第弐拾一話:血判経典

 

 これは、霧生ヶ谷史編纂室の常盤庚辰ときわやすたつが叔父さんから聞いた話を真霧間キリコが戦後再興の祖である祖父の証言と合わせ記録した話である。


 1945年。終戦間近の霧生ヶ谷市は京都と並び、

 1、古都であること。

 2、多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。

 3、真霧間科学研究所が連合国にとって顕在した脅威であること。

 4、原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。

 この四点をもって、第三の原子爆弾投下の候補地に挙げられていた。

 ウラン235の核分裂を利用したヒロシマ型リトルボーイ

 プルトニウム239の核分裂を利用したナガサキ型ファットマン

 それに続く、中性子線の放射量により建造物への被害を軽減し、人間や生物に放射線障害を与えるキリュウガヤ型オールドワン

 原爆投下用B-29トルネンブラが狙う爆撃手照準点。瑠璃家町、真霧間科学研究所。

 古都、霧生ヶ谷市は1945年当時、連合軍の気象観測機や科学観測装置装備の航空機グレート・オールドワンによる観測が困難であった。気象条件、磁場の乱れによる観測計器の故障が第一に挙げられているが、494平方キロの市全体が、実は国家規模による大掛かりな『人造濃霧発生システム』の実験場になっており、観測手の爆弾投下地策定を困難にさせていたのではないか、と囁かれている。

 菫色に発色する魔的な瓦斯が密封状態で与圧されているはずのB-29内に這入り、搭乗員全員を頓死させたという管制所コマンドポストとのやりとり。戦時中の尾ひれがついた都市伝説やプロパガンダではない。メリーランド大学隣接のアメリカ国立公文書記録管理局NARAのアーカイブス・ツーで機密解除されたのをご存知の方もいるだろう。


 KIRYUGAYAはである。

 復員後、多くの将兵が口を揃えて言った言葉だ。

 霧生ヶ谷市に落とさねばはない。


 帝国陸軍中央特種情報部が駐スウェーデン大使館の駐在武官を通じて経由し入手したアメリカ海軍のM-209暗号装置を用いた暗号解読がなされた日。

 8月11日。

 暗号解読作業において「nuclear」の文字列を読み解いた日。

 

 真霧間家による地下開発計画は戦後であるが、補陀落山の麓に諸牛頭ショゴスの穴は戦時中すでに発見されており、大多数の避難民はそこで戦火をしのいでいた。

 機密文書にも記されていない、真霧間家が秘密裏に開発した虎の子の七門、

 おぞましきミ=ゴの科学技術とを掛け合わせ産み出された、自律型九識十二センチ高射砲【紅霞】は高高度1万メートルから侵入してくる連合軍の爆撃機を霧などもろともせずに蚊トンボをあやすように撃墜していた。

 十三機のB-29が任務中行方不明、とNARAの公式記録に記述が残っている。

 とはいえ、戦術的な勝利が戦況を著しくひっくり返すものではない。


 


 陸軍の本土防衛計画には組み込まれていなかった【紅霞】の活躍は限定的なものであったとはいえ、霧生ヶ谷住民に幾ばくかの安堵をもたらしていた。

 誰が聞いても雑音交じりの大本営から流れるラジオをもってしても敗色的な空気を払拭するものにはなりえず、しかしそれは戦争の終結が間近である証左。


 叔父さん一家も諸牛頭の穴居から這入出し、我が家へと戻っていた。

 不愉快に耳を打つのは小蟲の羽音。

 灯かりが漏れぬよう窓に目張りが施され、掴めるほどの空気の澱み。

 人死にで栄養に富み凶暴に繁殖した蚊から逃れるために蚊帳が釣ってある。

 蒸し暑い空気に寝苦しさを覚えながらごろんごろんと寝返りを打っていた叔父さんがふと横を見てみると、

 一緒に寝ていた母がいない。

 厠にでも行ったのであろうか、

 弟はこの暑さにも関わらずすうすう寝いっている。


 なにやら音が聞こえてきた。

 いや、


 胸の奥が奇妙にさざめく調子っぱずれの狂った音域は、いつか御囃子宮で見物した雅楽の龍笛、龍のき声に近い気がしたが、あるいは、なにか人間の発声機能では表現し得ない言語を無理やり声帯から絞り出した、そんな声である。

 気配を感じ、隣を見やれば、弟が煎餅布団を剥いでぽかんと天井を見上げている。

 釣られて叔父さんも見上げた。

 五色十色入り混じった、なんとも名状しがたい極彩色の紐のような蚯蚓みみずのようなものが蠢き固まり天井を覆いつくしている。そんな得体の知れない紐の怪物が襖の隙間より部屋の外から漏れ這入ってきているのだ。

 襖の先から不可識な言語が聞こえてきていた。

 不意に弟が寝ぼけ眼でかくりと立ち上がり、部屋の外へと歩いていく。

 叔父さんも何かに引っ張られるように弟に続いて部屋を退いた。

 二人が導かれたのは四畳ほどの神棚の間である。

 出征したきりの父をのぞく、祖母、祖父、母、疎開してきた従兄弟らが一堂に会していた。

 神棚の前、

 巫女の家系である樫萩家から補陀落より嫁いできた祖母が手を合わせもごもごと経を唱えている。


 「家救去破、家救去破」

 「南無、無在等頭祝照布大権現」

 「家救去破、家救去破」

 「南無、無在等頭祝照布大権現」

 「やぐさは、やぐさは」

 「なむ、むざいとうとうほしょうふだいごんげん」

 「やぐさは、やぐさは」

 「なむ、ないあるらとうほうとうほだいごんげん」


 「下知げちされ賜う、神代かむよの御魂、葦原の中つ国、良き世で或るや、おかしくり滅し候」

(神代のみたまは、おっしゃられました。あしはらのなかつ国、よい世の中であれば面白くくくってほろぼそうと)

 「家救去破やぐさは

 下知賜われし補陀落の、此の世よりおかしき彼岸になきさあれば、いずれか世に我ら這入寄りて万事括りたもうや、捧げたもうや、いまださにあらず、さてはあらためて捧げたもうや」

(家を救い難を破り去らせください。

 補陀落におっしゃっていただいたが、この世の中はおもしろいあの世ではあらず、であるなら、いずれ私たちがこの世にひろがって、万事を始末いたしましょう。捧げましょうぞ。今はそうではないのです。さては、あらためて捧げましょうから)


 どうして皆がこんな夜遅くに神棚の間に集まって御経さんを唱えているんだろう、叔父さんが母に問うと、神棚の間に行かなくては、胸が騒いだという。

 普段は柔和な眼の祖母が、今は双眸に狂気を宿らせ夜鷹のごとく口裂を開き、血を吐きながら取り憑かれたかに何やらを絶叫している。

 お前達も手を合わせなさい、

 鬼気迫る母に言われ、弟と一緒に手を合わせ目を瞑った。

 相変わらずお経が続く。

 あらぬ方向を見ながら祖母を継いで、母が言祝ぎ始めた。

 「威ー安、威安ー」

 「威ー安、威安ー」

 神棚の間の天井も極彩色の渦で覆われている。「ソレ」が段々と部屋中を、自分達を侵食していく。黒闇闇たる巨大な気配までが愉快気に部屋中を跳梁始める。

 「威安ー、威安ー、愛坐当主、愛坐、当主」

 「威安ー、威安ー、愛坐当主、愛坐、当主」

 叔父さんもその声に合わせ、お経さんを唱えてみた。

 「いあー、ん。いあーん。あうぃざぁーと、おおすぅ」

 「いあー、ん。いあーん。あうぃざぁーと、おおすぅ」

 眠い目を擦りながら、あくび交じりに弟も真似している。

 いよいよ極彩色の渦は自分達を包み込み、目の前で合わせている掌さえも見えなくなってしまった。

 「いあー、ん。いあーん。あうぃざぁーと、おおすぅ」

 「いあー、ん。いあーん。あうぃざぁーと、おおすぅ」

 「威安ー、威安ー、愛坐当主、愛坐、当主」

 「威安ー、威安ー、愛坐当主、愛坐、当主」


 祖母を始め、祖父も母も従兄弟達もいつの間にか一心不乱に唱えている。

 二柱ふたはしらの、

 葦原の中つ国にまつろわぬ、補陀落の無窮に棲まいし旧き神の名を。

 やがて、屏風折りの経典を畳みにばっと広げるやいなや、

 やおら、祖母が神棚から匕首を取り出し左手首を刃で引いた。

 ぼたぼたと垂れる血液が手のひらをすぐに赤く染める。

 経典にばんっと手のひらを押し付ける。

 皺じみた血判が一つ。

 母が匕首を受け取り己の左手首を引く。血判が一つ。

 祖父が、従兄弟が、以前から作法を識っていたかに匕首で手首を引く。

 ばん、ばん、ばん、

 経典は大小さまざまな手のひらの血判で埋まっていく。

 弟が片手に持て余す匕首を拾い上げた。

 叔父さんは弟が目の前で華奢な左手首に匕首を奔らせるのをただ見ることしかできなく、ついには叔父さん自身も匕首を握りしめて左手首に赤く濡れそぼつ刃を押し当て、引いた。もみじのような血判が一つ、二つ。

 祖母が見ているって聞かせてくれたはこんな姿なのか。

 愛坐当主と呼ばれる極彩色の渦とは別に、皆に匕首を握らせ愚弄し嘲笑する為だけに手首を引かせて血を欲した狂気を司る常闇の魔神、

 補陀落の巫女である祖母が、おもしろい世になったらと一族の血で証文した神、無在等頭祝照布大権現……。

 祖母が今や真っ赤に染まった刀身を逆手に握りしめ、

「家救去破!

 南無、無在等頭祝照布大権現!」

 己の喉元を貫き通した。

 母がこときれた祖母の皺頚しわくびから切っ先を引き抜く。

 母は血の涙を流していた。

 唇を噛みしめ震えている。怖いはずがない。

 愉悦がため補陀落の血が流れるのを怖い神さまが待ってるんだから。

「おかあちゃんっ」

 叔父さんの呼びかけに正気を取り戻したのか、つかのま狂気に冒されていない母の澄んだ瞳が叔父さんと弟の姿を網膜に灼きつける。最期に口の端に上ったのは父の名前だったろうか。

「ああ、あなた……あなた、波濤の上で帽子を振っていますね……、

 補陀落の娘じゃなくって普通の乙女としてまた逢えますよう。良き世で。

 二人ともちゃんといきなさい。

 威安、愛坐当主!

 家救去破!

 南無、無在等頭祝照布大権現!」

 迷いなく、喉元を貫き通した。

 くつくつと灯かりのない神棚の間で闇が嗤った。


 1945年。8月11日。

 特種情報部が暗号解読作業において「nuclear」の文字列を読み解いた日。

 結局、中性子爆弾キリュウガヤ型オールドワンは霧生ヶ谷の地を放射能で冒すことはなかった。

 高度3万1600フィート、原爆投下用B-29トルネンブラの爆弾倉からオールドワンは投下され、時速200マイルまで加速したのちに爆撃手により電子信管も起動の確認がされている。垂直尾翼のひれが空気を掴むと禍々しき弾頭を地に向けた。目標落下地点は真霧間科学研究所。

 どちらが不幸かはさておいて、

 補陀落の女たちの言祝ぎとにより、つまらぬ世を壊すより、紊乱しきった地上世界の堕落を味わってから壊そうとナイアルラトホテップの神威が働いたがゆえに、殺戮の申し子たる中性子爆弾は、いずれかの世より招来された毘嵐風びらんぷうに絡めとられるや、次元の裂け目から無窮の中心に飲み込まれ邪妖神アザトースの栄養素としてつまらない役割を終えた。

 

 どれぐらい経ったのだろう。

 補陀落の巫女である祖母と母の死を目の当たりにした祖父が匕首をやたらめったら振り回して神の名前を口汚く罵り闇色の巨腕に打擲され畳に飛び散った後、

 げらげらと嗤う声が部屋中で反響した。見世物に満足したのか、ひとしきり嗤って闇色の気配は唐突に消え失せた。それを同じくしていつの間にか霧のように渦のように部屋中を覆っていた極彩色が消滅している。

 

 戦後、真霧間キリコの祖父である真霧間源鎧は、樫萩の巫女たちが成し遂げた功績を周知はせず、ねんごろに弔い、GHQからも匿い通した。


 弟だった父はこの時のことをさっぱり覚えていないのだがね。

 真霧間キリコ自身は常盤の父と叔父に会って手首に残る刀傷を確認した。

 失血で当時死ななかったのが不思議なくらい、骨まで達する深い、深い疵だった。

 補陀落の血判証文The Red Bookは霧生ヶ谷史編纂室で厳重に保管され、今は知る人もいない。



歴史改変前の「神棚の間」

第一話:神棚の間

https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054881029941/episodes/1177354054881029965

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