第壱拾漆話:童子沢の怪

 人人山出版から刊行されている月刊noumuノームに掲載されていた話。


 佐治弥助は補陀落山の童子沢で鳥を撃っていた。

 火球が墜ちたあくる日、

 のちに「ジーン汚染災害」と認定された褐色がかった霧の降りた翌日のこと。

 伝手からもあるが、狩猟シーズンの解禁にうずうずしていたこともある。佐治は眠り銃の持ち手ではない。暇さえあればクレー射撃で己を磨いていた。いつでも撃てる。

 

 ハンターとして吉兆はあった。

 ドイツのフォトグラファー・ダニエル・ビーバー氏がスペイン北東部のコスタ・ブラバを訪問した際、数千、数万のムクドリたちが集合知の形を生むがごとくに密集して飛ぶ群れを目撃した。まるで意思を持つ一己の生き物になったかのように翼をはためかせ飛ぶさまは尊崇の念を抱かせるに十全たるものだった。

 ムクドリの群れの現象は生物学というより、物理学のほうが説明しやすい。

 「臨界点と相転移」に関する方程式で表すのがもっともしっくりくる。

 たとえば、水の臨界点は 373.95 °C (647.10 K), 220.64 bar。この条件を満たすと水は水蒸気になる。液体から気体へと相転移するわけだ。ムクドリの群れのなかでは、それぞれの鳥が互いにつながっている。そして、ひとつの群れは一斉に向きを変え、天で収斂し臨界点を迎える、その際に一己の生き物のように相転移する。


 それが霧生ヶ谷でも目撃されていた。

 脳食い虫のような宙から降り積む乳白色の白い六花のなか、

 葉等葉等ばらばらんでいた数千羽をくだらない野鳥の群れが鎧通のようなやじりに尖ったかと思うと、

 うつむいた人鳥のごときのそりとした浮腫むくんだ丸みを帯び、収斂。

 ついには扁平した頭部に先端の尖った大きな翼、一羽の猛禽類ウィップァーウィルに成り代わっていた。

 それが補陀落山に引き寄せられるかに降りてゆく。

 佐治は思った。今なら、野鳥の群れがいるにちがいない。

 

 

 風が凪いでいる。

 暗夜に霜の降るがごとく。

 愉快だった。インクァノック社製、22口径5.5mmエアライフルスクィッドサッカーをポンプするごとに撃てば当たった。

 みなごろしするわけじゃない。

 空気圧を溜め威力を上げ、撃ち放つ。

 ムクドリが木々を覆いつくさんという想像は外れていたが、鳥撃ちはついでだ。

 キュウリの古漬けを齧り、握り飯を頬張りながら水筒の茶を飲み、山を見る。

 なんもねえ。


 昨日のが山肌に積もっていないのはだろうか。屈巣狸沢、蟹沢と午前中に見て回ったが、ピンとこない。

 リュックからスコップを取り出し、地面をほじくって土壌を採取する。

 データロガー式のマグネタイト検知器を各所に置いてゆく。

 剛力自慢ではあるが、荷物が軽くなるのは大歓迎だ。

 ガイガーミュラー計数管のアラートは鳴らず。防護マスクが邪魔になってきた。

 気づいたことといえば、四つ足の気配が絶えていることか。とはいえ、冬の到来は近い。あなぐらに引き籠っていたって奇しくもない。

 佐治は岩と雑木に挟まれた童子沢を登り、聳え立つ火陰ほと岩の上に出たところ、影が落ちるのを見上げれば、出張った松の枝に一羽の巨きい禽獣がとまっていた。

「どれ、どれどれ、夜鷹がおるな」

 翼を畳んで1メートルはある。

 全身の羽衣は暗褐色で黒褐色や赤褐色、藍白色などの複雑な斑紋が入っていた。黒松と保護色なんだろう。佐治がおや、と思ったのは、羽のあちこちにがあることだ。色素異常の個体だろうか。キンイロヨタカという種はいるが、あれらは全身が黄色みかかっている。

 斑金瞳夜鷹、いや、斑金瞳大夜鷹。

 体の大きさに比例せず、三頭身に思えるほど頭部が馬鹿でかい。ぎょろぎょろと周りをねめつける金瞳。真一文字に裂けた蝦蟇口の中は真っ赤だ。

 撃つか。佐治の目が輝いた。指先は温もっており外しそうにない。

 アレがかもしれんし。

 夜鷹は禁鳥でなし。自分の中で理論武装する。

 おうとも。


 暗夜に霜の降るがごとく。そっと引き金を絞る


 キョキョキョ、キョ。キョキョキョ、キョ、キョ。

 ギェギェギェ、ギェ、ギェギェギ、ギ、ギ。

 テェテェテェテェ、テェテェ、テェケ

 テェケ、リリリ。テェケリリ!

 テケリ、リ! テケリ、リ!


 一の矢。羽が散った。頭部が弾け、肉を抉った手応え。

 不気味な叫び声が沢に轟く。

 佐治は巨大な夜鷹が墜ちてくる刹那を思い見やり、目をみはった。夜鷹は平気に太い頸を傾げていた。

「なぜ墜ちんのだ!」

 二の矢を放つ。ふん、頭部は思ったより毛が膨れて頭蓋には当たらなんだか。

 心臓部を抉りゃあ距離や落差に多少のずれがあろうとも急所のどこかにあたろうともよ。

 ポンプで空気を限界まで溜める。これ以上は銃身が保たない。

 五の矢まで撃ちこみ凶弾は全て命中するが、

 

 鬼魅が悪い。

「朝からはみたがな」

 童子沢を登る前に 屈巣狸沢から片づけ始めたのだが、猿掻茨の下生えから皮膚病を罹患し獣毛の剥げたししとも嬰児みどりごともつかない妖しいものがひょっこりと痴貌を覗かせ、佐治にぎょろりと眼を遣るやすぐに頭を引込めたのを思い出したのだった。にわかに沢を下りたくなった。夜鷹はまだ頸を傾げている。

 向こうのたにに続く岐径わかれみちを見やる。掛けていた指を引き金から離し弾を抜き銃を肩に引っ掛けた。リュックを担ぎなおし振り向いた。夜鷹はまだ頸を傾げている。

 径は渓に向かって低まっている。赤い靄が佐治の眼を曇らせた。渓の向こうも己の周りも俄かに鮮血をぶちまけたかのような真っ赤な毛氈を敷いた雛壇が一面に顕れて視界を満たした。渓の上も渓の下も眼に映る全てが雛壇に埋め尽くされていた。

 穢れと邪悪に満ちた、頭部から異様に引っ込んだ金壺眼かなつぼまなこが佐治の周りを囲んでいた。雛壇に見えたのは無数の、原始両生類の肉片を純粋な悪意と気まぐれな狂気でこね回し練りあげた小型の、冒涜的な背の低いの群れだった。 

持って帰れるかよっ!」

 リュックを投げ出し防護マスクを装着する。レインウェアの上からエマージェンシーシートをポンチョのように纏い、六本爪のアイゼンを履く。佐治は銃の台尻を構えた。

 一呼吸おいて台尻を当たりかまわず叩きまわしながら駆け出した。ゲーターに触れるものはアイゼンで力任せに踏み躙った。アイゼンのおかげで足を滑らすこともない。感情を殺し、ただ駆けた。触れるものは蹂躙する。叩きのめす。

「くそっ、くそっ」

 佐治は強靭な体躯で駆けるだけ駆けた。トレッキングポールがあれば、と思ったが、己の油断が招いたことだ。

「くそっ、くそっ、くそっ」


 小さい人間ミリ・ニグリかぁ、赤い霞が大気中で飽和し臨界点に達して相転移したのね。


 そんな風に分析するだろうな、彼女は。頭の片隅は狂人のふるまいをみせずに冷静に思考している。狂熱に浮かされてはいない。

 いつの間にか、佐治は雛壇を抜け出していた。赤い霞が纏わりつくこともなく、沢の流れが耳に心地よい。佐治は足を止めた。午後の陽射しが冷気をゆるゆるとほどいている。見慣れた光景。でたらめに渓を抜けたと思えば屈巣狸沢に出たのか。

 手ぶらで帰るが、だからどうした。

 屈巣狸沢を過ぎれば霧生ヶ谷峠の入り口。そして南に行けば霧谷区のルート6はすぐそこだ。

「厄介な目に遭ったわ」

 落ち葉を踏みしめる。食物月おしものづきの黄金に染まった木々の紅葉が現世への帰還を歓迎してくれているようだった。

 ふと、前に人影を見た。あの邪悪な小さいものではなく、自分と同じようにトレッキングの格好をしている。警告するべきか。ふらふらと上半身が揺れているが下り道ゆえのことだろう。下り道だ。この世のもの同士の気安さから追いついて声を掛けようと追いすがり、そしてすれ違った。

 表情の抜け落ちたあまりにも無垢で透明な光る瞳が佐治を見た。睨むのでもなく見据えるのでもなくただ佐治を見た。

 佐治は二た眼と見返すことが出来なかった。


 佐治が怪異に逢ったと知人の間でもっぱらの噂で、ついには月刊noumuの編集者がその実否を確かめようとした。

「別段、それほどでもない。死なぬ夜鷹も狂った雛壇もな、ただ、あの、は今でも忘れようがないのよ」



続く



関連話:「第七話:さりげなく大がかりな」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054881029941/episodes/1177354054881995611


関連話:「邪神耳袋:Takoyaki@TheUnderground」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885105674

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