ネゴさん

甲斐ミサキ

ネゴさん

 大阪の総合病院に勤めている看護師さんからうかがった話。

 Iさんは三階の入院病棟で勤務している。

 病棟看護師となってから年数は短いものの、持ち前の明るさと機敏な対応力で患者たちから頼りにされている。

 チャーミングであるからか、特に

 三階は主に内科的な問題で手術を受けた患者の仮住まいで、七転八倒、無類ぶらいな苦しみに耐え忍んでいるからか、いらいらと殺気立っている人が少なくない。


 Hという身寄りのない男性患者がいた。

 年齢のわりに、何度も開腹手術を受けている。

 胃潰瘍に始まり、肺水腫、膵臓炎、腎臓結石、大腸のポリープ……。

 両手の指では足りないほどの病気の数だ。

 決まって、手術後十日目が危ない。

 症状が快復し、創治癒しているのに、退院前の検査をおこなうと、別のところに問題が見つかる。

 白血球増多であるとか、癒着性イレウスを発症するであるとか。

 それで入院期間がずるずる延びる。

「十日目のH」と病棟看護師たちは呼んでいた。

 もはやおなじみさんである。

 そのHさんがことあるごとに、いや、

 ことはなくともナースコールを押す。


 曰く、

 傷口しみるからガーゼ交換してくれ

 氷枕柔らかめで頼むわ

 背中がぷちぷちしよる

 しょんべんちびった

 またおかいさんか

 イチゴは厭や。経腸栄養剤エンシュアはコーヒー味しか飲まん

 点滴落ちてるか見てや

 眠り薬あらへんと寝られへんやんけ

 デイルームで一服しよや

 暇やから漫画の続き読みたいねん

 PL花火しとるやろ、観にいこ

 ロキソニン早よして

 シャワーまだ入られへんの

 テレビカードきれた

 千秋楽見逃したらあかん

 いっそ殺さんかい

 ナースコール鳴ってへんのとちゃうか?

 聞こえてんのかーっ


 術後とは思えない大声で呼びつける。

「詰め所まで聞こえてるで」

 IさんがいるときはIさんが応対に出る。

 痛さに我慢していることを誉め、熱が下がったねと褒め、なにかあるとすぐに呼んでくれると誉め、肌のつやを誉め、ひいきの関取が勝っては誉める。

 ニコニコと笑みを絶やさず話を聞き、処置を施す。

 時には理不尽にも感じる要求にも応えた。

 痛いときに独りやったら心細いですもん。

 とはいえ、隠し持っているショートピースたばこを見つけたり、歩かれへんと弱音を吐けばこっぴどく叱りつけた。

「Hさんのために言うねん。病気憎しや」

「どこに可愛げがあんねん。鬼やろ」

 悪態をつきながらもIさんは聞き入れた。

 いつからか、

 Iさん以外の看護師が駆けつけるとあからさまに機嫌が悪くなる。

 怒りを緩和する腕前の見事さから、

「ネゴシエーターのネゴ」とあだ名がついた。


 「十日目のHジンクス」も年貢の納め時、とでも言おうか。

 ついにHさんが所払いした。


 Iさんが夜勤でナースステーションに詰めているとPHSが鳴った。

 ナースコールが押されると、該当する病床の番号が表示される。

 3134。

 313号室の4番。

 Hさんが永らく仮住まいしていた病床だ。

「はーい、どうされましたー」

 と返事してからハッとした。

 Hさんが所払いしてからナースコールは取り外している。

 まだ新しい患者さんは入ってない。


 すぐに夜勤看護師たちの噂になった。

 三階病棟を夜回りしているとHさんを見かける、というのだ。

 陽炎が立つようにぼんやりと透けている以外は、夜眠れずに点滴をぶら下げたまま足を引きずって歩いているHさんそのものだ。

 あの特徴的な襟足の長さは間違いない、口を揃えてみんな言う。

 ナースコールに出たら「Iさんどこにおる」と声がする。


 ほどなくして、IさんのPHSに限ってコールが鳴るように。

 うろうろしている姿は患者たちにも目撃されるようになった。

 不穏が病棟に拡がっている。

 気持ち悪がる患者たちを見間違い、気のせいと切り捨てるわけにはいかない。

 どうにかせねば。


 ある晩、

 またコールが鳴る。

「ええかげんにしぃ! 患者さんやから大切に思うんや。あんたの彼女とはちゃうんやでっ!」

 Iさんは叱りつけた。さすがに腹に据えかねたのだ。

 それからはコールが鳴ってもとことん無視し続けた。

「甘やかしたらあかん」


 無言のコールが続いた十日目。

 応答が切れる際、ぽつり「堪忍や」と蚊が鳴くほどの小ささで聞こえた。

 その夜以降、Hさんの不穏な噂はなくなったそうだ。


 Iさんの優しさに惚れて迷いではったんやね、と言うと、

「腫れたはええけど、惚れたは自分勝手すぎるわ。あたし彼氏おんねんで」

 それに、と続けた。

 Hさん生きてるよ。リハビリ通院してはるもん。

 亡くなれば仏さんやろ。生き霊のほうがタチ悪いわ。



読了、ありがとうございます。こちらもご賞味ください。

セルフパロディとしてのゴリラ文学

「一等級知覚類人猿士」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054881029941/episodes/1177354054884969622

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ネゴさん 甲斐ミサキ @kaimisaki

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