第壱拾陸話:一等級知覚類人猿士

 霧生ヶ谷総合動物保護センターに勤めている類人猿看護師からうかがった話。


 Iさんは三階の入院病棟で勤務している。


 類人猿看護師となってから年数は短いものの、持ち前の明るさと機敏な対応力ゴリリングで患猿たちから頼りにされている。


 チャーミングであるからか、特にゴリラに


 三階は主に内科的な問題で手術を受けた類人猿の仮住まいで、七転八倒、無類ぶらいな苦しみに耐え忍んでいるからか、いらいらと殺気立っている猿が少なくない。




 Yさんという身寄りのない雄のゴリラ患猿がいた。

 ネパールのシヴァプリ山山麓、ブダニールカンタ寺院で行き倒れているのを現地のシェルパが発見した。瞑想するナラヤンヴィシュヌ神への礼儀として、池に入る際には皮革製品をすべて外し、右回りに歩かねばならない。原初の海に、どこか超然たる汚穢な毛深い妖貌を埋めるように倒れて伏していた彼を白い毛皮を羽織った不届きもの礼儀知らずと思い込み、怒髪冠を衝き、激高しながら周りにいた仲間たちの力を借りながら、思いつく限りのネパール語、マイティリ語、ボージュプリー語、タルー語、 タマン語、ネワール語、マガール語、アワディー語そして片言の英語で痛罵しつつ引き起こしてみれば、なんと。


 イギリスの外交官でネパール駐在公使Residentをつとめたブライアン・ホートン・ホジソンの部下が1832年ヒマラヤ山脈で目撃したもの。

 1887年、イギリス軍のウォーデル大佐がヒマラヤで発見した巨大な足跡。

 1996年、通称「スノーウォーカービデオ」と呼ばれる動画に映った雪上を歩く二足歩行の生物。

 岩の動物Yah-Teh

 

 シルバーバックと呼ばれる鞍状に白い背中の体毛から推定年齢は最低でも十三歳以上であろう、老大猩猩。

 すぐさま話し合いが行われた。

 アルビノゴリラの誕生で有名なバルセロナ動物園、動物作家ジェラルド・ダレルによって貴族の荘園につくられたダレル野生動物保護センター。ミシガン湖畔のリンカーン・パーク動物園。有名を馳せる数多の手が挙がった。


 言及して已まない。と。


 真霧間科学研究所からの手配により、ネパールから、類人猿設備の整ったゴリーランルール霧生ヶ谷総合動物保護センターへ速やかに担ぎ込まれたというのは。

 年齢のわりに、何度も開腹手術を受けている。

 胃潰瘍に始まり、肺水腫、膵臓炎、腎臓結石、大腸のポリープ……。

 両手の指では足りないほどの病気の数だ。

 決まって、手術後十日目が危ない。

 症状が快復し、創治癒しているのに、退院前の検査をおこなうと、別のところに問題が見つかる。

 白血球増多であるとか、癒着性イレウスを発症するであるとか。

 それで入院期間がずるずる延びる。


「十日目のY」と類人猿看護師たちは呼んでいた。


 もはやおなじみ猿である。


 そのゴリラがことあるごとに、いや、


 ことはなくともドラミングナースコールする。

 ぽっこんぽっこんと仁王像のようにすっくと二足で立ち上がり、やおらめいた両掌で冒涜的な調子で忌まわしい絡まった針金のごとき胸毛を叩き始めるのだ。


 怒轟怒轟怒轟怒轟怒轟怒轟怒轟怒轟どごどごどごどごどごどごどごどご

 怒轟怒轟怒轟怒轟怒轟怒轟怒轟怒轟どごどごどごどごどごどごどごどご



 曰く、


 傷口しみるからガーゼ交換してくれウッキャキャウーホホオ


 氷枕柔らかめで頼むわウーホウホキャ


 背中がぷちぷちしよるのだホォキャキャキ


 しょんべんちびったウホーゥ……


 またお粥かいさんかウッキャキャッ?


 イチゴは厭ギャホなものだ。経腸栄養剤はバナナ味しか好まんギャホホホバナーナッキャ


 バナナ届いてるか見てたまうバナーヌナホホー


 バナナないと寝られぬではないかバナナバナナウキャーキャー


 デイルームでバナナしようぞウホッバナヌ


 暇だからバナナ喰いたいのじゃバナナ……


 PL花火しとるじゃろ、観にいこまいキャーキャキャウホホホ


 バナナ早よせいバナナ!


 バナナ風呂所望しておるぞまだかアイアイバナナン


 バナナカード切れようとはバナナ……


 千秋楽見逃すものに災いあれかしホホウホホウホホウ


 糞投げてほしいか、良かろうゴリティカル


 ドラミング届いてないかと愚考するドゴドゴドゴドゴ


 聞こえておるか、我の魔叫怒りのドラミング




 術後とは思えない、病棟全体ゴリラレンジを伝播し揺るがすドラミングで呼びつける。

 並みのゴリラであれば、心臓への負担で力尽きていても奇怪しくない。

 あるいはのかもしれない。

 ドラミングをしている時、相手も深淵からドラミングし返しているのだと。

 YさんYah-Tehについて、牡牛座のアルデバラン星を狂信的に見つめる時、遠く故郷を思っているのよ、と考察していた真霧間キリコ科学者の話を思い出す。たしかに、そんな夜は宙が騒がしい。

 例えば、ドラミングのごとき明滅する色彩の狂った雷鳴。


「詰め所まで聞こえてるよ」


 IさんがいるときはIさんが応対に出る。


 痛さに我慢していることを誉め、熱が下がったねと褒め、なにかあるとすぐに呼んでくれると誉め、毛並みのつやを誉め、ひいきの横綱ゴリラが勝っては誉める。


 ニコニコと笑みを絶やさず話を聞き、処置バナナを施す。


 ロールオアゴリラなど時には理不尽にも感じる要求にも応えたダイスを振るかゴリラを選ぶか


 痛いときに独りやったら心細いですもん。


 とはいえ、樹冠の寝床に隠し持っているレディ・フィンガーモンキーバナナを見つけたり、前肢を握り拳の状態にして地面を突く四足歩行ナックルウォーキングができないと弱音を吐けばこっぴどく叱りつけた。


「Yさんのために言うんだもん。病気憎しや」


どこに可愛げがあるというのか。人間めキーッキーッキャハ!


 悪態をつきながらもYさんは聞き入れた。


 いつからか、


 Iさん以外の類人猿看護師が駆けつけるとあからさまに機嫌が悪くなる。


 怒りを緩和する腕前の見事さから、


一等級知覚類人猿士いっとうきゅうちかくごりらしのイチゴ」とあだ名がついた。



 「十日目のYジンクス」も年貢の納め時、とでも言おうか。

 ついにYさんYah-Teh退所した。



 イチゴさんが夜勤でナースステーションに詰めているとPHSが鳴った。


 ナースコールが押されると、該当する病床の番号が表示される。


 3135。


 313号室の5番床神秘な数字


 YさんYah-Tehが永らく仮住まいしていた病床だ。

 樹冠は奇麗にトリミングされ糞尿が片づけられたばかり。

 真新しいソヨゴとアラカシの若枝が手折りやすい位置に植樹されている。


「はーい、どうされましたー」


 と返事してからハッとした。


 YさんYah-Tehが所払いしてからナースコールは取り外している。


 まだ新しい患猿は入ってない。




 すぐに夜勤類人猿看護師たちの噂になった。


 三階病棟を夜回りしているとYさんYah-Tehを見かける、というのだ。


 陽炎が立つようにぼんやりと透けている以外は、夜眠れずに点滴をぶら下げたまま前肢を握り拳の状態にして地面を引きずりナックルウォーキング這っているYさんYah-Tehそのものだ。


 あの特徴的なシルバーバックは間違いない、口を揃えてみんな言う。


 ナースコールに出たら天をも衝くドラミングがする。


 ほどなくして、イチゴさんのPHSに限ってコールが鳴るように。


 うろうろしている老ゴリラは患猿たちにも目撃されるようになった。


 不穏が類人猿病棟に拡がっている。


 気持ち悪がる患猿たちを見間違い、気のせいと切り捨てるわけにはいかない。


 どうにかせねば。




 ある晩、


 またコールが鳴る。


「ええかげんにしぃ! 患猿さんやから大切に思うんや。発情期にお尻まくってみだらに性皮を腫らすような雌のチンパンジーとはちゃうんやでっ!」


 イチゴさんは叱りつけた。さすがに腹に据えかねたのだ。


 それからはドラミングが聞こえてもとことん無視し続けた。


「甘やかしたらだめなのだ」




 無言のドラミングブルースが続いた十日目。


 応答が切れる際、ぽつり「堪忍やウホウ」と蚊が鳴くほどの小ささで聞こえた。


 その夜以降、YさんYah-Tehの不穏な噂はなくなったそうだ。




 イチゴさんの優しさに惚れて迷いでたんでしょうか、と言うと、


「腫れたはええけど、惚れたは自分勝手すぎるわ。あたし彼氏おんねんで」


 それに、と続けた。


 YさんYah-Teh生きてるよ、真霧間科学研究所に出向してはるもん。


 なにされてるんかな、になってなきゃいいけど。




セルフパロディ元

「ネゴさん」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054883751216

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