第壱獣惨話:骸指輪
ゲンマ・インクァノック社。
東にカルパティア山脈、南にトランシルヴァニアアルプス山脈を拝する山麓、ドイツ語で「
当時、オーストリア女大公であるマリア・テレジアにちなみ「マリア立坑」、あるいは土地の民から「ジプシー立坑」と呼ばれる立坑から産出したシルヴァニア鉱を研究する鉱山学校から出発し、今では合成ダイヤモンド生成で世界に名を馳す。
皆さんご存知の通り、天然のダイヤモンドは炭素が自然環境の中、高温高圧に曝されて誕生する。
さて、インクァノック社の
生成材料が少しばかり特殊で、
この世を離れ
つまり、
遺灰や遺骨、体毛や皮膚、爪、羽、蹄などから抽出した炭素を黒鉛化し、揺り籠の中、温度勾配法により半年ほどかけて生まれ変わらせてゆく……。
これはM嬢から聞いた話。
Yさんは
独身時代の彼女が当時霧生ヶ谷市民局に勤めていた当時のこと。
群生し発光する羽虫のように降りしきる粉雪に身を縮こまらせながら十六夜寮への帰宅途中、
声を辿り見やる。
喉の渇きを癒そうとでもして落ちたのか、仔猫が溺れている!
ブーツの靴底がとたんに侵食されおぞ気が足裏から背中へと這い上がる。Yさんは気づけば波打つ水面でたゆたう冷気もおかまいなしに水路に飛び降りて抱き上げていた。
首からほどいたカシミヤのマフラーでくるみこむ。
鼻筋を境にして「八」の字形に2色に分かれている、いわゆる「はちわれ」と呼ばれる様相の猫だ。
マフラー越し、拒絶するかに死に物狂いで爪を突っ張りYさんから逃れようともがき暴れる。
ひゅうひゅうと喉から洩れる息は今にも止まりそうに不規則で、だがしかし小さな顎を懸命に剥き出し突き立てようとする。
幼獣の爪と牙をかわしながらすぐに変を察した。
耳先が鋭角に削がれている。
はさみに因るものかすっぱり切られ、うじゃじゃけた裂けめが薄桃の肉で盛り上がっていた。
水路の水を吸い体毛が萎んでるだけじゃない。尾が焼けただれ細っており、
じゅくじゅくと爆ぜた火傷が膿と血漿の焦げた厭な酷い臭気を放っている。
人為的に火を着けられすぐに極寒の水路に投げ込まれたに違いない。
側溝の傍に自分のものではない足跡が雪に残っていた。今追えば残虐なる犯人に届くかもしれない。激しい義憤に駆られたYさん。
だけども、このままでは死んでしまう。温もりが消えかかっている。
知り合いの動物病院に駆け込んだ。
容態を確かめた先生は、
「この仔を生かす覚悟がありますか」と問うた。
前肢が折られている。
髭が切除されている。
どうみたって虐待された痕跡。
このまま薬で逝かせてあげるか、それとも苦難の道を行くのか。
Yさんは覚悟を決めた。
はちわれは「鉢割れ」に通じ縁起が悪いと忌避される時代があったが、Yさんは「エイト」と呼び大事に根気強く面倒をみた。
病院から引き取った当初はエリザベスカラーをむずかる元気もなく餌皿に口をつけなかった。毒を警戒してたんだと思います、とYさんはいう。
生前完治はならず。とはいえエイトは室内猫として精気を取り戻し、曲がった尾を振り回し、家中を跳ね、壁材に爪を突き立て、
人間への不信感は当然だろう。時間をかけてYさんはエイトとの絆を育んだ。
Yさんの傍で甘え、じゃれ、喉を鳴らし一緒の布団で眠るまで十年。
ついには午睡の門をくぐり抜け、眠りながら旅立った。
勇敢なエイトのことだ、幻夢境の
わたしは、わたしたちはちゃんと許してもらえたんだろうか。
YさんがM嬢からゲンマ・インクァノック社の
遺骨が200グラム以上あればよいという。
材料となる遺骨が遺骸から200グラム取れる目安は体重が8から10キロ以上。
エイトは生い立ちのわりに肉付きが良かったものの体重が5キロに満たなかったので、Yさんは自らの髪の毛で不足分を補い、ダイヤモンドを作ることにした。
アッシャーカットされた0.8カラットのコーラルブルー。エイトのうるんだ瞳にうり二つの珊瑚礁の照り映えは夢見の鍵。
さて、寝虎子庇護廻りとは、固有種である尾朧猫の種保存を始め、野良猫、犬、いのしし、烏といった、ごみや作物を食害し、糞尿をまき散らし、仔を際限なく産むことで人間の生活をおびやかす小動物を管理する市民団体である。人間側からのアプローチとして、生活ごみや田畠には食い荒らされぬようにフェンスやネットを張る、餌場を管理する、避妊処置を施すといった活動をすることにより、保健所の駆除、殺処分から免れさせ、霧生ヶ谷に棲息する動物と共存をはかるのが目的だ。
あるとき、寝虎子庇護廻りの活動の一環として「ペットたちとの別れ、共に歩む」というワークショップをYさんは開いた。終活の方法論のうち、くだんのインクァノック社を紹介し、亡くなった遺骸からダイヤモンドを生成してペットロスを緩和しようという趣旨だ。
霧生ヶ谷市民局の一角でおこわれたワークは盛況のうちに終わったが、少々困った事態になってしまった。参加者の一人であるB某が言うに事欠いて、
「嵌めていたら指から抜けなくなった。この指輪ちょうだい」
と持って帰ってしまったのだ。会場がざわついた。
プレゼンテーションの為に用意したエイトの指輪が持ち去られるなんて!
現場にいた人曰く、石鹸水やオイルに指を浸してみたり、指輪の上部の付け根に糸を巻きつけて指を痩せさせたりと一応の努力はしたらしい。
「リングって「輪廻」の意味合いがあるんだから切ろうものなら居つくよ」
とワークに参加していたM嬢が脅したが、
しょせん死体の出がらしでしょとケラケラと開き直っていたという。
M嬢がいながら結局持って帰らせちゃったんですか!?
私が義憤に悶えていると、M嬢が続きを語り始めた。
実はね、この時にYさんの指輪とは別に人造ダイヤモンドが盗まれていたのよ。
何を思い出したのかM嬢が痛快だとばかりに手を叩き引き笑いをしている。
ひひひ、きき、まあ聞きなさいって。ふっくっくっ。
インクァノック社の法人は幾つかあってね、ドイツのシュヴァルツシルト、カリフォルニア州レッドウッド、ノースカロライナのロアノーク島、ロンドンのクラウチ・エンド、ニューヨークのドーバーストリートマーケット、日本では霧生ヶ谷。
設立者のトラオム・クライハート曰く、
「
と手記に記しているわ。ウルタールに住まう賢人バルザイの弟子アタルが解読に成功した『ダルシスの第四の書』に言及があるとされている古代ティルヒアの技術を得た、そう言ってるの。死体から抽出した炭素を製錬し人工的にダイヤモンドにする技術を得たが、その報酬としてダイヤモンドは捧げねばならない。
Yさんが持ち込んだほかのダイヤモンドは全部私が用意したの。霧生ヶ谷で代表理事を務めているのが私の祖父だから。
ダルシスの第四の書?
ティルヒアの黒姫ヤス=リ??
霧生ヶ谷史編纂室の資料保管庫に籠って久しく、裏側から世間を観察していると自虐的な自分をもってして訳の分からぬ
「箔押しでそういうこと……吹いたとか」
「大法螺を信じて祖父が理事の椅子に座るとでも?」
続けましょ。
一週間ほどしてYさんの携帯電話に知らない番号がかかってきた。
出てみればBの母親と名乗り、
Bは入院しています。聖ノデンス病院に。
虐めてごめんなさい虐めてごめんなさいとうわ言を繰り返し、指輪が噛みついて取れないと昼夜泣き叫んでおります。
脅迫的なせん妄状態がいっかな治まらず、手当たり次第に物を投げつけ水道水を溢れさせ、しまいには布団の綿をすっかり引き裂き灯油タンクを部屋中にまき散らし、おのれ自身に着火しようとしていたのをすんでに止めたのです。恥ずかしながら私どものいのちを危ぶみ、余りにも手に負えないので入院させました。
指輪の経緯は承知しております。会ってやってはもらえませんか……。
嗚呼可笑しい。
Yさんと一緒に行ったわ。
看守二人の静脈認証でロックされ24時間モニタリングされている檻の中。暴れないように拘束衣。
空虚な感じがする白い部屋の中心にベッドが置かれ、彼女は皮膚をかきむしらないよう、両手指にミトン型の手袋が嵌められていた。
アラト君、ハンニバル・レクター博士は知ってる?
彼ほどスマートで賢くはないけれど。
クエチアピンフマル酸塩を投与しているとのことで、さなぎのように動きは緩慢になっていた。Yさんを目にすると憑りつかれたみたいにベッドごと身体を揺する。
東区瑠璃家町十六夜寮の首なし屍骸遺棄事件の犯人は彼女Bだとゲロった。
屍骸の切断方法や寮敷地内で見つかった奇妙な
最後の被害猫がエイト。十六夜寮に帰ってきたYさんに救われた……。
指輪を抜こうとするとB某は殊更に悲鳴を上げて蹲った。あっけもなくYさんのてのひらに指輪が戻るとB某は泣きじゃくりながら引き攣れた指を大事そうにぴちゃぴちゃしゃぶり始めた。
食い込んでいた部位には圧迫された輪の痕なんて無いの。代わりに獣の咬傷みたいに幾つもの穴が穿たれてうじゃじゃけてたわ。
問題は他の指。
全ての指輪を盗んだ犯人はB。
ご丁寧に左手の親指、人差し指、中指、薬指、小指と嵌めていたわ。Yさんの指輪は右の薬指から無事に回収できたけれど。残りの五つが取れない。
補陀落山で回収した、猪崇とされる銀鱗で鎧われた奇妙な甲殻類の鋏、
シュヴァルツシルトの地底洞窟で発見された
ハイチの
ミクロネシアのカロリン諸島沖でカツオ漁船が引き上げた
黒のガレオン船が持ち込んだ、目のないヒキガエルに似た灰白色のぶよぶよと肥え太った
インクァノック社は技術提供を受けた代償に、ヤス=リの飽くなき欲求を満たすべく、なんの死体を練成すれば
可愛そうなB!
私が彼女のミトンを外した時、皮膚がテラテラと黒光りしていたわ。指輪の輪をも飲み込んで汚穢な滲出液が手のひらを濡らしていた。甲殻類の鋏のように固くこわばった指はろくに曲げることもできずただただ生えているだけ。かと思えば、ぶよぶよとした
角質化した皮膚は黒い斑紋の鱗に変質し、左手首から先へもその侵食は進んでおりそのまま放置すればどうなるか思い巡らすのは朝飯前だった。
「たただ、すすけってくだ……ざ、いぃ」
Yさんは気丈にもエイトの指輪を彼女から外してあげたけど、例えれば、磯の潮溜まりみたいな腐敗臭に嘔吐して部屋を飛び出していた。
「無理よ」
「どぉ、じじ……て!! か、ええす、かかえ」
「貴女が軽率にも盗んだ指輪たちの所有者はこの世にはいない。指輪を外そうにも外せっこない。だから返そうにも返せない。ヤス=リの軍勢が貴女をどうするか見物」
「このま……じゃ死んじゃう」
「なんの。死にはしない。無様にいぎたなく変容はするけれど」
「いやらっいやらあああ」
「貴女をどうにかすることはできるわ」
耳元で優しく愛撫するようにくすぐるように彼女に囁いてあげたの。
「あ、悪魔めっ!!! 畜生ぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
「強制はしない。貴女次第」
それでどうなったんですか?
指輪は回収してインクァノック社籍の船があちらに運んだわ。
ただ働きなんてしないのアラト君知ってるくせに。
些末だけどね。
かつて彼女だった切断した左手首は。
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