第壱拾二話:ニューフェイスミラー

 書庫空調管理システム

 再熱空調方式

 一酸化炭素の含有率…10ppm以下

 二酸化炭素の含有率…1000ppm以下

 温度……22℃

 相対湿度……40% 

 気流……0.5m/s以下

 地下書庫空気圧……陽圧

 浮遊粉塵の量……0.15mg/m3以下

 紫外線防止型蛍光灯

 点滅方式による人感センサー

 硫黄サルファーガスリーク……定置拡散式

 マグネタイト検知……データロガーによる定点観測

 電動式集密書庫採用

 ……

 


 表に掲げられた杉板の扁額には『霧生ヶ谷史編纂室』とある。

 気密扉で仕切られたその先、資料保管庫。

 そこへ至る前室。

 高輝度放電灯アークライト、気密扉のさながら……   

 さながらアラトはゲートキーパーと言ったところか。

 関屋早貫町で起こった『鳴き声』調査記録の打ち込みを始めてかれこれ半日。

 無窮を思わせるだだっ広い孤独の中、PCのモニタに羅列される文字列と定期的に回るハードディスクドライブの音だけがアラトを包み込む世界だった。

 生活安全課の皆は午後から出かけるということで、アラト以外の全員が課を出払っている。用事があれば内線でアラトに繋がるので、こうやって持て余した暇を打ち込みに費やしている、そういうわけだった。

「トイレいこ」

 保管庫は独特の空調が効いているから涼しくはあっても、

 人の手を渡り歩いた旧い書物には毒物が滲みこんでいると耳にしたことがあるが、気密された扉の向こうから得体のしれない思念の残留体が透過してきて、前室にまで菌類の手に似た何かを伸ばしアラトの首に巻き付いてくる。

 そんなことを想起されるほど、とにかく喉が渇く。尿意も催す。

 持ち込んだペットボトルレモンティーも朝から三本空けた。

 特段腹は減らないが、生理現象だけは別だ。地下二階の奥まった保管庫の前室を退散して、生活安全課へと続く階段を上がる。肩こりが酷い。大きく首を傾げたり腰をひねりながらトントン登る。     

 

 アークライトの下から這い出てみれば目が慣れないからか、

 暗い。

 

 四本目のペットボトルをトイレ脇の自販機で購入し、姿見の前で髪の毛を撫でつけながら一口飲もうとしたら、「もし」と声をかけられた。

「はい?」気付くと姿見に矍鑠かくしゃくと洋装を着こなしたお爺さんが映っていた。「九識のかたですかな」

「九識……」

 霧生ヶ谷史編纂室を「九識」と呼びならわすのは珍しい。

 だからだ。

 そもそも生活安全課の課室の奥にまで来れるのだから関係者だろうとアラトがぼんやりしていると、「私は……」とご老人が話しはじめた。

「十倉宗一と申します。

 私もここで働いておったんですが、随分と前に大病を患い、已む無く仕事を残したままでここを去りましてな。今日は日柄もよく調子が良いのでここまで足を運んだというわけでして」

「あ、名取新人と申します」

 これは失礼に当たると後ろを振り返ると人の輪郭はあるがなにせ目が萎えて形がはっきりと見えない。姿見にははっきりとお爺さんの姿が見える。照明の加減だろうと気にせずに薄暗がりのうずくまりに頭を下げて話の続きを聞いた。

 唐変木でもないのでアラトはソファで菓子でも、と誘ったのだが固辞する。

 わだかまる薄闇相手に話を聞いているのだが、鏡にはちゃんと老人の姿。

 話題に上ったのは、忌まわしき『猪崇講いたかこう』の秘密や、あなや不可識ふかしきな『屍解鬼の腕』などアラトが資料を読んだことのあるものが大抵だったが、『能得あたうの尾朧猫』『舞端守照主ぶばすてす』との結びつき、とりわけ『漣玻璃さざなみはり』にまつわる逸話は耳新しく、調査敢行せねばと思わず小一時間ほど聞きいってしまった。

 トイレの前での立ち話で、とはいえ、なんだかいつもやっている業務引継ぎみたいだとアラトは内心苦笑していたが、大先輩がする話の内容はどこまでも面白く興味が尽きない。

「さて、と」姿見のご老人は年代物であろう銀のくすんだ懐中時計をポケットから引っ張りだし、そろそろお暇させてもらいますと、頭を下げ、思い出したかのように「我が家の書庫にあるマイクロフト・ホームズの『無関心館の約定』、

 四百八拾頁に今日持って来ようとして置き忘れたものが挟んであります。機会があれば我が家に受け取りにきてくだされよ」と再び頭を下げ、では、とカツンカツン杖を打ち鳴らしながら去っていった。


 定時。

 アラトがタイムカードを押して帰ろうとすると「よう新人、留守番ご苦労さん」と課長の常盤を始め、生活安全課の課員がブラックタイで戻ってきた。

「どなたかの告別式だったんですか?」

「いや、法事だよ。お前さんは知らんだろうが昔の課員で私にとっても大先輩に当たるかただ」十三回忌御礼・十倉家という大きな紙包みを開け、課長が中の塩を気密扉の向こうに撒いている。

「法事にお清めって思うだろ、違うんだな。十倉さんは生家が塩問屋なんだ。保管庫に溜まった滓を祓うにゃうってつけってな」

 清め塩ならぬ特製極み塩。そう言ってはアラトの襟首にも塩をまぶしたてる。

 渇きに締め付けられていた喉の違和感が消えた。

「しょっぱ、十倉……? 十倉宗一というかたでは?」

「ん? なんで新人が知ってるんだ」

「いや、あの多分、さっきその人とお会いして話を伺っていて」

「自販機の姿見のとこか?」

「はい」

「そうか年中行事みたいなもんだ、そうかあの人も本の虫だったからなぁ。そうか今年もか」

 そうか、そうか。

 課長、その人の家教えてください!

 アラトがせがむとあっさり教えてくれた。まだ家人が法要を続けていらっしゃるから邪魔せんようになと、それから、

「俺ン時は猪崇講 潜入調査アンダーカバーだったなァ」

 常盤課長が独り言ちた。

 

 アラトが十倉家に着いたのは午後の七時前だった。六月に入ってからはまだ陽も高く、梅雨前の空天気で爽やかな風が吹いている。十六夜寮の近くに在って、知らず知らずのうちにアラトが何度も目にしている瀟洒な家が十倉家だった。

「ごめんください」アラトが訪ねるとにこやかな老婦人が応対してくれた。

「あらあら、宗一さんが職場にねぇ。まったくあの人は十三回忌くらいうちに帰ってきたらいいのにね」ころころ笑う。

 この部屋ですよ。と案内された部屋はまさに書架と文机しかない、本の虫にはまったく堪らぬだろう部屋だった。

 マイクロフト・ホームズとはディオゲネス・クラブ(「来客室以外で口をきいてはいけない」等の変わった規則が存在する)の発起人でシャーロック・ホームズの実兄である。

 小説の人物が著した本というから偽書なのだろうが、案外、自分の性質を言い当てた本に何かを紛れ込ませたのかもしれない。

 アラトは「H」の項目を棚から順に探し、目的の本を見つけた。古色然とした年季の入った分厚い本である。「それ」は引用文献の項目に挟まれていた。

 霧生ヶ谷市の古地図。

 まだ霧谷区が合併前のもので、怪異が起こった場所には印があり、「無」「在」「不」「明」と四項目に分け記述してある。

 老婦人は私どもには必要の無いものですからと古地図をアラトに預け、良かったら線香の一本でもあげてくださればという。アラトも是非にと、焼香をし、仏間で朗らかに笑う在りし日の十倉氏の写真に手を合わせる。

 頑張りなされよ、そんな言葉と共にポンと肩を叩かれたその手のひらの温もりが寮に辿りつくまで消えなかった。


 後日。

 十倉老人の話に基づき、アラトは解体業者の手が及ばず放置されている各務荘にて、九識の手順に則り『完全に曇った漣玻璃レンのガラス』を回収。

 霧生ヶ谷市民局を通じ、に調査保護を依頼し、無事収容されるのを見届けた。  

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