第弐拾六話:愛しいあなた

 あなたも存じあげていることでしょう。

 九頭身川を挟んで北東の方角、関東方面へ長大な爬虫類の背鰭がうねる様に横たわる式王子ヶ谷山地の、中でもとりわけ峻嶮な補陀落ふだらく山の山麓には、無数の沢が頭足類の触腕のごとくうねうねと九頭身川の水を求めるように這い出ているのを。

 名を挙げ始めるとキリがありません。屈巣狸沢、蟹沢、童子沢……。

 沢歩きをしようと思ったのは、霧生ヶ谷に雪の到来が訪れるまえ、といっても白い羅刹と罵られるほどではないのですが、とにかく脳喰い虫のごとく視界が煙るほど降られる前に調査したいことがあったのです。

 菩薩の両掌が拝むような黄金に染まった木々のアーチを抜け、お昼前には目的の沢、屈巣狸沢のせせらぎに足を踏み入れていました。

 良質な狩場で、狩猟期ともなればハンターがふくふくと積もった落ち葉の下にくくり罠を仕掛ける沢として知られていますが、立冬を迎える直前だったので、人の這入った気配はなく、何者にも煩わされず森に充ちた峻烈な濃い霊気で存分に肺腑を満たしておりました。

 しばらくは。


 違和感を覚えたんです。

 ゴートフェルトの靴底を抜き差しするごとに発する音が変わったことに。

 ぱちゃぱちゃとした軽い水音から、

 くじゅる、くじゅる。ぬっぽん。ぬっぽんと重量を帯びた……。

 不意に頬が赤らんだのを否定はいたしません。あなたとの逢瀬。

 想起してしまったことは愛しい愛しい雄渾なに唾液を溜めた舌を絡めて咥内に頬張って愛撫するときに擦れ漏れる水音。くぽ、ちゅぷ、くぽ、ちゅぷ。

 ああ、

 お思いにならないで、みだらな女だって。

 澱むことない流れなのに、まるで熟れすぎた柿の果実を踏み躙るような感触がとかく不思議で。眉をしかめたのは不愉快だったのではなく羞恥から……。

 足を引き揚げると、ズボンのすそ、膝頭あたりまでクロマトグラフィの花が咲いていました。ろ紙にカラーペンで斑点を付け、水を滲ますと色が広がりきれいな模様ができますでしょう? ロシアの植物学者ミハイル・セミョーノヴィチ・ツヴェットが発明したあれです。

 色、広がり具合というのが何ともいとわしく。いやらしく。

 それで苔した岩の上を歩くことにしました。

 改めてズボンのすそから水面へと視線を移しますれば、何だか濁ってる。

 水流にねばつくような粘性を感じましたの。

 奇怪おかしいですよね、するすると流れているのに、どこかに思えるだなんて。

 でもズボンのすそを汚したようなものなんて見当たりません。

 まばたきするほどの知覚でしたから気のせいと首を振りました。

 思い当たることがあるといえば、あなたが薦めてくださった怪奇小説ラヴクラフトかしら。


 ある瞬間、

 鼻腔を抜けるフィトンチッドが濁りました。

 岩肌の苔を噛むように慎重に歩を進めていたら、上流から漂ってきたそれは。

 例えるなら、プラムとジャスミンの香気に山羊の乳を混合させたかの酪酸ベンジル、どこか南国を感じる甘ったるい、えた……。

 もしかしたら、と嗅覚に意識を集中させ元を辿れば沢の淀みに赤黒い溜まり。

 正体は死臭でした。

 あまりにもの現実ずれた光景に感覚が麻痺してしまっていたかしら。一度吐瀉してしまった後は学究の徒として冷静に観察できているわたしがいて。生きているものの方が死んだものより一等怖いとはあなたが恐怖映画を観るたびそう仰っていたの思い出す。それにしてもあの光景は非道い。

 皮膚が油じみた斑紋に冒され細く萎びた狸、

 ありとあらゆる骨が破砕されぐにゃぐにゃの毛玉にやつした野兎。

 眼球が欠損し紐状の視神経を暗い眼窩から垂らしているのは老いた女鹿でしょうか。性別まで分かるほどに原型がなかったものですから。

 鬱蒼とした木立にある沢なのです。うじが屍骸をむさぼっていてもおかしくない、甲虫が這いずり回っていてもおかしくない。だけれど何物にも冒されてはおらず、屍骸は屍骸としてそこに、まるで手をつけてはならぬ神聖な供物のようで在りました。

 どの死体もすべからくどこかが欠損し、どろどろの腐肉の汚泥を形成する一役をになっていました。もつれながら、裂けた腹腔の白い脂肪層からピンク色の大腸や小腸がまろびでて、そこに幾羽もの夜鷹の鋭いくちばしがねじ込まれています。

 その夜鷹も屍骸となり果てていました。

 幾羽も幾羽も。幾羽も幾羽も。

 顔を背けたいのに。

 顔を背けたいのに仔細を脳に刻み込まんと勝手に足が出る。

 ふふ、ご心配なさらずともよくってよ。

 瓦斯ガスにやられないよう簡易な防毒マスクはぬかりありませんでしたわ。

 ただただ目が逸らせられないでいた。それだけ。

 わたしの学術調査したかった場所だと直感したからです。

 あの夜流星が、隕石が墜ちた霧生ヶ谷峠の現場がここなのだと。


 ねえあなた。二人で夜空に見上げた火球の光度を思い出して。

 だのに草木が焼け焦げた様子もない。

 ガイガー=ミュラー計数管にも反応はなく。

 けれど外宇宙からの到来者はを残していたのです。

 周囲の広葉樹は黄色く染まる代わり、一切の色彩を奪われたかの如く真っ白に、モノクロームに加工されぐんにゃりと立ち枯れていました。渦が発生したかにサークルを描くように、幼いころに編んだ草冠みたいにそれらは捻じくれていました。あるいはしゃもじでかき混ぜたペシャメルソース。

 なべ底をひたすら焦がさぬよう木べらで撹拌せねばならない、手のかかるペシャメルソースを作っている間はあなたが傍にいてくれる時間が長い。そんなことをぼんやりと思いながらうずまきを見つめて。

 うずまき。

 信じてはいただけないでしょうが、不思議だったのはでろでろと喉を灼いて吐き出されたわたしの胃の内容物が地面を這って絶渦へと混ざり合っていったのです。まるで意思でもあるかに導かれて!

 研磨したかに両端の沢岸は等しく滑らかになっており、衝突時のヴォルテックスが穿ったまさしくその一点に、腐った血液と腐った肉、腐った内臓、折れ尖った骨、剥かれた生皮。毟られた羽根、そしてわたしの吐瀉物が滞留していました。

 さながら、とぐろを巻いたまま開腹された蛇体のようなうずまき。

 宇宙からの、外次元から来訪した無窮の螺旋。

 うずまき。

 彼女はうずくまっていたのです。その中心に。

 

 眠たげにまつ毛のけむった双眸はぱちくりぱちくり。

 ワイン樽のように豊満な女体はくらい羽毛にみっちりと覆われて。厭わしい汚穢おわいに糊塗されているのは大小幾つもの蔓脚まんきゃく

 爛熟した腐肉が沸き立つ中、ゆっくりとが立ち上がるさまを忘我しつつ、一時もわたしは逸らしませんでした。勇気とかではないのです。

 どうして逸らせましょう。宇宙化学アストロケミストリ学徒の一人として。

 対峙しているのはまさに外宇宙からの来訪、夜気を裂いて堕ちた隕石に起源するであろう有機物なのですよ。

 羽毛かなと思ったのは夜鷹の瞳をらんらんとさせた狐猿レムリアに似た何か。その醜怪な猿の如き何かが蒼褪めた女体に幾房も垂れ下がった冒涜的な紡錘形の豊満な乳房の尖端に吸い付いて淫靡に漏斗状の口吻こうふんから突き出したヒドラ状の舌を鳴らして。ええ、ぴちゃぴちゃと。破水してみれた羊水のごとく女体からか黒く滴る腐肉の一片まで綺麗に舐めとるように。一心不乱に幾体も幾体も舌鼓を打ちながら。まるで夢のしとねから目覚めたばかりの女王を覚醒させんと身支度の奉仕をするかのように。

 女体は今や完全に屹立しておりました。ぶるりと小山が揺るいだかと思えば熟れた乳房に噛り付いていた小鬼どもが名残惜しそうに羽ばたいて、色の失った木立に消えてゆくではありませんか。彼らの行く先はわたしには知る由もありません。

 女王然と、すっくり立ち上がった体は小鬼どもがその身から離れたゆえかほっそりとさえ見受けられました。夢のくにでのみ編める詩人の花冠をかむるかの燃え上がるように豪奢な髪の毛はどれも蛇髪の怪物メドゥーサを凌駕する、意思を有したヒドラ状で、次から次へと長く伸びをし、競うかに、まるで満月の海でサンゴが放精するポリプマリン・スノーみたいに千切れては宙を舞い、先行した小鬼どもを追う雲霞となって瞬く間に上昇してゆき、ああ、なんという素晴らしい光景だろう。あなたと共有したかった。

 先ほど蒼褪めた女体と書きましたね。

 赤黒い腐肉の中からは屍者のような皮膚ではございません。例えるなら昏い夜空の帳、ハンミョウの甲殻。アザトライトの玉。

 ああ、彼女が手を伸ばす、蔓脚めいた大小の体節はいまや、並ぶ者のおらぬ天上の石工が雪白の大理石を彫刻したかの滑らかな幾本もの腕となってわたしに延びてくる。どうして抗えましょう。

 を愛する慈母のようにわたしを抱擁する。

 わたしに望まれていることが分かりました。ああ、はっきりと思い出せますわ。

 幾重の乳房群に埋もれ嬰児みどりごのように乳首を口唇に含んだわたし。

 吸いついておりました。無我夢中にむしゃぶりついて。 

 胸が高鳴る。ああ、が喉に流れ込む。こくり、こくりと。

 

 *

 

 ソファでくつろいでいたあなた。合鍵で入ったのね。

 咎めるのではなくてよ、わたしも会いたかった。

 客員で来日していたミスカトニックのなんとか教授の講演話をあなたはしきりにしたがっていたっけ。ごめんなさい。メソシデライトの母天体における大規模熔融や始原的エコンドライトについて理解は出来ても、地球宇宙化学の専攻であるわたしには隠秘学オカルトは難しかったの。

 そんなことより、会いたかった。

 部屋着に着替えているわたしを横目にあなたが食材を取り出してゆく。普段はレトルトしかない空っぽの冷蔵庫から。

 まるで魔法みたい。

「食べ頃のアボカドに熟れたトマト。モッツァレッラに辛口の吟醸『酒都の霧』」

 ついばむようわたしの口唇に接吻してみせたあなた。

 忌避したんじゃないの。

 アボカドの脂肪分や血液を想起させるトマトだから忌避したわけではなくて。

 ただ、彼女の香りフェロモンで胸いっぱいだったから。それで。

 代わりにアンチョビとニンニクをたっぷり効かせたペペロンチーノをせがみましたね。精力剤のつもりではなかったのです。ペペロンチーノの夜は、そんな暗黙の了解を察したあなたの双眸がゆるむのを見、わたしは頬を染め恥じらいに高鳴る鼓動を抑えるのに必死だったのですよ。


「『遊星よりの物体X』でも観ようか。ジョン・カーペンターの奴じゃなくて、クリスティアン・ナイビイの」

 そんな意地悪を云うから、あなたの首筋にしがみついて何度も何度も火照った口唇を押しつけました。あなたは戸惑いながらも受け止めてくれてわたしの口腔を舌で存分に窒息しそうなくらい嬲るとシャワーを一緒に浴びようと誘ってくれましたが、わたしはもう待ちきれなかった。

 告白しますが、体に滲みたを流したくなかったのも事実です。

 乳房が張っていたのは生理が近かったのもあるけれど、でもそれだけじゃなくって、きっと彼女のせい。色づいて朱鷺とき色に突起した乳首に吸いついたあなたの感じた乳精はエキス。

 吸うたび体内を巡る黒い糖蜜。


 夢狂むぐるう、いとれて。産津乙女うぶつおとめ

 ああ、外宇宙とつそらからの彼女が呟いている。


「プラムとミルクの味がするよ、きみのラヴジュース」あなたが言葉に出してわたしを責める。鼻先を牝の雛尖に押し当て、唇と舌で花扉かひの胎孔をえぐる。

 だって、恋してるんですもの。あなた。

 愛液の味が甘いのは内分泌が恋することによって酸性を帯びたりまろやかに味が変わるから。でもね、それだけじゃないわ。ああ、あなた。


 ぬぐうが、産津乙女うぶつおとめ

 今日けふくるい、夢狂むぐるう。

 秘め事を言祝ぐ彼女の、小鬼どもの繰り言がわたしの胎内で結実してゆきます。

 うぬ愚辺ぐへ


 二人の汗とあなたの唾液とにぬめ光る太股をあなたは火照った掌で八の字に押し広げて仰向けに開いて。

 しとどに濡れたにえらの張ったがつぷとのめり込んでゆく。


 ああ。…………撫求ぶぐ姐求しゃぐ……。

 

 ご存知でしたか。降りた子宮孔にベーゼするかに深く差し込まれたあなた自身を感じながら離れぬようあなたの首筋に両腕を巻き付けて、両膝であなたの腰を挟み込んでわたしは一繋がりになれた喜びをわたしの中の彼女と共有していたことを。柔襞があなたに絡みつくように、彼女もまた胎孔を通じてあなた自身へと侵入を果たそうと、あら、とっくに果たしていましたわね。

 教えて差し上げます。

 あなたがわたしを抱いていたおり、これから蹂躙する魂を思ってわたしのなかの彼女が快哉を叫んでいました。あなたのなにものにも犯されておらぬ処女雪のような精神に触れて。あなたが吐精したころにはとっくに被凌辱器官を通じてあなたを凌辱してのけていた彼女。

 ああ、心配なさらないでください。大丈夫。この手記が見つかるころ、とっくにあなたは偉大なる彼女の御心に身体をゆだねているのですから。

 いたわるように優しく頭頂を撫でてくださるあなたの指先をちくりと甘噛みしたのは毛束の変じたヒドラ……。

 ああ、ああ、愛しいあなた。

 誇りなさい。あなたは尖兵として選ばれたのです。


 *


 真霧間科学研究所宇宙科学研究室の女性所員と連絡がつかないことから彼女の家を捜索したおり発見された手記の全文である。

 交際していた男性とともに現在も行方不明。至急の確保を要する。

 国家機密に抵触するため、当該記録における姓名は秘匿とする。

 年数経過による機密解除認定の対象から当該記録は除外される。

 なお、式王子大学に客員として来日していたミスカトニック大学隠秘学学者アール教授に協力を要請。現在一部の意味不明な詞の原型を精査中とのこと。

 

 *

 

 ジーン抹殺ワクチンの接種範囲指定を霧生ヶ谷市の近接都市に拡大することが閣議決定され即時布告された。

 当該地区の国民においては義務違反は行政罰である科料とがりょうを課せられる。

 当初の五百人から三千人体制へと増員。補陀落山を中心に山狩りが続いている。



(続く)

 


 ことの始まり

 邪神耳袋:第七話:さりげなく大がかりな

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054881029941/episodes/1177354054881995611


 関連話

 邪神耳袋:第壱拾漆話:童子沢の怪

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054881029941/episodes/1177354054885075735

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る