第壱拾伍話:デーモンの憂鬱

 我輩は惡魔である。

 識別子肉の口はあるものの、真名を触知された魔羅マーラが待つ運命は永劫の覚醒よりも汚辱なる窮極の平のみ。なので我輩は我輩と呼称するものなり。

 旧旧しきアッカドで胎盤を纏うものハシュタルテアサの花冠ハシシュ、蝗害の具神、と崇め奉られておられる音階の淫らなる風と熱風穀物喰らい魔王パズズの一騎士を勤めていた。誇り高き軍団長にして、塵芥わがいのちの燃え盛るを存分に発揮し燃焼させられるを下賜たまはす慈悲深き御方おんかた、それが我が主だ。

 とある蒐場いくさのおり、我輩は不覚にも相、対する(莫迦め、寵愛の可否などとぬかすわ)軍団の奇襲さかしきを受け、無様な石像に身をやつされ乳滓ちちおりめいたティグリス河の泥深みに沈められてしまった。味方やつがれの屍を踏み越えてげらげらと哄笑している我が主。本望であった。

 いくとせ、天業を既倒に挽回するを知りやらぬときをへて

 かつて峡谷の底ごときたりし我が体表で垢じみたフジツボが浅ましく蔓状の蔓脚を、あるいは鞭状の長い凌辱器官をうねらせている。耳目においては河を遡行してきた錆銀に潜めく深海秋刀魚ディプシーラの幼魚が腫れたる眼球を振り乱し魔宴に興じるねぐらとしていた。結晶質石灰岩や磁性を帯びた鉄、山銅やまがねやらの集積体にしか過ぎない身上、いっかな痛痒を感じることすらなかったが、いささか不愉快である。我輩は殻を脱ぎ捨てた。

 殻を脱ぎさったといっても石化の呪いから解放されるわけではない。表面を研磨した程度のものだ。それでもずいぶんすっきりする。こうして身体の自由は不便なりしも海洋循環に乗って気ままな旅をした。満月の日フォルモーント体内の潮汐バイオタイドが命じるままに珊瑚が解き放つ白い法悦サマースノー。鉤爪で抉りだされた眼球が病んだ視神経を腐った縄のように潤びらせ、圧壊させつつも大王イカ仇敵を強靭な顎で磨り潰すマッコウクジラsperm whaleのいさおしよ。狂気たる海底火山脈から吹き出る硫化水素に引き起こされた突き上げる海流。さまざまなものを見聞した。なかでもミクロネシアのカロリン諸島の海底で見たものは壮大なものであった。幾本もの、繋ぎ目のない巨岩から切り出された列柱廊。その上には数百体を下らぬ貌を剥がれた神殿娼婦の裸像が淫らに鰭状の手足を絡みつかせていた。あるいは女そのものを彫像に奇態させ、柱に見立てて組み上げたのかもしれぬ。冒涜的なバビロニアの神殿をそのままに沈降せしめたと言っても信じられようものだ。そこでは古代ペリシテ人が深海の司教ダゴンと崇める半魚半人のものどもが神殿の前にかしずいていた。大いなるものCthulhuが永劫なる眠りについておられるのだと、親切にも彼らは教えてくれた。夢見のうちに待ちいたろうwgah'nagl fhtagnと鰓から零れるあぶくが蠱惑に囁いたが、腰掛の浪人暮らしは性に合わぬ。それよりもとより、我が主は御一人。

 そうしてまた、いくとせ。

 風の頼りに聞いた。とある都市があらゆる不可識を引き寄せていると。

 そうして、海流に乗り、その都市にまんまと侵入果たせり。実存するために肉を削り、最低限の様相で我輩はそのときを待った。

 口寄せ、引き寄せられたその魔地まちは水路が無数に走っており、しかも流れもある。我輩は翻弄されつつも意識の紐をつなぎ止めた。宿主かもさえ見つければ、甘言を弄せば人間の欲望を丸齧り、幾らでもことが可能なのだから。


 

 その者は白衣の上から胴長靴を装着して水路を闊歩していた。鼻歌なんぞに痴れながら手元の羅針盤らしきものを一心に見つめ、そして我輩を見つけ、無造作に鷲掴んだ。むんずとばかりに。

「この陰霊子のゆがみは君だな」

 

 

 外科的な処置とばかりに魔術の剣が刺さっている。磨かれた銀に刻まれた印形シジルに。

 霊液にぶちこまれ呆けた魔眼を恨めしそうに向ける偉大なる垣根の蛇ダンバラ=ウェドであったもの。

 甲殻類の鋏のように固くこわばった指と、ぶよぶよとした護謨状にだらしなく萎びた指の間で脂蝋燭が炎をともしている。かつて華奢に乾涸ひからびた手首。栄光の手か。

 漣玻璃レンのガラスが視界に這入ったが気狂いの前兆かもしれぬ。莫迦な!?

 きにいらん。

 まさか、やつばらのであるまい……。

 ああはならんぞ。

 アブレシブジェット加工における水流の無次元量マッハは3を優に超えていたであろう。364万気圧、5,500度という、レーザー加熱ダイヤモンドアンビル装置を用いた地球の中心に相当する超高圧・超高温の苛み。シンチレーション式サーベイメータ。時系列データを基にしたスペクトル解析。 高密度マルチキャリヤ変調方式の「M」アルゴリズムによる摂動ベクトル探索。レントゲン検査,核磁気共鳴画像法MRI。数多の溶剤。ハンマー。

 正気じゃない。この白衣の女はのほほんと楚々な外見だが、中身は外道にも劣る性質の悪い小娘だ。

 「霧の竜殺し」なんて酒をおちょこでちびりちびり飲みながらを摘まみつつ、我輩の身をいとも容易くしようとする。「うう、マッドサイエンティストの血が騒ぐわ」なんて言っている。そんな血など覚醒して欲しいものか。

教えてちょーだい」

 娘の目が据わっている。だからどうした!? 主の邪視は尖っておったわ。

 くたばるがいい。尻に殻付けた嘴の黄色い糞餓鬼が!

「ふーん」


 駕魂がごん

 

 阿呆が。ぶよほど痛痒だにせん。

 駕魂がごん!  駕魂がごん

 

 忌まわしい小童めが。

 駕魂がごん!  駕魂がごん!  駕魂がごん


 彼奴彼奴きゃっきゃつと鳴く哀れな猿よ。

 駕魂がごん!  駕魂がごん!  駕魂がごん

 駕魂がごん!  駕魂がごん!  駕魂がごん


 ……

 がっ

 


 アイソレータ内部に延びるグローブに握られたトラペゾヘドロンハンマーを振り下ろす、容赦ない爆撃めいた重厚なる打突の衝撃が実験室内を伝播した。

 処せるものか、物理的な死など外国とつくにに置いてきたわ。

「好きに呼べばよかろう」

 小娘、どうにも手馴れすぎておる。

 真霧間科学研究所。

 バイオセーフティーレベルBSL-4実験室、陰陽圧アイソレータ内部。

 世界保健機関WHOが制定した Laboratory biosafety manualに基づくリスクグループの最高位。日本では国立感染症研究所と理化学研究所筑波研究所のほかはここしかない。

 吾輩は縦横に線が奔り抽象化したラッパの意匠の上、二重丸の内円に置かれていた。外円と内円の間にはRONOVE言語の惡魔の文字。


 R 

E  O 

V  N

 O 


 紋章に呪縛され人語を話せるのが三秒で露呈した。

 処してやるぞっ! 愚物がァ!!

 ロノヴェの天頂に災いあれかし!!

 

「あたしは、ヒエロニムスのおむつを交換したことだってあるし、バビロンでとんまな脱出作戦で一柱の惡魔が犠牲になったことも知っている」

 獄吏ゴクリ。よもやこの娘取引しようとぬかすか。

「うっそ」きゃらきゃら哂っている。

 赦しを乞わねば。

 一瞬でも我が主魔王の気配を小娘に重ねたる己が愚を恥じた。

 目の前の酒瓶が空になっている。せつなに干したのだ。

 酒瓶の山の隣に、空虚なる残滓横たわりしを。かつて酒に満ちたもの 

「この町は特別な作りでね。時折あんたみたいなのがくる」東坡肉トンポーロウの脂で艶めいた漆塗りの塗り箸が正眼で我輩を狙う。「あらゆる不可識を一手に引き受けちゃってるから仕方ないとはいえ、異分子を放置することは隠陽のバランスを崩しかねない」

「我輩はまだ死ぬわけにはいかん」

「地獄の宰相の真名でも教えてくれるの?」無理難題だ。それを分かって玩弄しおるわ。性質たちが悪すぎる。惡魔顔負けだ。唾棄すべきは哄笑よ。

 いや、まさか、

 

殺すわけないもったいない。研究に付き合ってくれるだけでいいの」

覇吐はっ! 窮極を識るだと、我が身を。抉りろうてやるぞ、貴様」

 

 瓦駕魂ががごん!  瓦駕魂ががごん!  瓦駕魂ががごん! 瓦駕魂ががごん!  瓦駕魂ががごん!  瓦駕魂ががごん

 瓦駕魂ががごん!  瓦駕魂ががごん!  瓦駕魂ががごん! 瓦駕魂ががごん!  瓦駕魂ががごん!  瓦駕魂ががごん

 

 壞壞已ええい

 何度も何度も、何度も何度も、何度も何度も、何度も何度も!!

 高密に吾輩を圧搾しながら食む食むと咀嚼。小娘の喉のうわばりが上下し嚥下される。いったいなんの肉だ?

 三日月に紅唇の双端を吊り上げ、トラペゾヘドロンハンマー災いの具現を振り上げる。

「どーんとあたしに任せなさいって」

 新しい酒瓶黄金の蜂蜜酒をラッパ飲みしておる。ああ汝、信たるや!イア! ハストゥール。 


 

「ふむふむ。これが、異常陰霊子γの成れの果てですか」

 青年の目の前に小さなフィギュアがある。卵状の透明な強殻の中にソレが膝を抱えて入っている。凍りついたままだ。心底情けなさそうな痴呆然とした表情で。

 娘は青年が土産にと持ち寄った銘酒「河童の溺れ水」を早速手酌でやっている。

「陰霊子と陽霊子、同じ波長のものをぶつけると対衝突で大爆発する可能性があってね。そこで、波長の相反する霊子をDHMO、ジハイドロジェン・モノオキサイドをいじってカプセルを作ったのだ」

「それに紐を通してストラップにしたんですか。なんとゆーか」

「エレガントに根付と言って欲しいところね」

「そもそもこういう事項は霧生ヶ谷史編纂室九識の役目なんじゃないですか」

「おねーさんはアフターファイブの水路歩きが趣味なのよ、新人君」

「アラトです!」

「今夜、おねーさんの生体研究材料に成るなら、ソレあげるけど?」

「結構です!」甘言に身を任せて不幸な目にあった人物をトロ箱で量り売りするほど知っている身としてはごめん被りたいとこである。始末書が増えるな、名取はため息をついた。


 

 我輩の力はこれまでだ。酔いつぶれた娘の腕を支配して自動書記している。もうこれよりの歩みを進めることができない。卑小なるものチョー=チョーよ、願わくば呪われたこの地に近づくことなかれ。安易なる興味は己を滅ぼすのみ。もし力あり心あるものよ、星辰を揺り動かし、大地より炎の飛沫を上げさせ、大海嘯を呼ぶものよ。地獄の最下層より滅びの火を放てるものよ。願わくば滅ぼしたまえwgah'nagl fhtagn

 この魔地の名前はKIRYUGAYA。霧生ヶ谷……。


 

「中々文才あるわよね」

「起きてたんですか、この時」

「もちろん、「付喪神百年午睡」級の酒でもないと酔わない体質だから。あっはっは」

「じゃあなぜこんなこと」

「悪質なウィルスコードは除去したし、一見只の手記。今時の都市伝説はインターネットを通じて広がるって言うけど、こいつの模倣子ミームを残してやりたかったのかな」

「もし、本当に力あるものCthulhuがきたらどうします?」

「世は並べて平々凡々なり。研究材料になるなら金星蟹とだって会話するわよ」

 その会話を聞いた惡魔がカナダライで頭を殴られたかのように撃沈したかどうかは定かではない。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る