第弐拾捌話:疳蟲の出流は噛む鳴りて
「かんなりがなるなおんばがなくぞ あざっこむしっこししたれするな」
――補陀落山の口承――
チェシャ猫のように元来は馥郁としたまんまるな目を細め、眼鏡越しに窓の外を穿っていた真霧間キリコはそろそろかしらと口唇のボロネーゼソースを舐めとった。
「そろそろですか」アラトがナプキンを突き出す。
春霞たなびく陽の暮れた藍色をした窓の向こう側。黒々としたもの。
霧生ヶ谷市内を天辺から見下ろせる、市民にも開放されている眺望の良い人気スポット。霧生ヶ谷市庁舎三五階にある職員食堂。だだっ広い空間に人の姿は二人、キリコとアラトの貸し切り状態だった。
『「誰あろう!! トヨトミ=クランに(ザリザリ)骨髄に徹する、ロクジョー(ザザザザ)で(ザリザリザリ)斬首(ガガガガガ)ミツナ(ザザザ)リが宿ってい(ガガガガガー)』
テーブルの上にはほぼ平らげられたボロネーゼのタリアテッレと携帯型のラジオが置かれており、耳朶を打つ砂嵐はラジオから発生していた。
「パルス音の雑音が酷いわね」
中央区にある市庁舎三五階から東区にある真霧間科学研究所の方向をキリコは見下ろすのではなくまっすぐに、あるいはやや上向きに視線を走らせていた。「さーん、にーい、いーちと数を数え、
「どーんっ!」
タイミングを合わせたかに刹那、窓の外を閃光が樹木状に迸る。
菫色の稲光。
とどろ、とどろ がーんっ!
天の底が抜けて巨大な
だいぶ近くに落ちたらしい。
「おおよそ6秒だから2キロ圏内か」ふんすと頷くキリコ。
ラジオから継続的、断続的にザザザガガガガとノイズが耳に煩わしい。
「ねえアラト君。雷というのはね、上層と下層の電位差が拡大して空気の絶縁の限界値を超えることで電子が放出され、放出された電子は空気中の気体分子と衝突し、これを電離させる。電離により生じた陽イオンは電子とは逆方向に向かって猪突することで新しい電子を叩きだす。この時に生じた二次電子がさらなる電子雪崩を引き起こして、持続的な放電現象として下層へ飛んでくの。
「はい」キリコは話しながらフォークを振り回すので煮込まれた赤ワインの汁気たっぷりな肉片が飛んでくる。それを器用にかわすアラト。阿吽の呼吸。
「じゃあ、放電の際に数万アンペアの電流が大気中をむりくり通るとどうなる?」
「……電離による強い発光と、放電経路にあたる大気には温度上昇ですか」
「んで?」ふりふりと動くフォーク。
挽肉、かわす。玉ねぎ、かわす。挽肉、かわす。トマト、クリティカル!
「ええと」
「数万度もの爆発的な温度上昇によって空間は一気に膨張し音速を超える衝撃波を放つ。電流が流れるってことは電波を流している。
「はあ」おそらく中学か高校で習う理科か物理学程度のことなのだろうけど、講義口調のキリコには余計な口を挟まないのが名取新人の処世術となって久しい。今のキリコは酒が這入っていないだけマシだ。
「空電には
あー、それでラジオを聴いていたのか。雑音の有無を確認するために。
「雷が落ちる場所が分かったのはこれに映ってたから」
くひっ、これで外見てみんさい。キリコが丸眼鏡を外してアラトに手渡す。
丸眼鏡の内側には霧生ヶ谷の外宙が
「その眼鏡には
アラトが眼鏡で外を見ているとグラス内側のメッシュに稲妻が表示され、眼鏡内の稲妻をなぞるように時を同じくして窓ガラスの外でも稲妻が走る。完全なる同期。
「へえー! 大したものですね」
なんでも雷に伴い発生する電磁波を受信する検知局が真霧間科学研究所にあり、収集したデータから雷の発生予測位置を決定する処理機能もあるのだとかで。
雷から放射された電磁波をアンテナで受信し、得られた波形情報などに、高精度の受信時刻を付加して伝送。雲放電や対地放電といった雷の種類や発生地などの情報がオートマチックに標定された結果がキリコの眼鏡にリアルタイムで受信され、MR化して反映されていたというわけ。どっとはらい。
「式王子ヶ谷山地、とりわけ補陀落山を中心に霧生ヶ谷市は昔っから発雷確率が高く、口承にも『雷がなるな乳母が啼くぞ』って伝わっているくらい」
北関東地方では夏の雷を指して雷銀座と呼んでいたり、日本海側の冬の雷のことをブリ起こしと呼んだりとするが、霧生ヶ谷でも雷を、猪神が暴れまわり祟りつくものとして災いを神として祀り上げ、猪に崇高とし『猪崇』と呼びならわされているのは九識の課員であるアラトは承知している。
気象庁の統計値によれば一年間で雷日数がもっとも多かったのは石川県金沢市で記録した72日。霧生ヶ谷市ではそれを上回る雷日数があるにも関わらず、気象庁としては公式にカウントしていない。
雷が落ちるのは悪いことばかりではない。
空中放電により空気中の窒素と酸素が反応し窒素酸化物が窒素固定される。さらに酸素により硝酸に変化する。これらが地上に降下して硝酸塩に生成されれば植物の育つ栄養源になり土地を富ませるのだ。春の雷は虫出しの雷とも言うくらい、植物が芽を吹き、それを求めて虫たちが這い出で始めるのだが……。
「アラト君、夜虞祖って覚えてる?」
覚えてますとも。乳飲み子に取り憑いたシタムシに似た妖虫をひっぺ剥がしてお酒に漬け込んだ時のことでしょ。
「あれ、飲んだんですか?」
「質問で返すか。もちろん飲んだわよ」ふんすとキリコ。
夜虞祖酒。味の佳い悪いはともかく、飲んじゃって体に変はないのかと心配してしまうのだが、飲むのはキリコであってアラトではないのが目下の幸いか。
「昔っからお爺ちゃんっこだった私はああいったものに興味津々で。ううう、血が騒ぐ……なによアラト君、奇妙なものでも見るかの顔しちゃって。真っ当なマッドサイエンティストです。私は」
真っ当なマッドとは韻を踏んでおしゃれですけど、マッドの意味を辞書で100回字引きしてから鏡を見てこいと言いたい……がそれを言わないのが処世術だ。
ロットワイラーに齧りついていた赤子の中に潜んでいたもの、夜虞祖。
真霧間キリコの祖父である真霧間
その源鎧氏、キリコの幼少時から、シタムシに似た夜虞祖はもちろんのこと、諸牛頭と呼ばれる不定形に発光する原形質やシュヴァルツシルトの地底洞窟で発見された
「昔っから、放射性炭素年代測定によれば少なくとも平安時代期まで遡れる水路の存在がこの街の大本なのは解ってるわよね」
「目下のところ鋭意調査中です」
霧生ヶ谷市における水路。
入り組んだ様相は地下に潜ればもはや最奥まで行くと地底へと続く孔と言った方が正しい。縦横無尽に野放図に伸びた水路がありとあらゆるものを引き込むいにしえの魔術回路ではないかと本式に研究を始めたのがキリコの祖父である源鎧氏である。その源鎧氏が霧生ヶ谷史編纂室に厳重に保管、というよりも、そのために
葦原の中つ国にまつろわぬ、補陀落の無窮に棲まいし旧き神、
*
「
(神代のみたまは、おっしゃられました。あしはらのなかつ国、よい世の中であれば面白くくくってほろぼそうと)
「
下知賜われし補陀落の、此の世よりおかしき彼岸になきさあれば、いずれか世に我ら這入寄りて万事括りたもうや、捧げたもうや、いまださにあらず、さてはあらためて捧げたもうや」
(家を救い難を破り去らせください。
補陀落におっしゃっていただいたが、この世の中はおもしろいあの世ではあらず、であるなら、いずれ私たちがこの世にひろがって、万事を始末いたしましょう。捧げましょうぞ。今はそうではないのです。さては、あらためて捧げましょうから)
*
「あざっこむしっこししたれするな、か。痣の虫たちよ寝小便するな」
霧生ヶ谷という魔地において噛鳴りは雷とは違うのだと。戦前はそれほど雷の発雷確率が高かったわけではない。噛鳴りが落ちると虫が発生する。祖父である源鎧があり得ざる考えだと切って捨てられなかった既知外れた考え。
”神思う、ゆえに汝は存在する”
The Red Bookの約定ゆえに、舞台装置の一部として我が孫のキリコは誕生したのではあるまいか?
キリコ自身、世界を己のおもちゃ箱のように俯瞰しており、結果、それに巻き込まれるアラトはまことに災難であるとしか言いようがないが、キリコも虫に関して祖父に近似の解釈をしていた。
(1) 虫出しの雷のように、春に地面から這い出てくる虫のこと。
(2)雷の音に驚いた子供達が癇癪(疳の虫)を起こすこと。虫の居所が悪く魔が差すこと。
(3)私が不可識を追い掛け回すさまがあまりにも楽しそうだから、誰かさんがこの世を面白がっているうちは底尽きぬように湧かせてやろうと下賜された蟲……。
*
「需要もいいけど、供給が過ぎるわね」
噛鳴りが轟くと、稲妻が落ちた近辺で決まって夜虞祖憑きや通魔が起こる。
ゲラゲラゲラゲラ
温度上昇による空間膨張で発せられた衝撃波の音ではない。
妖神が嗤聲をあげているのだ。
ゲラゲラゲラゲラ
キリコのサイバーグラスに新しい情報が伝送されてくる。
霧生ヶ谷市全体の3次元の空間と1次元の過去から未来の時間を合わせた4次元時空座標を500メートル間隔で10分ごとの経過を
「アラト君、見ものよ」キリコから手渡されたサイバーグラスを装着するアラト。
奔流する菫色の稲妻。
鼻歌を口ずさみながらキリコが形の整った耳を澄ましている。
「パルス雑音はなしと」ラジオキリューガヤから流れてくるラジオドラマ「補陀落の佐治さん」お決まりの囃子が途切れず鮮明に聞こえてくる。
菫色ではあるのだけど不自然に汚穢な黄色味を帯びて空間にざくざくと裂傷を負わすかに木の枝状に進んでは止まり進んでは止まりと繰り返し
……目を疑った。
本当に空間に切れ目ができたのか、放電経路、外宙、時空間連続体の合わせ目がずれてざっくり欠け落ちている!
アラトがたまらずサイバーグラスをむしり取った。裸眼で見る外宙は夜の帳で覆われたいつもの佇まいだったが騙されるものか。間違いない。
数瞬は呵々と裂けていた。嘲笑っていた。
どうりで気象庁の統計値にカウントされないわけだ。これは雷ではない。不可識の噛鳴りなのだから。
名状するならば寝そべった魔王の口裂から乱杭歯が暴露され嗤聲が妖蟲となってぽろぽろ零れ落ちるような、この世界が欺瞞であると、現世の偽膜であることを宣言するような。
邪魅が宙から落ちてくる。
「キリコさん!?」
あれは、とかえりみるや全身が総毛だったのちアラトが意識の手綱を手放す。
キリコの口角も三日月のようににんまりとつり上がっていた。
関連話:第三話:猪崇講
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881029941/episodes/1177354054881121888
関連話:第壱拾四話:ヨグ=ソトホート憑き
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881029941/episodes/1177354054884860222
関連話:第弐拾一話:血判経典
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881029941/episodes/1177354054885428553
関連小説:偽神贄狩り
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