第弐拾漆話:偽膜を齧り冒すもの

 新年を迎えて三が日最終日の朝、操木依子が取りとめのない、普段の自分とは微妙に異なる人生を幾通りか体験した夢から目覚めてみると、ベッドの中でおのれの姿が一個の人間の形を模した、とてつもなく大きなお餅に変わってしまっていることに気がついた。

 ビビッドなデッディベアの顔が無数にあしらわれたクリーム色のパジャマを着こんだお餅。

 き立てのお餅ほどの可塑性はないものの、真っ白な皮膚は羽二重餅のようななめらかさ、柔らかさを保っており、これがほんとの餅膚か……おもちろいな……ぼんやりそう思う。

 そもそも、自分の身の上に何事が生じたのか、依子は考えてみた。

 まず、古典的手法は大事ねとほっぺたをつねろうとしてみたものの、どうしたらお餅にほっぺたがつねられようものか。想像してみてください。お餅は思っている以上にお餅なのです。

 まぶたは最初から開いていたのかどうも胡乱なのだが視界(お餅にそんなものがあるとするなら知覚と表現するのが一番分かりやすい)が捉えた光景は馴染みの深い、いつもの依子の部屋だった。以前に学友が大掃除という名の大改革を行って以来、片付けの「か」の字は無造作に散らばった物の中に埋もれ、依子の不精な性質が祟って女の子の一人住まいと言うには少々雑然としすぎた、けれど住み心地の良い我が家。

 ブラインドの隙間から射す新年の曙光は、透明感の中に冷気を伴って室内に侵入し、依子の表皮をなぶる。冷気が依子の身体から一時ごとに柔軟さを奪っていく。太陽が照らす部屋の一切何もかも嘘っぱちに浮かび上がって見えた。あるいはもしかしたら太陽の明かり自体が欺瞞なのかもしれない。一番嘘っぽいのが依子自身だというのは置いておくにしても、明晰夢オツ……と困ったことに、今の有様をぽかんと忘れ、まぶたを閉じて夢の世界へ逃避しようにもまぶたがないのだ。オーライ、依子。なぜこうなったのかじっくり検討しようじゃない。依子は心の中で腕まくり(お餅はやはりお餅でしかない)をして唸り始めた。

 操木家は式王子港市の中では旧家に属する。毎年、年末になると家長が近所の有志連を率いて正月に供える餅つきをするのが習わしだった。操木家で搗かれたお餅は歳神の依り代となって鏡開きまで歳神が宿り、またそのお餅を食することで歳神の霊気を総身に宿して一年を災禍なく過ごすことができるという。

「ヤッグサ」「ハッ!」「ヤッ」「グサハッ!」

 依子は帰省がてら、男連中が寒空の下で今時とは思えぬさらしにふんどし、杵と臼を用いての風流な、と言っても汗水を垂らしながらの力作業を眺めては、打ち粉をまぶした机の上に運ばれてくるお餅を時折丸める。砂糖黄粉、あんこ、醤油。つまみ食い用に何種類かの小皿を用意して、年の瀬の穏やかな時間を大部分はこたつに潜り込んでぬくぬくと、それが依子の常で。

 実家から昨日、牙城であるアパート「メゾン・ド・パピヨン」の一室に帰還した折も、小さめのお重箱に綺麗にあしらったお節と共に、持ち運べる限りのお餅を風呂敷包みで持たされて送り出された。それは今も玄関に置かれたままの風呂敷の中でひっそりと息をこらしているはずで、正月はもちろん、当分の間を食いつなぐ大切な備蓄食料としての依子の一財産である。

 お雑煮。おぜんざい。ずんだ、あべかわに焼餅。揚げ餅。餅のレトルトカレーかけに餅グラタン……お餅は好き。とはいえそれはアベレージな日本人が白米が好きなのと同等の好きさであって、特段にお餅を嗜好する訳ではなく。行きつけの甘味処である『安寿』のお萩にしたって、洋菓子屋の『苺庵』が誇るショートケーキとどちらが好きかと問われたらきっと返答に窮するだろう。

 足もとからただならぬ冷気が昇ってくる。

 眠っているまに布団を蹴っ飛ばしてしまったのか、むき出しの爪先。知覚という名の眼で見つめる。五指に分かれた指先はもはや形を成さず、のっぺりと平板なお餅の塊が、ただてろんとパジャマの裾から伸びていて……。

 ぞくりとした(お餅にそんな感情があるならば)。

 人族である時には頓着しなかったけれど、こんな姿に身をやつしてみた途端、幾千、幾億もの大軍団で部屋のあちこちにコロニーを築く、様々な菌類のぬるりとした吐息、カビ類の這い寄る混沌めいた存在がひたひたと菌糸を伸ばしてくるのが依子には感じられた。舌なめずりをし、互いに繋がりあい、群れて依子を囲い込もうと跋扈するものども。彼らからしてみれば、依子など単なる丸々とでっぷり動かぬ炭水化物にしかすぎず……。

 そしてまた何者かの足音を知覚し、依子(であったもの)は戦慄した。

 アパート「メゾン・ド・パピヨン」はペット禁止である。というのも数年前に事を発する事件があってのこと。それまでは犬や猫は何らかのちゃんとした説明があれば、大家さんの承認ありきとはいえ、飼うことは出来た。むしろそういった『家族』は他の部屋に住まう住人達にも歓迎され可愛がられていたものだった。ところがある時、大家さんに内緒で部屋にケージを持ち込んで数匹のハムスターを飼う住人がいた。ケージの中にさえいれば愛すべき小さきもの達だったが、その住人が数日部屋を留守にしたことから災いが訪れてしまう。血気盛んにケージ内で遊びまわっていたハムスターのうちの一匹が組み立て式ケージの枠に緩んだ隙間が生じているのを発見したのだ。爪をつき立て、額を捻じ込み、横腹をぶち当て、力任せに尾をくねらせる。自分だけでは無理と悟ったのか、同胞はらからにも呼びかけ、主のいない束の間の時間を思うがままにふるまった。そして、事、ここに成就せり。部屋の主が帰宅した頃、ハムスター達は自由を謳歌せんと、新天地に旅立った後だったのである。それからのこと、メゾン・ド・パピヨンのあちこちで「窮鼠が出る」と噂され始めたのは。    

 大家さんは事情を知った上でどんとこいとクマテトラリル、ジフェチアロール、フマリン、ワルファリンと言ったスーパーラットにさえ効くとされる殺鼠剤を用いたが、人間の考えている以上に、棲息環境に順応する早さは驚異的であり、開戦時には一定の戦果を得たものの、その後はさしたる効果をあげられず、遂に大家さんも共存する道を選ぶしかなかった。あな恐ろしや鼠算。一説にはそれらが可愛げのあるジャンガリアンハムスターなどではなく真霧間科学研究所、通称M研所産の変異種ブラウン・ジェンキンであったのではないかと疑われた。真偽のほどはさておき、その脅威が間違いなく、依子の変化を察知し、一族郎党を引き連れて襲撃を始めるのはもはや時間の問題だった。これから二股に開いた選択肢は、埃に埋もれカビに腐食されるか、ハムスターと類推される何かに齧られるかの違いでしかない。

 ……

 ……三択目がほしいもんだわ……。

 ……

 お餅といえば、祖母のおともで聞きにいった寄席を思い出す。落語の題目は『蛇含草』と言う夏の暑い盛りの話だ。お餅好きの男が遊びに立ち寄った友人の家にお邪魔し、火鉢で炙られているお餅をみて、友人の断りなしにつまみ食いをする。食ってもいいが、礼儀をわきまえんかいとたしなめられるも、食ってもいいのなら餅箱ごと焼いて食ってみせようと曲芸食いを披露するが、数個のお餅を残してとうとう頭のてっぺんまでお餅が詰まってしまう。そこで友人。風流で飾っていた壁の草を指しては、これは蛇含草といい、山で迷った人間を丸呑みして苦しくなった大蛇が人間を消化して腹の具合をおさめる腹薬だと指南。男は重たい腹を抱えつつ、それを長屋に持ち帰って食し、ころりと横になってしまう。友人が気になり訪れてみれば、お餅を大食いした本人の姿はなく、ただそこには甚平を着たお餅が座っていた……。

 たとえ、お餅を消化する蛇含草のごとき仙草があったとして、お餅の身体が溶けきった後、いったい何が残るんだろ。この身はお餅と一つであるのか、それとも幾許かの何かしら依子であるものがあるんだろうか。

 眠る前のことを思い出す。実家から帰還して早々に依子が熱中し始めたのは『クトゥルフオンライン』と言うネットワークオンラインゲームである。新年の限定イベントで、通常は隠された座標に海底都市ルルイエが浮上すると知り、オンラインの友人達と新年の挨拶を交わしながら、忌まわしき深きものどもの狩りに出向いたのだった。高レベル帯パーティ推奨だったので、依子とっておきのトレジャーハンターで、ペア狩りのお供にミシェルという海産物の撃退に特化した友人が操る猫と出撃。画面のこちらに臭ってきそうな凄まじい臭気までも描画するモニターに眼を爛々と輝かせながら、お餅のように無限の如き柔軟性、可塑性を帯びた腐敗した粘着質の凝縮された触手の狂気めいた群を掻い潜り、時に通りすがりの顔なじみと技能上げに興じたりと、骨髄に氷水を循環させるがごときスリリングな中にも楽しいひとときを存分に過ごし、疲れきったまなこを擦りながら夜と言うには遅すぎる床についたのだった。

 玄関でチャイムの音がする。三が日の最終日、御囃子宮へと初詣に繰り出そうと年末からの約束を思い出した。相も変らぬいつものゼミ仲間だとしても、会えば改まった気持ちになるに違いない。もし会えたらの話だけど。それ以前に私と認識してもらえたらの話だけど。どう説明したらよいものやら、話の糸口すら掴めぬし、口を開こうにも言葉はあ、とも、んとも出てこない。今の依子はデッディベアのパジャマを着込んだもっちりしたお餅でしかないのだ。

 もう一回、チャイムが鳴る。

 ピンポーン

 ピンポンピンポーン

 チャイムのテンポは回を追うごとに早くなっている。せっかちなんだから。依子は何とか玄関の方に身体を向けようと物憂げな身体に活を入れ、全力でねじった……。

 

 身体がうねる。

 驚いたことに依子の身体は思う通りに向きたい方向へ捩れた。

 身体に纏わりつく冷気が心地好い。まぶたに宿す光が急激に弱く昏くなったのを感じ、眼を凝らした。古さびて朽ち果てた、とはいえ建造物としての基礎を保っている石柱が幾本も建ち、同じ背丈ほどの長大な海草に身を巻かせている。畸形に歪んだ魚達が依子の寝そべっている寝所を回遊している。

 ああそっか。

 まもなく悟った。深海の果ての水底。城塞の門。

 死せるほど、夢見るままにいたりて、二十有余年の人生をまどろみの内に過ごしていたのだった。

 依子の見る夢と歳神の見る夢と。人の夢を見るお餅と。お餅の見る歳神の夢と歳神の見る依子の夢と。歳神の見るお餅の夢と。形而上、誰が見、何が見、神が見、お餅が見、無意識の群体が有象無象の交じり合い。人間であった時の移ろいなど、お餅であった歳神の移ろいなどどちらもこちらもありはしない。

 人の世は夢幻。餅の世も普遍。現世は偽膜。

「Ulhzthhotfof-rarth!!」

 依子であったものは、お餅であったものは、歳神であったものは、あるいは夢見る局外者であったものは唇を開き、口吻を突き出して叫んだ。神威を加えた。あるいはでんぷん質の表皮を膨らませて弾けることで音韻を生じさせた。己に生じた茶番劇バーレスクの原因がろくでもない余興だと気付いたのだ。軟泥に灰緑にぬめり光るもっちりとした巨大な身を横たわらせ、ついには欺瞞なるものが生ずる偽膜を破瓜せしめんと眠りの門の戸へ深く深く落ちていった。



関連話:

「水蜜桃」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054880985759

「偽神贄狩り」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054922824058

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