たまらなく胸が震えて眠れない夜は

水樹小夜

たまらなく胸が震えて眠れない夜は

「さんちゃん、ごはんは?」

「……ゼリーあるから、大丈夫」


 わずか齢十二の子どもは自らの体温で生ぬるくなったゼリー飲料を握りしめて言った。おにぎりいっこぶんのエネルギーを摂取出来ると謳うそいつは、既にひとパック空になっていて、彼の足元に転がっている。

 問いかけた主は飲み捨てられたパックを拾って、しわくちゃな顔に皺をふやした。


「こんなもので本当におなかいっぱいになるのかい」

「結構おいしいんだよ。ごめんね、たつおばあちゃん。明日には出ていくから」


 たつおばあちゃんはため息をついて、子どもが大人を気遣うんじゃないよと眉を寄せた。子どもは何も答えず、外を向いてまたゼリーを吸った。

 ちう、ちう、ちっ。

 風鈴が舞い踊る音と、消え入りそうな吸啜音だけが部屋に響く。小さな猫がペチュニアの茂みから顔を出しては、戻る。庭から飛び込んだ若葉のにおいのする風が、築五十年の家屋を揺らす。廊下を駆け抜けた風は台所のガラス戸をガタガタと鳴らした。真昼に幽霊が出たような、そんな心地だった。

 たつおばあちゃんは座った目で話しかけた。


「さんちゃん、あんた、どこへいくんだい」


 どこへ、いくのだろう。

 その問いにも答えず、子どもは目をつむった。










 そういえば、自分の名前は昔からきらいだった。

 

 讃太という名は、その響きから幼少期の頃よりいじられやすい運命にあった。赤い服を纏ったおじさんと一緒にされたくなくて、出会う人全員に「さんちゃん」呼びを強制した。

 しかし父親は実家を捨てた身で、彼らは北から南へ各地を転々としなければならなかった。新たな地で、新たな友だちを作るたび、彼は名前を呼び捨てにしないよう頼み込まなければならなかった。

 友だちはたくさんいたけれど、特別仲が良くなった子は片手と少しぐらいの数しかいなかった。

 片手と少しの親友たちの中でも、小学二年生の間いっしょだった竜彦とはよく遊んだ。

 竜彦はよく讃太を自分のおばあちゃん家に連れて行った。

 竜彦のおばあちゃん、たつおばあちゃんは孫の友だちを可愛がった。彼はそこで初めてけんだまで世界一周をし、こまで板の間に穴をあけ、すごろくで人生を一通り経験した。

 なんべんもお夕飯をごちそうになったし、何度かお泊りもした。おさとうの入ったふわふわの卵焼きはとてもおいしかった。風呂場の冷たいタイルに悲鳴をあげたし、深くて狭い浴槽では溺れかけた。ビーズの入った枕は音が気になって眠れなかった。あさ、布団に乗っかっているのは脚だけで、上半身は畳のうえ、なんてことはいつもだった。

 生涯のなかでいちばん楽しかった一年間だった。

 そのうちまた引っ越すことが決まって、彼らは文通を始めた。竜彦からの返信はまだらだったが、讃太はマメに返事を書いた。そのうち母親が切手代にしびれを切らした。自分のお小遣いで買うようになってからは、讃太も手紙を書く回数が減った。まもなく文通は途絶えた。小学四年生の冬、二年前のことである。








「さんちゃん、なに食べたい?」


 日がどっぷりくれた頃、耳の近くで声がした。はっと目を開けると視界の三分の一が畳で少し混乱した。目の端では、やはりペチュニアが踊っている。

 風鈴と鈴虫が鳴いていた。相変わらず風は強く、木々をざわめかせている。昼間とは違う不気味さが漂っていた。


「ぼく、おなかすいてない」

「さんちゃん、」


 たつおばあちゃんは讃太の顔を覗き込んで言った。


「人間はね、食べなくちゃいきていけないんだよ」


 讃太はいきなり不機嫌になった。


「そんなの知ってるよ!」


 ちりん、りん。

 静寂に風鈴の音が響く。


「おとうさんとおかあさんのいるところに帰らないのかい」

「ママは出ていったんだ」

「おとうさんは、おうちでさんちゃんを待ってんだろう?」

「新しいお母さんが弟を連れて退院するのを待ってる」

「お兄ちゃんになるんじゃないか。さんちゃんは待っていなくていいのかい」

「いやだ!ぼくは家を出るんだ。ママとおんなじように!」


 ちりん。

 讃太の声は震えていた。


「二年前にママは家を出た。その半年後に若い女の人がやってきたんだ。新しいお母さんだよって」

「うん」

「お母さん、すぐに妊娠して。弟か妹が出来るって知って、ぼく嬉しかったんだ。でもね、おとうさん言ったの。弟も生まれるし、もう引っ越しはよそうかって」


 その宣告は突然で、すとんと受け入れられるものではなかった。彼にとっては一年か二年に一度引っ越すのが当たり前で、まさか定住する日が訪れるとは夢にも思わなかった。

 弟が出来たことによって、こんなにも、あっさりと。


「ぼく、引っ越すたびに泣きながら頼んだんだよ。もう引っ越すのはやめよう、ぼくここにいたいって。友だちと離れたくないって。でも、全然聞いてくれなくて。なのに、弟が生まれるってなった途端、引っ越しやめるって!」


 讃太は顔を歪めた。視界がぼやけて色彩しか判別できなかった。それでも涙を落としたくなかった。


「ぼく、もっと北に行くんだ。ぼくが最初にいた町。ぼくの生まれた町。ぼくは、ぼくに会いに行くんだ」


 堪えても堪えても涙を抑えることはできなかった。わんわん声をあげるのだけは避けたくて、讃太はあふれ出る涙を押さえつけるように拭った。

 たつおばあちゃんは、目の前の小さな男の子があわれで仕方がなかった。

 生まれてこの方父親に振り回され続け、そしてこれからは弟に翻弄されるのだろう。

 それでも、おばあちゃんは彼を甘やかすことはしなかった。


「さんちゃん。あんたは自分が嫌いかい?」

「え?」

「性格、考え方、生き様……『自分』を表す指標を並べたとき、あんたは自分のことが嫌いだと断言できるかい」


 讃太は目をぱちくりさせた。そのまま思慮深く考え込む。


「……ううん、自分のことはそんなに嫌いじゃない。たぶん」

「わたしもさんちゃんのまっすぐなところ、大好きだよ。でもねぇさんちゃん。もし、さんちゃんが送ってきた人生がいまのと全く違うものだったら、さんちゃんはいまのさんちゃんには成れなかったとわたしは思うの」


 讃太はわかったような、わからないような顔をした。


「何度も転校して、何度もお友だちを作り直して、そりゃあ大変だったでしょうね。でもその苦労があったからこそ、いまここにいる正直でまっすぐなさんちゃんができたんだと思うのよ」


 だからね、と。むかし眠れない夜にお話を呼んでくれたときと同じような、静かで、でも感情がこもった重さで、たつおばあちゃんは言った。


「変化を恐れるんじゃあないよ。人間はいつだって凝り固まった世界を求めてしまうけれど、それだけじゃあ何も成長しない。せっかく素直に育った心根だ。こんなところで腐らせてないで、立派に成熟させておいで」


 そういうと、よっこらせといいながらたつおばあちゃんは去った。まるで、あとはひとりで考えなと言うように。

 ぼうっと夜の庭の眺めていると、急に家のことが思い出されて少年の頬に寂しさが伝った。対話を諦めて逃げてきたのだけれど、やっぱり面と向かって言いたいことを言いたくなった。そして叶うのならば、もう一度あの大きな腕に抱きしめてもらいたくなった。

 変化を恐れたとはいえ、針を全身から生やしていたようなものだった。虚しさが伝わるはずないと決めつけていただけだった。少年は少し恥ずかしくなって、俯いてゼリー飲料のパックを揉んだ。いまの家族にも会いたいけれど、生みの親にも会いたかった。


「ぼくを嫌って出ていったわけじゃないもの。きっと会ってくれる……。喜んでくれる……」


 讃太は目を閉じた。


(どうしてぼくはここに来たのだろう。竜彦の家じゃなく、たつおばあちゃんの……)


 それは讃太の知らない『祖父母』への憧れであり、幼い頃親身になってくれた者への信頼であった。たつおばあちゃんは片手と少しの親友たちを遥かに超えた信頼を獲得していたのだった。


(そしてぼくは帰る……。ぼくは家からきて、家を渡り、家へ帰るのだ)


「さんちゃん」


 たつおばあちゃんの声に瞳を開いた。鼻腔をくすぐるにおいに目を見開く。


「食べることは生きること。さ、たんとお食べ」


 皿の上で卵焼きが震えていた。ほかほかとまだ湯気の立ち上るそれを半分に割ると、ゆるく巻かれた卵が溶けるように崩れた。必死に箸で押さえながら、口元に運ぶ。手が震えて、口からこぼれてしまいそうだった。とろり。温もりが口内から身体へ、心の奥底へ浸透していく。嗚呼、と心で叫んだ。ああ、そうだった。


(新しいお母さんの卵焼きも、とろとろで、甘かったっけ……)


 小さな皿の大きな卵焼きをたいらげて、少年はぼたぼたと大粒の涙拭うこともせずに俯いていた。髪の間から、かぼそい声があがる。




「でんわ、貸してください……。おとうさんの、こえが聴きたい」

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たまらなく胸が震えて眠れない夜は 水樹小夜 @sayo_mzky7

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