざらい聞き出してやれば良いのだ。

 ――落ち着け。

 何とでも言いくるめる方法はあるはず。

 ――落ち着け。

 静かに息を漏らした嵐角は、なるたけ柔らかい表情を作るようにと心掛けながら、固唾を飲んで青年の答えを待ち侘びていた。

「そうですね……あのような妖は、そうそう多く見かけるものではありませんから。長年治療に携わっておられなければ、お忘れになられるのも無理はないかもしれませんね」

 案の定。

 納得したように深々と頷いた青年は、易々とこちらの言葉を鵜呑みにしてくれたようである。

「そうであろう? いや、恥ずかしい話だが、近頃は昔のように、医学書を何度も読み返すことも無くなってしまってなあ。頭に入っていないことなどないと思っておったが、どうやらそんなものは自惚れであったらしい。初心忘るべからずとはこういうことを言うのだな……いや、全くもって恥ずかしい話だ」

 引き攣れた愛想笑いを零した嵐角は、しきりに頭を掻きながら、内心ほっと胸を撫で下ろしていた。

 そうすると、“それでは僭越ながら”と、やや面差しを強張らせて咳払いを漏らした青年は、手の中の杯に視線を落としながら、まるで書誌を朗読しているかのようにすらすらとした調子で語り始める。

「人面疽が息絶える直前、蛍火のような光をご覧になりませんでしたか? あれは、鼓草が綿毛を飛ばすのと同じ――人面疽が次の宿主へ遷るための、“種”を飛ばす行為なのです。健康な体であれば、蛍火の側へ寄ったところで何も問題はないはずですが、気をつけなければならないのは、生傷を負った人間です。人面疽は、怪我を負った人間の傷口から体内へ入り込み、宿主の体に根を下ろす妖ですから……薬を飲んでおかなければならないのは、そのような顛末を避けるためです」

 青年の杯に映り込んだ白銀の望月がゆらゆらと揺れているのは、杯の中の冷酒が河風に煽られているからなのか、それとも、この眩暈を伴う激しい虚脱感のせいなのか――青年が流暢にそらんじてみせた講説は、残酷すぎるほど理路整然としていた。

「先生は、あの城鉦山の小屋でお会いした折、私の落とした鉢を拾おうとなさって、指先に怪我をされていましたね? 先ほどここで貴方の手元を拝見したときに、そのことを思い出してしまいまして――でも、きちんと薬を飲まれたのだとお聞きして、安心しましたよ。事前に薬を飲んでさえいれば、何も問題はないはずですから。いたずらに不安を煽るような物言いをしてしまって、申し訳ありませんでした」

 いつの間にやら、往来の喧騒は随分と遠ざかってしまっている。

 ぽつりぽつりと小見世の行灯が明かりを消してゆき、闇色の小夜衣(※1)を纏った町は、そそくさと床付けの仕度を始めているようだ。

 居酒屋の行灯が消え落ちた瞬間、はっと顔を上げて見世を振り返った青年は、杯に残っていた冷酒を一気に飲み干すと、おもむろに立ち上がっていた。

「おっと、いけない。そろそろ帰らなくては。少し出立が遅れてしまっているので、明日は何としても寝過ごすわけにはいかないのです。お名残惜しいですが、私はこの辺りで失礼を。ご馳走様でした、先生」

「ま、待ってくれ!」

 ――冗談ではない。

 気が付くと嵐角は、あっさりと背を向けて去っていこうとする青年に、脇目も振らず追いすがっていた。

 今度こそ本当に、冗談では済まされない。

 青年の講説が真実であるとするならば、自分は既にもう、あの気味の悪い瘤に“憑かれている”ということではないか。

 ここで青年を帰す訳にはいかない。何としても治療法を聞き出さなければ、自分に生きる術はないのだ。

 度を超えた恐怖と緊張とがい交ぜになり、もはや平常を装う余裕などどこにもなくなっていた。

 こちらの様子をきょとんと見つめる青年に怒りすら覚えながらも、嵐角は、捕まえた青年の細こい撫で肩に、全力で揺さぶりをかけていた。

「どうかなさったのですか、先生?」

「其方の持っていた、薬の調合方法に関してだが――」

「おや? 先生、何だか傷の中から、瘤のような腫れ物が浮き上がってきているような……」

「な、何だと!」

 刹那、稲光に打たれたかのように、胸の中心が大きく跳ね上がるのが分かった。

 思わず我を忘れ、ぱっくりと血の筋の走った指先を見つめてみるが、澄み昇った月の光にどれほどそれを翳してみたところで、変調らしきものを見つけることは出来ない。

「冗談ですよ、先生。もしも“種”が入り込むことがあったとしても、先生ならば何も恐れることはないはずでしょう? 何せ貴方は、つい先ごろまであの常磐の典薬寮に召し抱えられていたほどの、ご高名な先生なのですからね」

 あくせくとしながら瞳を凝らしていた折、視界の端にぼんやりと映っていた青年の口許が、三日月のような薄ら笑いを灯すのが見えた。

「しかし、気になりますね……先ごろ常磐に放った“草”からもたらされた情報によれば、の国の典薬寮に、先生と同名の呪禁師じゅごんしというのは存在していないはずなのですが。まあ、嘘も方便と言いますから、結果的にはこれで良かったのでしょうが」

 青年の声音は、長閑やかであった先ごろが嘘のように、凍てつくような禍々しい気這を帯びている。

 ――ああ、この声音には覚えがある。

 甚雨に閉ざされた城鉦のあばら屋で出会ったときにも、去り際、彼はこの氷刃の如き鋭利な声音を響かせていた。

 僅かに立ち止まりさえすれば、解せるはずであった。

 目先の益に心を奪われさえしなければ、自ずと見えるはずであった。

 青年の奥には、底知れぬ闇が在る。優しげな瞳をちらつかせ、彼はずっとその笑中に刃を研ぎ澄ませていたのだ――

「それにしても、貴方は幸運でしたね。もしも貴方が本当に常磐の呪禁師なのであれば、有無を言わさず、この場で始末せねばならないところでした。仇国の要人であるとはいえ、人助けをしようとなさっている方をこの手にかけてしまうというのは、何とも忍びない話ですからねえ」

「そ、其方は一体――」

 突如、仄かな月明かりに照らされていた夜の往来が、分厚い闇に閉ざされていた。

 見れば、煙焔の如き速さで広がる不気味な墨雲が、その幽遠な光もろとも、紺青の天涯に浮かんでいた月をことごとく飲み尽くしてしまっている。

「私は、刀もろくに使えぬ、ただの犬侍ですよ」

 再び通りへ向かって踵を返した青年の羽織を、四肢に絡みつくようないきれを孕んだ陰風が、はたはたと舞い上げていた。

「ま、待て! 其方は私が医者などではないことを分かっておるのだろう! 金はいくらでも払う! 頼むから、薬を調合してくれ! 私を救ってくれ!」

「へえ、そんなに怖いのか?」

 刹那、墨雲が僅かな切れ間を見せ、振り向いた青年の目許に光の帯を落としていた。

 望月の威光に照らされた青年の瞳は、闇天を溶かし出したような群青の色を宿している。

「そりゃそうだろうな……得体の知れない化け物に、内側を食われて死ぬなんて言われたら、恐怖を感じない人間が居るはずがねえ。だが、それはお前みてえな薮医者に命を委ねるしかなかった他の患者も、みんな同じだったはずじゃねえのか」

 けれど、その涼やかな群青の奥に隠されていたのは、闇よりも深い、漆黒の怪し火だ。

 痛嘆と憐憫れんびん。それを上回る敵意と蔑視。静かに嵐角を見据えた青年の瞳には、ありとあらゆる負の感情が逆巻いているように思われた。

「武科の侍を金で買えると思うな。金よりも自分の命が惜しいってんなら、てめえの懐のあぶく銭のために命を落とした人間はどうなる? そいつの命は、てめえの命よりも価値がねえって事なのか」

「そ、それは――」

 再び分厚い暗雲が垂れ込め、青年の総身が闇色に染まる。

 しかし、頭の先から爪先までの全てを闇に塗り込められた後も、その背後から立ち上る凶夢のような重圧は消えない。

 夜のしじまに響いた青年の声は、静かな怒りと、寄る辺ない嘆きに満ち満ちているように思われた。

「あんたは日頃から、ただ常磐の生まれってだけで、謂れのない差別を受け続けてきたんだろ。もしもそうだとしたら、浮世の人間の誰も彼もを信じられなくなる気持ちも、分からなくはない。けど、だからってそれが、周りの人間に何をしてもいいって理由にはならねえよな? あんたを信じて何もかもを任せようとした人間の心までをふいにするってのは、裏切り以外の何でもねえだろ」

 ゆらりと眼前の影が動いたことで、またしても青年が、無常にもその身を翻したことが知れる。

 そして案の定、影は草鞋を踏み鳴らし、こちらを振り返ることもなしに、ゆっくりと遠ざかっていこうとする。

「俺は、裏切りってのが大嫌いだ。あんたは、他人に裏切られることの痛みを何よりも知ってる人間だろ? だからこそ俺は、その痛みを知っているはずのあんたが犯した罪を、余計に赦せねえんだよ」

 滴り落ちるほどの冷汗が、体のあちらこちらから噴き出している。がちがちと、歯のぶつかる音が止まらない。

 膝からがくりとその場に崩れ落ちた嵐角は、ただただ頭を抱え、項垂うなだれていた。

 このままでは、何もかもが終わってしまう。

 どうすればいい? どうすれば――

 死ぬのは怖い。死ぬのは厭だ。

 死なないためには、どうすればいい?

 鈍く疼きを広げる胸を押さえつけようと、懐に手を入れる。もはや無用の長物と成り果てた桐薹きりのと(※2)を掻き分けていくと、明らかにそれとは違った、細長く冷たい何かが指先に触れるのが分かった。

 ――こんなものさえ拾わなければ。

 痛む胸の奥からこみ上げてくるのは、後悔ばかりだ。

 妖異に憑かれた指先が拾い上げたそれは、件の患者に束の間の疎癒おろいゆをもたらした、鈍色の剃刀であった。

 刹那のこと。

 三たび姿を覗かせた白銀の月が、朧気に青年の背中を浮き上がらせた瞬間、胸の中心に、どす黒い淀みが広がっていくのを感じていた。

 あのがら空きの背中に剃刀これを突き立ててやったとすれば、青年は自分を怖じ恐れ、泣いて赦しを乞おうとするだろうか。そうして揺すりを掛けてやれば、あの青年自らの手で薬を作らせてやることも出来るだろうか。

 もしも手酷い抗いを受けたとして、斯様かような痩せ侍に後れを取るなどということが有り得るだろうか。

 嵐角の心には、もはや拭い切れぬほどの深い深い闇が巣食っていた。

 何れにせよ、このままでは犬死だ。それならば、やれるだけのことはやってやる。

 狂気と邪執が見えない力と成り、ぽんと自らの背を後押しされたような気がしていた。

 息を弾ませた嵐角は、青年の後ろ姿の一点を見つめ、がむしゃらに疾走を始めていた。

 月光に照らされた滅紫けしむらさきの羽織が、吸い込まれるように迫ってくる。

 はしれ。

 疾れ。

 疾れ。

 凶牙が目睫の間まで迫っても、青年は一向に振り返ろうとしない。

 裏切りが、嫌いだと?

 お前は今しがた、私の心を裏切ったではないか。

 勝ちを信じて全てを委ねた私の心を、斯くも易々と裏切ったではないか。

 お前がその言葉通り、裏切りを何よりも嫌うとするならば、死ななければならないのはお前も同じだ。

 黒々と渦巻く殺意に口許を歪め、嵐角は、手の中の鈍色を翻していた。

 四肢を疾り抜ける衝撃。

 肉の斬り裂かれる音。

 そこまでは予想の範疇であったはずなのに、この異常な脇腹の疼きは、何だ?

「悲しいな、嵐角。あの千登勢屋の面々が、何故ああまでして必死に常磐の若者を助けようとしていたのか、そこに気が付くことが出来てたら、まだ救いはあったかもしれねえのに」

 掌から零れ落ちた何かが、砂利道と擦れ合い、乾いた音を立てる。

 ぼやけた視界の先にあったそれが、見慣れた鈍色を宿していることに気が付いた瞬間、嵐角は顛末の全てを理解していた。

「やはり、刀を使えぬと言ったことも、空言むなごとであったか――」

 羽織の八つ口――青年のちょうど脇下の辺りから、弁柄色の細長い棒切れのようなものが伸びている。

 棒切れの先で、嵐角の脇腹に深々と突き刺さっていたもの――それは、望月の白帯を照り返す、鋭利な刃であった。

「嘘は言ってねえだろ? 俺の得物はこの仕込み槍。刀はどうも不得手でな」

 こちらを振り向こうともしないまま、力任せに“仕込み槍”を引き抜くと、青年は小さく息をついていた。

 ――痛みが酷い。

 気が付くと嵐角は、俄かに広がりゆく真紅のみぎりに突っ伏していた。

 霞みゆく視界の中に、血潮の斑点に彩られた白足袋が見える。白足袋の持ち主を見上げるだけの気力は、もうない。

 傍らに佇む人影の落とした声は、降りしきる長雨の軒で聞き留めた、あの柔らかな音色を孕んでいた。

「三途の川の渡し賃は、六文あれば足りるそうですよ。道すがらで、黄泉路の路銀までを使い果たされませんように。道中、どうぞお気をつけて」

 夜半よわの景色の中に、息苦しさと痛みとが、ゆっくりと滲んで溶けてゆく。

 これから向かう地獄の沙汰所では、この懐のものさえ差し出せば、恩情厚く取り計らって貰えるだろうか――

 重たいまどろみが優しく肩を叩く中、嵐角はふと、そんな由無し事を思い浮かべていた。



《『蒼焔異聞・壱 ~城鉦山奇談~』・完》




※1 小夜衣=寝間着。

※2 桐薹=大判、小判などの判金のこと(その文様に桐の紋所を用いたところから)

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蒼焔異聞 ~城鉦山奇談~ タチバナナツメ @natsumm

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