第弐拾五話:金魚風鈴
「ナットー」
平安時代中期の学者
「ナットー」
百回は混ぜるように心がけている。かの魯山人先生に倣い、絹糸ごとき糸が納豆全体を繭玉みたいになるまでひたすら練る。醤油を入れるのはそれからだ。
あさつきをたっぷりと散らした納豆。出汁巻き。なめこの味噌汁……。
「ナトリンてばー」
からしもいいがわさびも合う。山椒の実など香気が立って湯漬けが実に美味くて。
「シーンジーン」
「アラトだ、僕の名は」
名取新人たる僕は顔を上げた。努めて無視しているとひたすら調子に乗りすぎるのが目の前にいる男の悪い癖だ。
「なんか用があるのか?」
ぶっきらぼうにあしらってやりたい。朝っぱらから市庁舎三十五階にある職員食堂まで乗り込んでくるとは。寮の隣人がいないからって居そうなところをどんぴしゃで襲撃してくるとは矢縞め。
「『[無名都市]』の【マジで】おすすめの心霊スポット教えれPart1349【発狂】で読んだんだけどさ」嬉々として話し始める。
「
「へ?」
「あやふやなソースってことさ信憑性のない」
「何云ってんだよ、皆云ってんだから」
皆、って誰だよ、
今夜の献立(タンポポオムライスの上手な焼き方)に始まり、
「風鳴の館って都市伝説知ってる?」
「いいや」
「六道区にある旧い幽霊屋敷さ、風鈴が死ぬほど吊ってあるんだ。その風鈴には死者の霊が宿ってて見たものを殺すって話だぜ。首吊り縄を見たって話もある。殺すたびに風鈴の数が増えてくってんだからとんでもないよなー。夜な夜な若い女性が吊って回ってるって」
「教えに来てくれたのか、心霊スポットをわざわざ」
矢縞の目が泳いでいる。案件か。
「あ! 夏秋さん」僕がふいに目を泳がせてひとこと鎌をかけてやると、
すっと矢縞の背筋が伸びた。だらしなく緩んだネクタイを締めなおしている。
「夏秋さんは知っているのか、そこが幽霊屋敷ってことを」
「な、ななんでななな、なつあきさんん」
「夏秋さんを連れて行って怖がらせたいんだろ?」
霧生ヶ谷市経済観光局観光振興課で矢縞玲音と夏秋春陽は同僚だ。矢縞は夏秋のことが気になっておりモーションをかけるために心霊スポットで騒ぎたいってところか。
「ふ、風鈴見に行くだけだし。風鈴がいっぱい吊ってある家は振興推進課としては見逃せないネタだし」町おこし、と矢縞はもにょもにょ云う。
「それなら、心霊スポットスレッドなんぞで情報収集する必要がどこにある?」
ぐぬっとばつの悪い表情を浮かべる矢縞。女の子を怖がらせることで側にいる異性に頼もしさを感じるつり橋効果を狙っている節がみえみえだった。
「ちょちょいと下見してくれよ。なあ、生活安全課の名取なら、市内の屋敷について詳しそうだし。幽霊とか得意じゃん」
得意でも詳しいわけでもない。生活安全課に種々の付随する業務内容がちょっと特殊な気はするけれど。六道区、首吊り縄、風鈴……。
「例え知っていたとして市民情報を横流しするほど阿呆に見えてるのか、僕は?」
「そこを一つ、なんとか。日定三日分、いや五日分で」
頼むナットー! シンジーン! いやっ名取さま、名取大明神さまー!!
どれだけテンパっているのか、拝むならまだしも、忍術の印を結ぶかに指を組む矢縞である。
市庁舎三十五階にある職員食堂の日替わり定食に僕は揺らいだが、結局職業倫理感がまさった。とはいえ寮友である矢縞に温情をかけてやりたかった。というか本当に知らないのか。矢縞の振興推進課は観光企画課と同じ経済観光局だろうに。観光企画課で「霧生ヶ谷市にまつわる怖い噂町おこし」のプロジェクトが立ち上がりかけて結局とん挫したのは夏秋さんの猛抵抗にあってのことだとは有名な話で。
「矢縞、やめておくんだ。死亡フラグだから」
間抜けな顔で死亡フラグと口の端で転がす矢縞。
「恐怖体験がつり橋効果を常に生むとはあさはかだよ。とある筋によればだな、夏秋さんはホラー系が死ぬほど嫌いらしい。分かるか。それでもいいなら日定一か月分で手を打ってやるよ」
まったく、好きな女の子の嗜好くらい下調べしておけよなー。
しょぼんと矢縞は回れ右をして去っていった。ようやく脳みそに血が巡ったのだろう。まぁ、僕も仕事をするか。
*
風鳴の館、こと比良野家は六道区の中でも篤志家で有名だった。
もとは沼沢地であった土地に宅地造成のために排水や交通のための溝渠を整備したのが比良野家だ。戦前、霧生ヶ谷鉱山で結晶質石灰岩いわゆる大理石や、花崗岩の採掘が盛んであって、副次的に石灰石、珪砂がふんだんに採れたことから、
元比良野硝子があった短冊形の敷地に建つ木造2階建、切妻造の屋敷はスペイン瓦を用いるなど、大正中期から昭和初期にかけて日本で流行したスパニッシュ様式をうまく取り入れた邸宅である。モルタルではない意匠の装飾が施された硝子の出窓が印象的な和洋折衷であった。
比良野家の家督たる
がっしりとした上背のある正和は七つも年下である成子をたいそう愛したが、それと同じように入れ込んでいたのが金魚である。
一坪程度の底の浅い舟を幾つも置き、これぞという稚魚を買い付けては「親魚の選定」「繁殖」「仔引き」と呼ばれる稚魚の育成からの選抜、品種改良を施していた。
頭部に
正和は独自にいろいろと研究をしており、
「みせてやりたい金魚の理想図があってな。成子、楽しみにしておれ」と云う。
そうは云いながら、翌年、二十五の夏、正和は徴兵に応じ出征した。両親はなんとか息子を戦地に送らずに済む方法を金策により模索しようとしたが、「名士たればこそ、国民の手本にならねば」と旅立っていった。
当初、朝鮮半島において陸軍の総予備として控えていると正和から手紙が来るたび成子は安堵していたが一九四三年、昭和十八年。太平洋戦線は拡充していき、ニューギニア戦線に動員されたとの報せ。
当時のニュース映画はニューギニアの自然環境を「
一九四五年八月十五日。終戦を迎えた。
ニューギニアに上陸した二十万名の日本軍将兵のうち、生還者は二万名。
正和は生きているのか死んでいるのかさえ分からぬ。死んでいるのなら最後はどうしたのだろう、未だ十八の若い身空である。まだ若いのであるから未亡人である必要はない、良いご縁があれば好きにしなさいと比良野の人間に云われたので好きにすることにした。
成子は待つことに決めたのだ。
金魚はすでに比良野家から絶えて久しい。
それならばと、正和が迷わず還ってこられるように成子は風鈴を軒下に飾るようになった。
溶かした硝子を共竿で巻き取る。
共竿を回しながらぷううと宙吹き。鳴り口を作るための口玉がうまく膨らまない。とはいえ三年も吹いていると調子が分かってくる。さおに針金を通し、つるし糸を通す穴をあける。息を吹き込む。ひょうたん型に膨らんだ口玉を砂地に置き冷やす。くびれたひょうたんの尖端を砥石で落としてぎざぎざの切り口にする。切り口によって風鈴は音色が変わるのだ。一つとして同じものはない。
風鈴の画題は決めていた。正和の好きだった金魚。
楽しみにしておれ、と云った金魚とはどのようなものだったのだろう。
成子は和蘭獅子頭を描いてみる。
肉瘤の大きいの、小さいの。赤いのや橙黄の。白いの黒いの。
鬣の大きさもいろいろと試してみた。
口玉の裏側から油絵具で絵付けをしては軒下に吊るす。
ちり、り
短冊が風に揺れると風鈴の中で金魚が泳ぐ。
復員庁ができ、ぽつぽつと復員除隊した男たちが帰ってくる。正和はいなかった。
水面になびく藻を植えつける。
楽しみにしておれと云ったのだ。ただの琉金ではなかろう。
ちり、り
どこそこで遺骨が見つかったと聞いては問い合わせる。正和じゃない。
ちり、り、ちり、り、ちり、り
時代はすでに昭和から平成へと移り変わっていた。
風鈴の数はとうに七十を超えていた。
お手伝いさんは今では訪問のヘルパーさんに代わっている。
ちり、り、ちり、り
ちり、り、ちり、り
風鈴を吊るした。
軒下ばかりではなく吊るせるであろうあらゆる箇所に。
*
僕が比良野成子さんから聞いた話だ。
風鳴の館、という都市伝説は知らなかったが、風鈴の音がうるさいと、ひっそりと廃墟然とした比良野邸に忍び込んだ若者が首吊り縄を嫌がらせに吊るした、と云う事案は知って聞き及んでいた。その若者が死んだのはバイクでの暴走による自損が原因であって、比良野邸とはなんの関係も因果もなく、まして殺すたびに風鈴が増えるなどあり得ない。さ迷う魂が無事に帰ってこられるようにとの願いの込められたものなのだから。
たまたまの出来事を匿名掲示板の連中が面白おかしく語っているのに矢縞が目を付けたのだろう。
それにしても夜な夜な若い女性が風鈴を吊っている、というのは本当だった。
吊っていたのは観光企画課課員の
住民たちにしてみても有らぬ噂でやれ幽霊屋敷だと若者たちがやってきてトラブルを招くより、夏の風物詩たる風鈴の音色が町おこしのきっかけになればと思ってくれたのだ。夏秋春陽は比良野成子が体の効かない代わりに成子の描いた金魚風鈴を退勤後の時間を使ってせっせと飾り付けていたのであった。
矢縞が企んでいたことを夏秋さんに話したら複雑な表情を浮かべたのち、そんなことしなくたっていいのにとうつむいた。幸せ者だ、矢縞のやつは。
土佐金、ポムポム、チョウビ、ベールテール、パンダ金魚。
正和の時代にはいなかった金魚たちが風に揺れている。
朱文金にコメット。花火の華、白波、朝顔、スマイルマーク。
*
大風が吹いた。
チベット高気圧の張り出しによって熱波に喘いでいた日本に幾つもの颱風が連続して襲来したのだ。パプアニューギニアとフィリピンの間、パラオ沖で発生した
生活安全課の課員として比良野家を訪れた。台風一過の翌朝に。成子さんは齢九十を越してはいるがかくしゃくとしており、介護施設には入らず独りで生活している。颱風の中、何事もなかったら良いのだが。
あらかじめ預かっていた門扉の鍵をあけて屋敷の軒先まできた。
そうしてあることに気づいた。
居なくなっている。軒下の金魚たちの姿が一匹残らず。
透明な風鈴が夏の日差しを受けて照り映えている。嵐とともに泳ぎ去ってしまったかのように。
玄関のノブに手をかける。鍵がかかっていない。
心臓が早鐘を打つ。彼女の寝床はどこだったか。
イグサの匂いの立つ和室の十畳間、皺一つないシーツの上、ふかふかの布団に枕を二つ並べて成子さんは眠っていた。男性物の浴衣を胸に抱きしめている。
古び、汗染みの浮いたぼろぼろの手帳が大き目な枕の横で開かれていた。茶色くかすれた文字は血液なのではないか。
*
「成子へ。成子は日本一の妻也と思つてゐる。短ひ生活のなか、苦労をかけたことへ詫びようもなひが、あなたと出会えて幸福だつた。幸福に暮らしてゐてくれるとよひのだが。毎晩生きながらへるたびにだうしよふもなくあなたを空の向こうに感じてゐる。書くことはうんと或る。
さごやしのでん粉は飽ひたと朋友が云ふので森へ這入つた。泉鏡太郎先生の小説に蛇くひと云ふのがあつたろ。此処では婦女子を驚かせるためではなく生きるために食ふのです。火がおこせないゆへにサシミで食ふ。滋養がつくと皆云ひます。
地面を這つてゐたらかふもりのごときばけものがゐた。
猿に見へたが長く伸びた腕は節足動物に思へる。虫だ。目の塞がつたユラユラ揺れる頭に湿つた和綴じめひた皮膚がだらしなひ。くろんぼにタバコをやると「あとばらな」と教へて呉れた。チカチカしては空気にトケルと云ふ。物理的に生き物は空気にトケルなどそんなことは出来ぬと頑張つてみたのだが生き物ではないと云う。だふ見てもかふもりなのに。
あとばらなは死者が成つた鬼で、生者の持ち物をさらひどこかへ持つて行くさうだから、私は思つた。さうだ、私もあとばらなに成ればよひのだ。
だうしやうもなくあなたが恋しひ。完成させたひ。私の頭で組み立てた設計図を。
和蘭獅子頭の真つ白なやつの頭に工夫するのです。天辺を御国の桜にするのはだうですか。成子。
幸福な妻にさして上げたく思ひながら、心残りでなりません。過去は忘れてだうぞ幸せに成つてくださひ。と云つてもあなたのことだから私を待つていて呉れさうで、さう思ふと勇気が出てくる。だうぞ御健やかに御暮らし下さひます様、さやうなら。
愛しひ成子さやうなら。ちやんと帰るからね」
*
生活安全課の仕事ではもはやない。
まずは眠っている成子さんを警察に届けて……。
それから、手帳はどうすればよいだろう。
ちり、りという音にぽちゃんと音が跳ねた。前に来たときはなかった金魚鉢の中を桜の花びらが赤く頭頂部に浮かんだ真っ白な金魚が二匹寄り添って泳いでいる。
昭和という時代を、太平洋戦争を、距離どころか死すらも超えて。
比良野正和と成子はようやく再会を果たしたのだ。
暑い暑い、平成最後の夏に。
(了)
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