邁進、真霧間キリコはマッドサイエンティストである。(ままま)

第壱拾四話:ヨグ=ソトホート憑き

 警察通報用電話110番制度は、1948年にGHQからの申し入れにより、国家地方警察と逓信省が協議して、同年10月1日より始まった。

 通報すると、通報地点を管轄する警察本部の通信指令室、霧生ヶ谷でいえば、中央区を南北に貫く路面電車のルート1と東西へ横断するルート2が交わる要衝に位置する霧生ヶ谷総合庁舎内の「通信指令センター」に繋がる。

 ……のであるが、しばしばその内容が転送される事例があるということを僕は知っている。

 生活安全課九識も駆り出されはするのだが、僕たちは事例の顛末を記録するためにお声がかかるのであってあくまで付録。

 じゃあ何処に転送されるのかって?

 答えは霧生ヶ谷市民局内、保健管理室。

 これもまだ建前だ。

 体裁を取り繕わずに正確を期すならば、室長である真霧間キリコ女史にでもない。

 東区瑠璃家町の丘に颯爽とそびえ立つ、明治建築の名残を残した洋館。真霧間科学研究所、通称M研。

 かつて『完全に曇った漣玻璃レンのガラス』を収容依頼したであり、また、「ジーン汚染災害」が発生した際、全市民70万人に対するジーン抹殺ワクチンの接種を実施した研究所の三代目ドクトル・マギ。

 代々の稼業がである真霧間キリコ女史に届くのだ。

 

 春分を過ぎた花冷えのおり、

「虫出しの雷」と呼びならわされる、どこかしら得体のしれない不安と圧迫感を伴なった灰色の雹を引き連れた雷鳴が梅の花びらを散華させていた夜。

 這入ずっては冷気を吸収したガラス窓にぺたんと顔を押し当て、きゃらきゃらとかん高い声を上げながら頬を赤く腫らしていた乳飲み子が急にげきとした。

 今でも、穏やかな丸い瞳を錆色の釘のようにその時ばかりは細く尖らせていたと母親は言及していて譲らない。

 奇態はすぐ始まった。

 乳飲み子特有の突きたての餅のようにふくふくとした生白い皮膚に赤い発疹が粟立ち、じゅくじゅくと水気を含んだ疱瘡に変わったかと思うと瞬く間に全身をくまなく、あたかも歳月をけみしたる沈没船の船底にみっしりと群棲したフジツボのごとく覆いつくしてしまった。

 赤い半島では生物兵器として所持の疑惑が取りざたされてはいるものの、天然痘は根絶されたものとして、日本では1976年に天然痘ワクチンが中止されている。

 これは大事と灰色の雹が降りしきる中、母親が救急車を呼び、身の回りの準備をするために目を離した数舜(3分と目を離してないという)後、

 気づけば我が子の姿がない。

 2重に施錠されたガラス窓の向こう側に続く、這入ずった痕跡が不快気な蒸気を立ち昇らせている。結露した窓には健全な丸い頬の形、抜け殻になった、いとわしい浸出液に塗れた花柄のカバーオールと紙おむつが残されていた。

 理解が追いつかない。

 半狂乱をなだめつつも事情の把握に努めたがが明かず、救急隊員の手により乳飲み子の失踪事案として110番され、受理台からの聴取を指令台が把握したのち現場にしこたまパトカーを送り込んだが「事案」性質を指令台が真霧間キリコにコールした。

「生後7か月の乳飲み子が全身に疱瘡を発したのち、だけを残して罅一つないガラス窓の向こうに失踪した」

 と。

 浸出液の付着したカバーオールと採取された土壌は気密パックに封入され、ただちにM研に手配された。帰宅したキリコは生化学自動分析装置Automatic biochemical analyzerに採取したサンプルを放り込むとさっそく白衣正装に袖を通した。ふすふすと鼻息荒く、見る人からすれば狂気ルナティックともとれる満月のごとき笑みを浮かべながら。


 二日後、鬼魅きみの悪い怪物が散歩者を襲っていると110番され、結果この通報により事件は解決する。

 うららかな陽射しが灰色の雹の痕跡を打ち消し、のびをするかに影が舞う中でことは起きた。

 瑠璃家町を散歩中のロットワイラー、防衛能力が高く「屠殺人の犬メッツァフンド」とも畏怖されるその二歳犬の前に飛びつき牙を突きたてたのだ。正確には主人を守ろうと身を挺したロッティーの尻に剣呑なトラバサミのごとき鋸歯でかじりついていた。

 非番だった僕とキリコさんは捜査網が絞られた中を追尾しており、現場は目鼻の先で、駆け付けた時、怪物はまだ尻に齧りついたままだった。

 体高60センチ、50キロを超える体重のロッティーが身をくねらせ哀れな苦鳴を幽鬼が息を吐くようにひんひんと上げている。

 奇態した時はフジツボのごとき疱瘡が全身を覆っていたと聞いたが、今ではちぐはぐな赤と黄の斑模様に鱗状の痂皮かひの肉塊に成れ果てていた。歪んだ目蓋からちらりと露出している瞳は膿んだおりがこびりつき濁っている。

 怪物がどうとかより、正直なところ、屠殺人の犬メッツァフンドに近づくことに恐怖を覚えていた僕だったが、ラテックスゴム手袋を装着したキリコさんはふむふむとかくひひひとかやっぱりとか何やら得心した様子ですたすたと近づき、

 やにはに、手にした注射筒シリンジを突き刺した。


 號亜亜亜ごあああ!!


 明らかに乳飲み子が叫ぶのとは異質の、大気を震わせ人間の可聴域を超えてなお伝播する名状しがたい色彩を帯びた聲が僕の全身を打ちのめす。


 その効果たるや、

 すぐさま肉塊を覆う鱗が逆立ち、ぺりぺりと剥離始めた。がこんと顎が開くと剥き出しになった歯茎から南洋のサメのごとき小さく尖った牙が抜け落ちてロットワイラーを束縛から解き放った。尾を股の間に挟み込んで安堵するロッティー。

 くしゃくしゃの幼顔には滂沱な涙が溢れて膿を洗い流している。鳩尾の辺りが大きく脈動し、喉元がせりあがってきたかと思うと、明らかに乳飲み子の内臓には収まりきらぬ、量としては多すぎる吐瀉物がごぽっとアスファルトに噴出し、けっして小さくはない泥溜まりを生んだ。噴出したのちも吐瀉物が痙攣するかに蠕動している。シタムシケファロバエナに似ているが、頭胸部の先端にある口後方の左右に10対以上の鉤状突起が肢のように蠢いている。やや扁平な体節は100を下らないだろう。

「アラト君、フォーセップス鉗子! そんで瓶!」

 僕が背負っていた30リットルのリュックには果実酒を漬ける瓶が丸々収納されていて、キリコさんに大型の鉗子を渡すと同時に背を返し、開いたリュックを向ける。

 間、髪を置かずにずしりとした重みが肩に乗り、名状しがたい厭な蠕動運動が伝わってきて僕はきつく歯を食いしばった。断続的にどさどさと何某なにがしかが放り込まれ、おそらくはアスファルトに落ちた残滓を集めているのだろう……。

……。

「終わりよ」

 キリコさんの白衣の胸には裸の赤ん坊が抱かれている。

 生後7か月の馥郁とした滲みのない赤ん坊が泣いている。無垢で清らかな涙だ。

「いわゆる疳の虫。界隈では夜虞祖憑きとして知られる。アメリカで有名なダンウィッチにまつわるウェイトリー家が交接した邪神ヨグ=ソトホートと関連があるかは微妙なところね」

 ヨグ=ソトホート。

 一説にはUFO出現はこの神の顕現であるという。戸口に潜むもの、球が出会う場所の門の鍵、<一にして全>、<全にして一>、並行する時空連続体、古代アステカ族が崇拝し、トシュカトルの月に心臓を捧げた神。

「注射したのは、足元に鷲氈オルレツと呼ばれる、鷲が翼を広げて教会を中心とする街の上空を飛んでいる図柄が織られている円形の絨毯を敷き、宝冠ミトラをかぶった主教品により聖別を受けた、戸倉の極み塩塩化ナトリウムをアルカリ化剤として、カリウムやカルシウムそして科学の秘蹟サクラメントを施したキ印特製イエローサインリンゲル液」

 キ印とは言い得て妙だと思ったが口には出さない僕だ。

「この子は一晩預かることにする。検査したいもん」

 に口を挟まないのが僕だ。

「果実酒の瓶を持ってきたのは容量的なアレですか?」

 キリコさんが心底嬉しそうに口角をにまあああと上げる。

「pangolinが思い浮かんだの、夜虞祖と聞いて」

 パァンガァリィン。有鱗目、センザンコウ科の穿山甲?

 体毛が変化したマツボックリ状の角質の鱗に覆われてる南米のアルマジロに似た?

 中国じゃ肉は食用に鱗は魔除けや漢方薬や媚薬の材料として珍重され絶滅の危機に瀕しているあの?

 ひらひらとしなやかな五指を筒状に丸めて喉元に煽りかけ、いったん止まり、

 えへへへと表情をとり繕うキリコさん。

 改めて親指と人差し指で御猪口おちょこを作ると艶やかな紅唇にくいっと傾ける仕草をした。

 ああ、ラッパ飲みじゃ体裁が悪いから御猪口なら可愛く見えるって思ったんですね。そんなことしたって無駄です。

 だって貴女、これからセンザンコウ酒ならぬ夜虞祖酒を飲もうっていうんだから。



関連話:第弐拾捌話:疳蟲の出流は噛む鳴りて

https://kakuyomu.jp/works/1177354054881029941/episodes/16816927862435279033




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