朝顔を君に
七野青葉
朝顔を君に
「お、お、おはようございます。いい天気ですね」
最初に会ったとき、ルコはそう言った。プールからおずおずと顔を出して。見つかってしまった、そんな絶望に打ちひしがれた青い瞳が俺を見上げている。
俺はもう、何が何だか分からなかった。
「……おはようございます」
時間は午前7時。そう、少し前まで俺は一階の旧美術室に荷物を置き、一人ゆったりと美術部員の作品を見ていた。青い海が描かれた油絵に魅入っていたのだ。ふと顔を上げると、窓の外すぐそこに見えるプールがまだ薄暗い世界の中できらきらしている。風に吹かれて穏やかに波立つ水面は、ちょうど海みたいだった。俺はカラカラと引き戸を開けた。
で、なんで「何が何だか分からなかった」のか。目の前にいる少女が明らかに水泳部じゃない身なりをしていること。胸に貝殻なんかつけて……これビキニか? というか、必死に隠してるけど、その水面下怪しく銀色に揺れる大きな魚類の尻尾がある。完全にアウトなやつだ。先生、未確認生命体を発見してしまいました。
テレビ局に送ろう。金もらえるかもしれない。俺はおもむろに携帯を取り出した。
「あ、待って待って、撮らないでください! お願い」
白くきめ細やかな肌の少女は、うっすらと水分を含んだ藍とも銀ともつかない色の髪の毛をぐしゃぐしゃっと前にもってきて顔を隠そうとした。いや隠すのそこじゃないだろ。
「あ、あの、私、実は人魚なんです」
「見れば分かるよ」
「うわあ、や、やっぱりバレてた!」
びくびくしすぎだろ。今にも泣きそうな顔だ。
「わ、わ、私を焼いて食べるのですか」
「そんなことするかよ」
吹き出してしまった。ほんとですか、とうるうるした目で言う。変なやつだなあ。
それで俺はなんとなく携帯を持った手を下げた。夏風が空をよぎる。それが俺とルコの不思議な出会いだった。
*
「ねえ、どうして航(わたる)はこんなに早い時間からあんなに遅い時間まで美術室にいるのですか」
「美術室じゃなくて旧美術室な」
俺は素早く訂正する。その一文字があるかどうかで、行くか行かないかの選択が全然違ってくる。
ある朝の午前6時30分。ルコは不思議そうに尋ねる。猫がそうするみたいに尻尾を器用に動かす。水面がぱしゃん……ぱしゃんと規則正しい音を立てる。
「夜だって、9時ぐらいまでいるでしょう」
「お前だって四六時中いるじゃねーか」
「そりゃそうですけど。それは私に足がないからであって……。今、はぐらかしましたね」
「知らね」
俺はプールサイドの床に寝転がり、蒼然とした空を仰ぎ見る。夏とはいえ朝は空気がすうっと冷えていて、背中がひんやりと心地いい。目の端、プールの金網に蔦を伸ばしたたくさんの朝顔が見えた。藍、青、うすい桃……影を落としたそれらの色が、涼やかだ。
「航」
「うわあ」
うす青い世界から一転、視界がルコになる。プールサイドから精一杯体を乗り出してきたらしい。細く柔らかそうな髪の毛からぴちょんと雫が垂れて、俺の顔面に直撃する。
「ルコ、冷たい」
「……」
「おい。ルコ、どいてくれ」
「いやだ。ねえ、そんなところで寝てないで遊びましょう」
「俺は制服だしお前はこっちに上がってこれないし、何して遊ぶんだよ」
「遊んでくれないと、どきません」
こいつ、肌は透きとおるように白いのに、くちびるはさくらんぼみたいに赤い。ルコはじっと俺を見つめる。ぽたりぽたり……って、ああもう冷たいな。だんだん見ちゃいけないものを見てる気持ちになってきた。その、胸とか。目のやり場に困る。はぁ、おいおい勘弁してくれ。根負けした俺は目をそらして、ルコの白い肩ごしに真ん丸の月を見る。
「ふふ。勝ちました」
「いや、何にだよ」
「にらめっこ」
ルコはにこっと笑うと朝焼けに染まるプールに飛び込んだ。ぱしゃん。
「航、宇宙人みたいな顔してましたよ」
「余計なお世話だ。これが普通の顔なんだよ」
辺りは相変わらず静かで、しんとしている。うるさいのはルコだけだ。閑さや水面(みなも)にしみ入るルコの声。なんてな。あー俺何考えてんだろ、ほんとに。
「航は絵が好きなんですか?」
「別に好きじゃねえ」
「じゃあ得意なんですか?」
「得意そうに見えるか?」
分かりません、とルコは言う。
「描いてみてください」
「……」
こいつに嫌って言ってもどうせ聞かないのは、そろそろ分かってきた。俺は黙ってカバンから古文のノートを取り出す。まあどうせ使わないものだし、これでいいだろう。
「航、これに描くんですか?」
「おう」
「でも、これ、見たら分かります。予習してたんじゃないんですか?」
「はいはいちょっと静かにしてください」
「もう。すぐそうやって……」
シャーペンをカチカチと鳴らし、まず紙面に円を描いた。それを2つ、3つと増やしていく。
「何ですか、これ」
「お前ほんと気が早いな……ちょっと待てって」
俺は丁寧に点や線をいくつも重ねていった。残念ながら絵に関する知識も美的センスも皆無なので、小学生の頃理科で習ったことを活用させてもらう。
ルコはクソ真面目な表情で身を乗り出してくる。だから、顔近いって。はぁ、ちょっとは自覚してくれ。ほんのりピンク色の頬に水滴がついている。首筋に細く絡み合った髪の毛が流れている。俺は心を無にしてシャーペンを走らせようと努めた。目線はノートに集中させることができても、意識はそうもいかない。俺だって一応男だ。あーもう。
「あ! 朝顔だ」
「……おう」
「すごい。きれいです。航は絵を描くのうまいんですね」
「そ、そうか?」
美術の成績はよくなかったんだが。
「うん、うまい。朝顔が好きなんですね。もっと描いてくれますか?」
「はぁ……そう言われてもなあ。俺、あんま美術とか絵とか知らんし」
「え? じゃあなんで美術室にいるんですか?」
「あのなあ……」
おい、話が元のところに戻ってきたぞ。こいつもしつこい奴だ。
「お前、いろいろ察しろよ。そんなんじゃ人間社会うまくやってけんぞ」
「私、人魚ですからね」
うっ。なんか負けた。ルコは真実を知ってか知らないでか、あのクソ真面目な顔つきで俺を見る。ああもう、この頑固人魚は好奇心の塊かよ。そんなに知りたいなら、教えてやるよ。
「いいかルコ。俺はな、いわゆる保健室登校ってやつやってんの」
「それって自分の教室に行ってないってことですか?」
「そうだよ。美術室でひたすらダラダラするだけ。みんなより早く来てみんなより遅く帰るのは、みんなと顔を合わせたくないから」
「ううーん。航、それ」
「情けない話だろ? 教室に行ったらもどしちゃうんだよ」
「いやあ。航、それは保健室登校じゃなくて美術室登校です」
ルコは、クソの上にもう一個クソがつきそうなクソクソ真面目な顔つきで言った。はぁ? 何言ってんだこいつ。そこじゃないだろ。
「別にどこでもいいじゃないですか」
「はぁ」
「どこ行ってもいいじゃないですか。海でもどこでも、あなたはわたって行けるんだから」
それにダラダラだなんて、きっちり毎回予習してるのに、そんなことありません。
言い終わると、ルコはぱしゃんと小さな海に潜った。たゆたう仄かな光の中、自由に泳ぎ回る。
別にいいじゃないだって? のんびりした顔つきで言いやがって。脳内お花畑の奴の思考回路は、全くうらやましい限りとしか言いようがない。
ざぶんと顔だけ水面から出したルコは、俺を見てぱちくりと目をしばたかせる。
「航……何、顔隠してるんですか」
「うるせー」
泣き虫ですね。ルコはいたずらっぽく笑った。
*
旧美術室は授業でも部活でも使われない。美術部の物置として使われているこじんまりとした教室だ。俺の学年に関しては部員が1人だと聞くくらい総人数の少ない部活なので、めったに美術部員が出入りすることもない。椅子も机もほとんどなかった。
クラスの担任が美術部の顧問だったのは幸運としか言いようがない。彼が俺にここの鍵を渡してくれたのだ。保健室だと稀にクラスメイトにも会う。俺は、もうそこへすら行けなくなっていた。
「ふう」
俺は勉強道具を木造の床に置き、伸びをした。美術室特有の、油やシンナーの臭いがする。俺は例の海の油絵を見た。吸い込まれるような青だ。だが何か物足りない。自分で絵を描いてみてから見方が変わったのだろうか。だとしたら、ルコのおかげと言えなくもない。俺は今日も引き戸を開けてプールへ向かう。
「いつから航はそんなかんじなんですか?」
ルコはプカプカと浮かびながら目線だけ俺によこした。
「そんなって」
「その……友達が一人もいない孤独な状況です」
おい、詳しく言うな。いや俺が説明を求めたんだけども。
「三人ぐらいはいるぞ」
「名前ちゃんと言えるんですか? どうせ学級委員長とかでしょ?」
「えっと、河合さんと、河合さんと、河合さんと」
「同じ人じゃないですか」
しかも出席していない分の授業プリントをもらうだけの関係だ。極めて事務的で義務的な関係である。そしてなにより正直に言うとズバリ学級委員長だ。
「で、結局いつからそんなかんじなんですか?」
「……きっかけは中学生のときだな」
本当に小さな出来事だった。感染性胃腸炎が流行っていた冬のこと。俺はカースト制とも言えるクラスで、一番羽振りを利かせていた女子の机に……、ああ思い出しただけでぞっとする。あの狭い社会の中でそれがどういう結末を迎えるかは、想像に難くないはずだ。もちろんお察しの通り、汚い、触るな、話しかけるなっていう一通りの苦行は体験した。
「そんなこんなで、人と話すことも触れることもできない今の俺が誕生しましたとさ」
おかげで何かあるとすぐ吐く癖がついてしまった。本当にやれやれだ。
「でも私とは話せてますよ」
「それはお前が人間じゃないからだろ」
「そっかあ」
今のは少し嘘だ。ルコは俺を毛嫌いしたり、逆に気を使いすぎて腫物を触るようにしたりしない。それ以上の態度で接してくれるからなんだろうな、と最近は思う。俺だって、最初は不思議に思っていたんだ。
今日も暗い朝の学校は沈黙を続ける。俺はあぐらをかきなおし、目を落とした。背中を丸めるようにして、色鉛筆を走らせる。下書きした朝顔の花の、細かな皺を一本ずつ丹念になぞっていく。オレンジを重ねる。それから黄色、赤……。
「これは朝焼けの光なんですね」
「うん」
「綺麗ですね」
「うん」
「もう、航、夢中じゃないですか」
俺は白い紙にたくさんの朝顔を咲かせた。そうやって朝顔が完成するたびに、それを旧美術室に投げ入れた。毎日何枚も描くから、旧美術室はいつの間にか朝顔ばかりになっていた。朝日に照らされた朝顔、暗闇の中ひっそりと顔を出した朝顔、水に濡れた淡いピンクの朝顔、それから、青々と茂る葉の中からのぞく傘のような蕾まで。
「いいなあ、美術室。今綺麗なんだろうなあ。私もお花畑に囲まれたいです」
「旧美術室な」
「私には足がないからそこまで行けないけど、いつか見せてくださいね。朝顔のお花畑」
「おう」
ルコは眉毛を八の字に下げたままふにゃりと器用に笑った。ちょっと切ない表情だ。俺とルコは指切りげんまんをした。いつかきっと一緒に見よう。
「航に、触れました」
ルコはしてやったりという顔をした。本当だ。俺は驚いた。ルコは俺の手をとりぎゅっと握って言う。大丈夫ですよ、いつかきっと他の人と話したり触れたりできる日が来ます。今は孤独で友達もいない航ですけど。
「最後の一言は余計だな」
俺はルコの頭を軽くこづき、ルコはぺろりと舌をだした。水面をわたる風に吹かれ、濡れた髪が額にはりついた。吸い込まれるように青い目の端がきらりと光ったのは気のせいだろうか。
もう会えない。その話を聞いたのはそれから1週間後のことだった。元いた場所に帰らなくてはならなくなりました。ルコはそう言った。真っ暗なプールの水面はじっと沈黙を守っている。風も止んでしまった。
「なんで。帰るってどこに」
「……あのね、えっとね」
俺は絶対に聞くべきじゃない質問をした。瞳が聞かないでと訴えていたのに。ルコはやっぱりそれには答えなかった。
「あのね、帰らないと、私を生んでくれた人に迷惑をかけることになりそうなんです」
本当はもっと早く帰らなきゃいけなかったらしく、今日の朝限りでここにも来なくなるらしい。あいつだってここにいたかったんだ。ルコはべそをかきだした。
「あーもう、泣くなって」
「だって……」
はぁ、そりゃそうだよな。俺は人間でルコは人魚だ。いつまでも一緒にはいられない。俺はルコに困らせるようなことを言った自分を恥じた。
「よしルコ、今から急遽送別会だ」
「えっ、本当ですか?」
ルコは目を輝かせた。海みたいに青い瞳が涙と一緒にキラキラしていた。
*
俺は旧美術室に戻って今まで描いた朝顔を全部かき集めた。それから大きな木の籠を一つ拝借する。
「何するんですか?」
お行儀よくプールサイドに手を乗せて、ルコが目をしばたかせる。俺はプールの金網に咲く無数の朝顔を摘み取っていく。微かに湿り気のある柔らかなその花は、朝露を含んで風に揺れていた。俺はその色とりどりの朝顔を籠にどっさりと入れ、プールの淵まで運ぶ。
「これくらいでいいか」
俺は籠いっぱいに入った朝顔を全部空中に放り投げた。ぽとり、ぽとり、ぽとり。花は次から次へとルコのいる小さな海に落ちていく。波が青やうす紫に揺れる。
「うわあ」
ルコは嬉しそうに花の中で戯れた。
「航! 水面に、お花が咲いています」
「おう。約束してたからな」
そして俺は、紙を水面に浮かべ始める。今まで描いてきたものを全部、丁寧に滑らせていく。紙の朝顔はしばらくすると水を含んでゆっくりと底に沈み始めた。
「……航。水底にも、お花が咲いています」
「おう。約束してたからな」
「旧美術室のほうでは、いつの間にか絵の具も使うようになってたんですね。私、そんなことちっとも知らなかった」
ルコはそっと白い指先で俺の頬に触れる。ひんやりとつめたかった。指の腹には紺色の絵の具がついていた。なあ。俺はルコに言った。
「絵を描かせてくれないか」
「はい」
ルコの濡れた長い髪の毛が銀色や青に光る。朝顔が揺れる。しとやかな空気の中俺とルコは静かだった。時々ぽつりぽつりと冗談を言って静かに笑いあった。色鉛筆が線を重ねていく音だけが絶えず響いていた。俺は、水中の花園で笑う瑠璃色の女の子を描いた。完成する頃には、うす雲から少しだけ飴色の光が覗いていた。口にしなかったけれど、お互いに時間が迫っていることには気が付いていた。
「航も、泳いでみるといいですよ」
「ばか言うなって。水着持ってきてないし」
泳いでみるといいです、ともう一度ルコは言った。頑として聞かないその声色には聞き覚えがある。嫌な予感がした頃にはもう遅くて、いたずらっぽい笑みを浮かべたルコが俺の手をぐんとひいた。
「うわっ、ば……っか」
ざぶん。勢いよく水飛沫があがる。ぷはあと波から顔を出すと、いつもよりもっと透明な景色が広がっていた。
「急に水にひきずるとかお前は妖怪かよ!」
「まあジャンル的には間違ってないんじゃないですか」
「……お前ほんと最後までやりたい放題いいたい放題だな」
「航も自分のやりたいように言いたいように、好きにすればいいじゃないですか」
ルコはあっかんべをした。ほんとにお前ってやつは最初から最後まで俺を振り回してくれるよな。
「好きにすればいいんです。行きたいところへ行けばいいんです。きっとあなたはどこへでもわたって行けます。航、これからも絵を描いてください」
たくさんたくさん、できるだけたくさん絵を描いてください。ルコの柔らかい髪の毛についた小さな水滴がぽたりぽたりとプールに落ちた。
「ルコ。またいつかどこかで会おう」
「はい。絶対ですよ」
「おう。なあルコ」
「はい」
「好きだよ」
一陣の風が静かにそよいでさよならを告げる。涙がぽたりと落ちる。水面と水底に咲く無数の朝顔の真ん中で静かに目を閉じた。
ドアをノックする音が聞こえる。
「奥野航くんいますかー」
返事をするよりも前に、夏制服の黒いスカートがひらりと揺れた。旧美術室のドアから覗くようにして俺を見ているのは、一人の女の子だった。ポニーテールに束ねた長い髪の毛がさらりと揺れた。ズバリ学級委員長の河合さんだ。
「今週の課題を持ってきました」
「……いつも、ごめん。ありがとう」
「全然いいよ。気にしないで」
会話はそこでストップする。まあ毎回のことだ。河合さんは「じゃあ」と言って踵を返す。まあ大した話もできないし、早く帰っていただけるとこちらとしてもありがたい。相変わらず早朝の旧美術室は澄んだ空気に満ちていた。今日も、当たり前の日常が始まりそうだ。あいつと出会う前のいつもの日常。
「あ。あのさ奥野くん」
「どうかした?」
「……何でまだ帰らないんだみたいな顔しないでよ。あのね、ここに海の油絵置いてなかったかな」
「あ、ああ。隅に立てかけてあったと思うよ」
俺は後ろに振り返り、目先3メートルにあるその絵を指さした。
「ほらあれ。……あれ?」
「何。どうかしたの?」
河合さんは油絵まで歩み寄った。つられて俺もふらふらとそこに行く。
まるで吸い込まれるようだ。
その絵には、以前と少し違うところがあった。満ち満ちた広い海の隅にある岩陰。そこに、前にはなかった小さな小さな影が描き込まれている。
瑠璃色の人魚がそっとこちらを伺っていた。
「この人魚」
「これ描くの苦労したんだー。結構小さいからね。自分でもお気に入りの絵」
「……これ、河合さんが描いた絵?」
「そうだよ。県のコンクールに出すことになったんだ」
元いた場所に帰らなくてはならなくなりました。帰らないと、私を生んでくれた人に迷惑をかけることになりそうなんです。あいつの言葉がこだます。あいつはここに帰ってきていたのか。俺は言葉につまりそうになるのを、やっとのことでこらえながら言った。
「……すごくきれいだと思う」
「え、そうかな」
さくらんぼみたいな赤いくちびるがわずかに動く。
「それすごく嬉しいかも。あんまり人に絵を見せる機会なかったから」
「あー。そういや1年の部員1人だけって聞いたことあるな」
「そうなんだよ! 先輩に1人で話しかけに行くのって勇気いるし」
「その気持ちは何となく分かる」
「だからこうやって話せるのはすごく新鮮だなー。あとね、さっきから気になってるんだけど」
河合さんは言葉を切って、油絵の隣にあるうすい色彩の絵を指さした。雪のように白い指だ。
「これ、奥野くんが描いたの?」
「えっと……まあ」
それは、水中の朝顔の中で笑う人魚の絵だった。
「すごくいいね。奥野くん、朝顔が大好きなんだね」
俺は真顔になった後、ははっと笑ってしまった。あいつと同じこと言いやがる。
「え、何? 私変なこと言ったかな」
「いや……」
開けた窓から涼しげな風が吹いてくる。その外には今でも、あの青い景色が広がっているはずだ。俺は目を細めふと口を開いた。
「……河合さん。今度、油絵の描き方教えてくれない?」
「え、いいけど」
「油絵だけは独学で描ける気がしなくて」
河合さんはぽかんとした表情のままで生返事をした。急な申し出に驚いたようだ。けれど、その後すぐににやりと笑った。
「じゃ、早く先生に入部届もらいに行かなくちゃ」
河合さんはぴょんと跳ねて、俺の手をとった。
「あ、いや、入部するとは」
「でも描くんでしょ?油絵」
「それはそうなんだけど」
「さぁ奥野くん、善は急げだ!今すぐ行こう」
声は全く届いていないようで、河合さんは俺の手をぐんと引っ張った。ふといつかのあいつを思い出した。大丈夫ですよ、いつかきっと他の人と話したり触れたりできる日が来ます。
俺はぼそりと小さく呟いた。
「……こういう時何言っても聞かないんだよなあ」
「え、何? ごめん聞こえないよ」
もう一回言ってよ、と言う河合さんに対し俺は曖昧に笑った。抗うことはやめよう。白い指がガラリとドアを開ける。
「河合さん」
「ん? 何?」
先を駆けて行く柔らかいポニーテールの頭に、言葉を投げかけていく。
「俺、実は河合さんの描いた人魚のことが好きだった」
「え?」
「だから毎日学校に行くのが本当に楽しかった」
「……何それ」
「ずっとずっと好きだったんだ」
「……何それ。気持ち悪」
河合さんは吹き出した。一緒に俺も笑う。
「だよな」
廊下に、パタパタと2人の走る足音が響き渡る。俺は窓越しに咲き誇る朝顔を見た。朝焼けがやけに眩しい夏の日のことだ。
朝顔を君に 七野青葉 @nananoaoba
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