後篇


 刑事が訪ねてきた次の日、同僚の送別会があって帰宅が遅くなった。

 家に着いたのは午後十一時過ぎ。部屋の電気をつけると、鳥カゴの中のデスティニーが眠そうな目で私を見ながら言葉をつむぐ。


「オカエリ! オカエリ!」


 私の顔に驚きの表情が浮かぶ。

 なぜなら、それは、デスティニーが初めて口にする言葉、しかも、私が教えたことのない言葉だったから。

 口をポカンと開けて彼の顔を見ていた私だったが、すぐに満面の笑顔がそれに取って代わる。


「すごい、すごい! あなた、もしかしたら天才? 私の目に狂いはなかったってこと?」


 私の口から飛び出したのは、親バカな人が我が子を褒めるような言葉。自分でも舞い上がっているのがわかった。

 鼻の下を伸ばして「ただいま」を連呼する私に、タイミングよく「オカエリ」を返すデスティニー。そのやり取りはとても心地良く、言葉のキャッチボールは深夜まで続いた。



 次の日、定時にあがって帰宅した。

 玄関のドアを開けて、期待を抱きながらデスティニーの元へと駆け寄る。


「嬉シソウ! 嬉シソウ!」


 発せられたのは、また新しい言葉だった。

 前日に散々練習した「オカエリ」が返って来るかと思っていたが、予想はあっけなく裏切られた。しかし、がっかりしたわけではない。次々に新しい言葉をつむぐデスティニーのことがますます愛おしく思えた。


「ありがとう、デスティニー。大好きだよ」


 そんな言葉を口にしながら、私は、鳥カゴから出したデスティニーに頬ずりをする。「嬉シソウ。嬉シソウ」。至近距離からの心地良い響きを身体中で感じながら。


 次の日も、また次の日も、デスティニーは新しい言葉をつむいで、私を喜ばせてくれた。

 しかし、仕事が休みの土日には、それがなかった。

 少し心配になったものの、よくよく考えると、一日というサイクルはあくまで私たち人間が決めたものであって、デスティニーの知ったことではない。「一日一言覚える」といった目標を立てているわけでもなく、一日や二日、言葉をつむがないことに違和感を覚える方がどうかしている。

 おかしな期待を抱いている自分が滑稽こっけいに映って、思わずプッと吹き出してしまった。


★★


 次の日、帰宅した私にデスティニーが言葉をつむいだ。


「死ンデクレ! 死ンデクレ!」


 背筋に冷たいものが走った。自分の耳が信じられなかった。全身の力が抜けてその場にヘナヘナと座り込んだ。夢であって欲しいと心から願った。


「死ンデクレ! 死ンデクレ!」


 が現実であることを否定しようとする私に、デスティニーは呪いのような言葉を浴びせる。

 夢ではないと確信した。現実として受け止めなければいけないと思った。


 不意に、頭の中に恐ろしい妄想が浮かぶ。

 心臓が早鐘を打つように鳴っている。


『天才のインコなど、いるわけがない』


 インコは、あくまで人が話す言葉を憶えるだけ。憶えた言葉を自分がつむいだように発信するだけ。それは、デスティニーも同じ。


『留守の間にがマンションに侵入してデスティニーに言葉を教えているのではないか?』


 普通に考えれば、そんなまどろこしいことをする者がいるとは思えない。実際、盗まれた物もなければ、室内を荒らされた形跡もない。

 ただ、愉快犯や変質者のたぐいであれば、奇異な行動を起こすことは十分に考えられる。


 数日前、刑事が訪ねて来た。三件目の通り魔事件の犯人が捕まったという話は聞いていない。

 腑に落ちないのは、ここ半年で二人が捕まったにも関わらず、また同様の犯行が起きていること。


『これは、偶然なのか?』


 なぜか一定周期で同様の犯罪が起きている。


『何かが狂気に身を委ねる者を生み出し、犠牲者が増えていくのを楽しんでいるのではないか?』


 オカルトを否定していながら、ぬいぐるみが自分を守ってくれるなどと思っていること自体、信じている証拠なのかもしれない。


『得体の知れない連鎖は、偶然じゃなく必然』


 携帯電話を手に取って速足でキッチンへ向かうと、レンジ台の下の収納庫から出刃包丁を取り出した。

 明かりという明かりをけながら家中を注意深く見て回った。人が隠れていそうな場所では、包丁を振りかざしながら、すぐに警察へ通報できるよう身構えた。しかし、ベランダやトイレまでくまなく確認したが、人が潜んでいる様子は無かった。


 小さく深呼吸をして安堵の胸を撫で下ろす私だったが、すぐに付き合いのある工務店へ電話をした。

 家の中に誰も潜んでいなかったとはいえ、愉快犯ならそれは当たり前のこと。みすみす捕まるような真似はしない。考えられるのは、犯人が私の部屋の合鍵を持っていて、玄関から堂々と出入りを繰り返しているということ。そうであれば、一刻も早く玄関の鍵を交換する必要がある。

 ベランダから侵入した可能性もないわけではないが、私の部屋は八階で、ベランダの引き戸は中から三重のロックが掛けれられている。痕跡を残さず侵入するのはまず不可能だ。


 午後七時を過ぎているため工務店の営業は終了していたが、社長に頼み込んでその日のうちに下調べをしてもらうこととなった。

 顔見知りのスタッフがドアと鍵の型式をチェックし建材メーカーに在庫を問い合わせたところ、翌日の午前中にドアごと取り換えることとなった。長年ホームセンターに勤め男性社員といっしょにバリバリ働いてきたことが、思わぬところで役に立った。

 その夜は、大きな不安を抱いたまま、まんじりともせず一夜を過ごした。


★★★


 翌日午前十一時、ドアの交換が無事終わった。

 ただ、そのまま仕事に行ける気分ではなかった。私の中では、依然として不安がくすぶっていたから。


『鍵を取り換えても、犯人が来ないとは限らない』


 私は、すべてを疑っていた。私以外のすべての人間を信じることができなかった。鍵の取り換えに関わった、工務店やメーカーが犯人と通じている可能性さえ疑っていた。


『何が起きているのか、確かめないと』


 そんな衝動に駆られた私は、犯人を突き止める、ある手立てを思いつく。

 ネズミキャラのグッズの中に、サンタのコスプレをしてプレゼント袋をたずさえた、私と同じくらいの巨大ぬいぐるみがある。

 プレゼント袋の中にビデオカメラを仕込んでレンズの大きさの穴を開ける。デスティニーの鳥カゴにピントを合わせれば、犯人の姿や言動をとらえることができる。その映像を証拠として提出すれば、警察が犯人を捕まえてくれる。

 さらに、玄関を入ったところに小麦粉を撒いておく。そうすることで、侵入者がいれば、何かしら痕跡が残る。

 今警察へ相談しても誇大妄想で済まされる可能性が高い。「頭がおかしい女」といったレッテルを張られるのが落ちだ。それなりの証拠がいる。

 仮に、数日、何も起こらなければ、鍵の取り換えに関わった者はシロであって、ビデオカメラを玄関の外に設置すればいい。サスペンスドラマで刑事が「犯人は必ず犯行現場に戻って来る」などと言っていたが、満更フィクションではないと思った。


『いつもの帰宅時間――午後七時に帰宅して、家の中に誰もいないことを確認してからビデオを再生する。その結果、何かあれば、すぐに警察へ通報する』


 カメラをセットした私は、頭の中で段取りを確認すると、玄関に小麦粉を撒いて扉に鍵をかけた。犯人が訪れることを願いながら。


★★★★


 午後七時を過ぎた頃、息を殺して玄関の鍵を開けた。

 ガチャリという音が辺りに響く。ドアの隙間から懐中電灯で照らしたが、撒かれた小麦粉に足跡はなく、誰かが侵入した形跡はない。下駄箱の中から、あらかじめ忍ばせておいた出刃包丁を取り出した。

 携帯と出刃包丁を手に、私は、犯人の隠れそうな場所をチェックしながら、注意深くデスティニーのところへ向かった。そして、誰もいないことを確認して部屋の電気を点けた。


 その瞬間、言葉を失った。

 鳥カゴの中はもぬけの殻で、そこにいるはずのデスティニーがいなくなっていたから。

 心臓の鼓動が、フルマラソンを走り切った直後のアスリートのように鳴っている。何が起きたのか見当がつかなかった。ただ、を知るすべはある。


『ビデオを見るの!』


 すぐに通報できるよう、携帯電話に警察の番号を表示すると、プレゼント袋に忍ばせたビデオカメラを取り出した。

 酸欠にでもなっているかのように呼吸が苦しい。気を抜けば、そのまま失神してしまいそうだ。せきを切ったように涙が溢れてきた。サンタコスのぬいぐるみを思い切り抱きしめた。


『お願い。私を守って』


 ぬいぐるみといっしょにテレビのところへ移動した私は、泣きながらビデオカメラを接続した。再生ボタンを押そうとしたが、そんな悠長なことはやってられない。早送りボタンを押して何か動きがあったところで止めることとした。


『神様……』


 右手でぬいぐるみを抱きしめながら、震える左手で早送りのボタン押した。

 しばらくは、何も起こらなかった――が、二分が経過したあたりで違和感を覚えた。

 カメラの焦点がぶれている。最初はそれほど気にならなかったが、映像には、デスティニーの姿が全く映っていない。カメラが別の方向を向いている。

 早送りを止めて再生へ切り替えると、ビデオの音声が再生された。


「殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す――」


 スピーカーを通して、死の淵から響いてくるような、この世のものとは思えない、重苦しい声が聞こえてきた。

 瞬時に、私は確信した。ビデオカメラに気づいた犯人が、わざとピントをずらして、私あてにメッセージを残したのだと。


 警察に連絡をしようと携帯電話に右手を伸ばした、そのときだった。


 ビデオの画面に、鳥カゴの中で、おびえた様子で金切り声をあげるデスティニーの姿が映し出される。彼に向かって伸びているのは、白い手袋をはめた平べったい、大きな手――一度見たら忘れられない、特徴のある手だった。


 携帯電話を持つ右手が動かない。何かが押さえつけている。

 恐る恐る目を向けると、そこには、あのネズミキャラがいた。普段は焦点が定まっていない、大きな目がギョロリと動く。目の奥では、憎しみを蓄えたような、鋭い眼光が私の身体と心を射抜かんばかりに見据えている。


「殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す――」


 悪魔がつむぐ、呪いのような言葉が「左側のビデオ」と「右側のぬいぐるみ」からステレオ放送で聞こえる。

 身体が動かない。全身が押しつぶされるような息苦しさを覚えた。

 恐怖に顔をゆがめ、顔を左右に振りながら声にならない声を発する私の耳に、聞き慣れた、甲高い、笑い声が聞こえた。


 ネズミの手には、いつの間にか出刃包丁が握られていた。



 おしまい

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言葉ヲ紡グモノ RAY @MIDNIGHT_RAY

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