第壱拾一話:デスフェイスミラー
わたしは花房。
つい先だって関屋佐貫町に引っ越してきた雌猫である。
体毛に花びらのような紋様があることからそう名付けたのだと、ご主人である小菊はそう言って、わたしを始終抱きしめては逃れるわたしの腹に顔を埋めて「もふもふー」と可愛がっている(つもりなのかな。ご主人は優しいとはいえ、毎度飽きないものだと常々思う)。猫成分を吸うのだとか。わけがわからない。
わたしとしても、時には安住の地で休息したいと思うことがままあって。
そんなとある夏の夕暮れ。
太陽の灼熱から退散して軒先の日陰でゴロゴロしていると、
霧生ヶ谷市の猫族を統べる、黒猫のゴッフさんが雲助さんを連れ我が家を訪れた。彼女の名前はゴッドファーザーに由来するそうだが、確かにそんな風格。
「そろそろこっちゃにも馴染んだ頃やろ。顔見世にいかんかえ?」
「にゃあ?」
「多分、前の住処にもあっただろうけど集会所がな、ここにもあんのや」雲助さんが言葉を補う。
「せやねん。ええ頃合や思うての。ちょいと遠いけんどな、東区に各務荘っちゅうアパートの廃屋があってやな。野良の溜まり場になっとるから私ら猫族の集会所としても使っとるのよ」
ぶわあっと私の背中が膨れ上がった。とぅんくと胸がときめく。
鼓動が高鳴るのを意識する。決してご主人のことが嫌いなのではない。むしろ境遇のよさには感謝すら覚えるほどに。
とはいえ、時には野性がうずく。
狩りの本能が目覚めてたまに鼠なんぞを獲って小菊に見せに行こうものなら、ギャーっと叫んで逃げ回られてしまう。こんな時、人と猫との境界という類いのことを少なからず考えてしまうのだ。
「どないや。猫の気まぐれっちゅうて時には
都市伝説とやらはこうだ。
各務荘の二階へ上がったところに安アパートらしく洗面台がある。
そこへ
自分の死ぬ時の顔が映る。
というものだ。人間達の間でちょっとした肝試しスポットになっているそうな。
「時折り、人間達がおちょくりに来るけども、まぁ言ってしまえば彼らにとっても都合のええ溜まり場なんやろうな。懐中電灯や菓子、カラースプレーなんぞ持ってな。交尾やいたずらしていきよる。せやかて普段はのどかなものやで。ふた月ばかし私はご無沙汰やが、ちょっと気になることもあってなぁ。
最近、東区のメグとか佐助とかエドガーとかの姿をとんと見やんくて。霧生ヶ谷全体を把握してるわけやあらへんからなんとも言えんけど、まだまだ行方不明になっている
どいつらも各務荘周辺を
「どやどや、こわなったかもしれへんけど、興味、あるやろ?」
雲助さんが髭をしゃくりながらニンマリ笑っている。心底こう言う話が好きなのだろう。
人間の小菊にしたって、ゲームで腐り果てた人間の屍骸をマシンガンで撃ちまくるのが好きなのだ。怖いもの見たさ。わたしの中の野性が恐怖を軽々と乗り越えて、ゴッフさんの話を聞き終わる頃にはすっかりと乗り気になってきていた。なんでも霧生ヶ谷市の猫族の入会儀式であるとかで肝試しするのが慣例なのだとか。
「善は急げや。ほないこか」
北区から中央区へ移るごとにチャーミィさん、ペチコさん、正宗くんなどを仲間に加え、東区の霧生ヶ谷市公舎の独身寮、十六夜寮に一旦お邪魔した。
「ゴッフー!」
其処にはゴッフさん曰く、
頼りない間抜けでへっぽこの腰抜けタコスケなアラトさんが待ち構えていた。
手にミストマートの買い物袋を提げている。
くわっと、これでもかと言わんばかりに金色の猫缶を突き出す。ともあれ、わたしは猫缶というものを食べたことがない。いつも小菊の母上が鶏の笹身を煮付けたものをほぐしてくれるので、レトルト食品というものにはあまり縁がないのだ。ご主人はいつもわたしを膝に乗せてはポテトチップスをパリパリしたり、ヌードルをよく啜ってはゲームに興じている。一度、ヌードルの残りを興味本位で舐めたことがあったが、舌が痺れて麻痺しそうになったものである。
クルルルと喉を鳴らしゴッフさんが近づいていったが、すぐさま、さも興味なさそうにそっぽを向いてアラトさんから遠ざかっていく。
「ま、待ってくれー。他にホタテのひももあるんだー」情けない声で嘆息している。アラトさんのスラックスの両膝がアスファルトに着いた。あらまあ膝が汚れないのかしら。言われて見れば確かにへっぽこな感じ。ゴッフさんの評は総じて正しい人間観察をしていると思う。
シューッという呼気と共に、地面に崩れおちたアラトさんのビニール袋を一斉にゴッフさん、雲助さん、チャーミィさん、ペチコさん、正宗くん、そしてわたしは勢いに押されて襲いにかかった。
バリバリと音を立てて袋が裂ける。
「あーっ! 晩酌の鮭の刺身に
もう、手遅れ。
生魚が袋に入っているとゴッフさんは見抜いていたのだ。
連れない装いをして隙を見て襲い掛かる。半野良のゴッフさんにこそ相応しい戦法。恐るべし。
我々は思うがままに空腹を満たすと、呆けへたり込んでいるアラトさんの周りに集まってザリザリと顔や手を舐めて慰めた。ゴッフさんが一瞬だけすりっとアラトさんの膝に頬を寄せてにゃあと鳴く。束の間のことを最早忘れてエヘヘヘと悦にいっているアラトさんは本当にわたしたちが好きなのだと思い若干心がとがめた。
空を見上げれば月が昇っている。晴天続きで上弦の金色が眼にまばゆく映る。
「もう少しやさかい」
ゴッフさんが先頭で魚鱗の陣。わたしが半歩下がって幾多の露地を渡っていく。
随分と歩いたが、思わぬ御馳走で皆の士気は洋洋だ。チャーミィさんやペチコさんとまた今度会う約束などをしながら穏やかな気持ちでの道行きだった。
小菊のこととは別に、猫にだって社会生活があるのだ。腹に顔を埋められる行為はペチコさんのところも同じくで気苦労を分かち合える、なんという素晴らしさ!
市街地から少し外れた各務荘は、一見普通のアパートに見えたが、良くみると塗装が剥げていたり、トタン屋根の一部が崩れ落ちたりしてやはり廃墟然としていた。
赤錆びたチェーンが掛かっていたが、扉がなくてはただのお飾りにすぎない。
くぐって中に踏み込むと線香特有の甘ったるい香りが嗅覚をいたく刺激する。傷んだ壁のいたるところにカラースプレーで乱雑な紋様が規則的に描かれており、それを覆い隠すかのようにグラフティもどきの猥雑な人とおぼしき顔が無数に邪悪な笑みを浮かべている。ビールの空き缶が転がっていると思いきや、ペットボトルが階段に等間隔で並べられていたり。荒らされているのにどことなく生活臭がするのは気のせいだろうか。古びて黄色く垢じみたマットレス。萎びて色あせたコンドーム。壁や廊下のいたるところに穿たれた穴。空気が動くというか、言ってしまえば猫の第六感とでもいおうか。
「へんやな。今夜は集会日のはず」雲助さんが呟く。
「まだ来てへんのやろ」
カランと音がした。
正宗くんが何かを蹴ったのだ。猫の缶詰がなぜここに?
「集会所のこと知っとる人間はそうはおるまい、はて」ゴッフさんが呟く。そして足取りが慎重になる。髭の付け根がむずがゆい。
「以前と違う。気ぃつけえ。なんやらあるで。ここには」
ゴッフさんの言葉に従い、皆の足取りが遅くなる。
確かにおかしい。
注視してみれば、目立たぬよう、だがしかし鋭く牙を
小菊といつか観た、テレビに出ていた狩猟具のトラバサミが到る所に設置してあるのだ。挟まれたら私たち猫の骨などあっという間に砕け散るだろう。更に気に喰わないのはトラバサミから乾ききっていない血臭がすることだ。
二階に上った途端、正宗くんが悲痛な声で呻いた。
「佐助っ!」
壁には五寸釘が打ち込まれ、
喉を切り裂かれた鯖模様の佐助が麻縄で吊り下げられていた。その下に青いバケツ。佐助の血が滴っている。トタ、トタと溜まった生命の残滓が弾けている。最前まで生きていた佐助の命が流れ出しており。
「もう手遅れや。それにしても誰がこんなことを。人間め」
トラバサミで肢を挟んだのだろうブランとちぎれかけた佐助の右前肢が非道く痛々しく物悲しかった。輝きを失った双眸の周りが濡れている。
「ゴッフ、これって……エドガーの」オレンジの首輪が落ちている。所々に血が滲み、やはり吊られたのかと思うとぶわっと総毛だった。
「私たちのことを知っとる奴がいよるな。しかも性質の悪い奴っちゃ。そこらのガキどもが悪ふざけでしでかすような殺しが目的じゃあない」
しかし、
ゴッフさんは臆さず、何事も無かったかのように、ほないこかと、つたつたと闇へ滲むかに背筋を伸ばし歩いてゆく。
「何はともあれ花房の集会所デビューやさかい」
「さぁ、ここや」
二階の
嵌め殺しにされた鏡は別段珍しいものでもなく、ただひび割れても曇ってもいないのが廃墟において不思議ではあった。
鏡は人の目線に合わせて作られているので、猫族の視点からすれば後ろずさって見上げてみることになる。
「私らの仲間入りする儀式みたいなもんや。
花房、もうじき一時。そこで座って待て」
ゴッフさんの瞳が有無を言わさぬ妖しい
猫族の体内時計は正確無比。
故にわたしにももうじき午前一時だということが分かった。だが、普通の状態ならともかく、
零時五十六分。ぬぁ。
五十七分。ぬぁぬぁ。
五十八分。ぬぁぬぁぬあ。
五十九分。ぬあぬあぬあぬあー。
何の意図か、仲間が鳴き始めた。明らかに確固たる何らかの意思を持って。
それに相まって不愉快な、
強い酒精と不潔窮まる体臭を感じた。廊下が軋む。調子っぱずれな鼻歌。
五十八、五十九秒、零分。
鏡を見上げた。
壁に叩きつけられたような血痕の仇花が鏡に毒々しく咲いている。
あんな血塗れになってわたし……死んじゃうのか……。
にわかに温もりを感じた。身体に堪える夏の陽の残照ではない。眠気を催すようなうららかな春の陽気。あくびするかのように時間が、伸びた。不意に体内時計がリセットされたかに。わたしはとまどい瞬いた。時間に色彩があり、その色彩の流れが一分という時間を引き延ばしていた。
「花房避けい!」
ゴッフさんの声に精神よりも身体が反応し、わたしは飛びのいた。
直ぐ真上をブゥンっといびつなフライパンがスローモーションで空を切る。
うかつ! 儀式に集中してて不穏の接近を許してただなんて!
酔眼で血走った目元がおぼつかない垢じみた男の浮浪者がそこにはいた。
片手に清酒のカップ。片手にひしゃげたフライパン。
「毎度ォご馳走さん」ゲラゲラと下卑た哂いが耳を汚す。
何かを咥えてしゃぶっている。
いやしくめくれた口唇から茶けた骨片が突き出ている。
「てめえらのご同類は俺らが全部喰っちまったよォ。
ご丁寧に血抜きしてナァ。
鍋に良し。串焼きにして良し。煮込んで良し。干して良し。なまで良し。三度のメシにゃあ事欠かなかったぜい」げふうと
垢じみた男はうららかな春の陽だまりのように間延びした時間の色彩に気付いていないようだった。わたしもゴッフさんたちも気付いているのに。
ぐぬああああああああ。
ゴッフさんの声が轟く。わたしに眼を取られている浮浪者の隙を突いてゴッフさんをはじめとする全員が突進した。
たたらを踏んだ男が鏡の正面に立ち位置を変え、
酔眼が鏡を睥睨し凄む。
「ああん、俺ぇ? んや便所鏡かよ。てめえも喰われたい口かあ? それ喰ってやらあ。そしたらイカモノ芸人に……」
浮浪者は最後まで言葉を言えなかった。
とまれ、鏡の中から滑らかなる光沢をおびた黒闇闇の人の手をした、しかし掌は明らかに猫の毛並みが溢れた肉球が男の腰を掴むとベキリと音を立て圧し折り、逆ヘの字へと姿を無残なものに変えた。男の口から胆汁混じった血泡が沸き、急な圧で内臓がもんどり打って土手っ腹に開いた孔からむんにょりとまろび出てくる。おぼつかない手つきで腹腔に赤黒いでろりとした内臓を押し戻そうとしているが男を握りしめる黒色のてのひらが容赦なく内臓を絞り出していく。
タン!
鏡に向かって矢が飛んだ。夫婦ものだったのか、廊下の暗がりからボウガンを構えた男と同じような風体の女が髪を振り乱しながらちくしょうと叫びながら黒暗暗たる鏡から突き出た手に握り潰された男の元へ走っていく。鏡から奔流してくるうららかな春の陽だまりのような時間の色彩が限りなく静止した一分に女を取り込んでいた。女が真正面に鏡と対峙する。
鏡面の奥から伸びた剥き出しの爪が女に向かって袈裟懸けに奔った。ぎりっと
ぬああん にあんぶばすてすと のあんぬす ぬぶれぬくふふ
ぬああん なあんねゃふふ ぬあんふぶぬすふす なあんすふ にゅぶあぬくく
鏡面の内側、外宇宙から響き渡る何百何千もの、うららかな春の陽だまり、静止しつつも流動する時間の色彩。遠き地より響く伸びやかな嬌声。
焦熱を帯びた生への感情、せつなの虚無を埋め尽くす同胞を殺戮された怒り。
人の持つ言語聴覚の周波帯では聞き取ることの出来ぬ猫族の咆哮が引いては寄せ、引いては寄せる。
そして。
「あががぁ、ががみに。ががみに」「だずげでぇぇあんだぁぁぁ」
急速に伸びきっていた闇色の両腕は収斂し、鷲掴んだ男女の身体もろとも鏡の中に吸い込まれていった。つかの間、鏡の表面にさざ波が立ち、虹色に輝く強壮な王者たる真祖の瞳がわたしを射すくめる。ゴッフさんたちは畏敬を示すかにこうべを垂れていた。わたしも促されることなくすいっとこうべを垂れていた。
急速に伸び切っていた限りなく静止に近い流動的なるうららかな春の陽だまりのごとき時間が、別の理からのくびきから放たれたかのように元ある場所へ戻る。
体内時計がかちりと歯車を回した。
1時1分。
「零分と言っても実質六十秒ある。その間に男を引っ張り出せればよいと思った。丁度いいタイミングで出てきてくれて。莫迦な男。それに女。
私は奴に鏡を見せたれと思うたんよ。仲間の屍骸や廃屋にゃ不自然なトラバサミ、そして目張りのしていない鏡。浮浪者っちゅうのは案外用心深くて情報に通じている。せやのに、鏡にはなーんも目張りもしてへん。都市伝説を知らんか、知っとっても信じとらん。始末できると思った」
にゃふんとゴッフ。言い草は確かにその通りだが、同時に猫族たちの持つ冷静さにわたしは驚嘆していた。とっさの思いつきや推理でそこまでこなすゴッフさんが霧生ヶ谷市の長であることをまざまざと思い知らされた瞬間だった。
「でも……わたしは見たんです。壁にべっとりと付いた血痕を」
「ああ、それね」ペチコさんが説明してくれた。猫の視線だと鏡を見ようとしても己は映らない。真正面の景色しか反射して見えないのだと。確かに振り返り、後ろの壁を見ると袈裟懸けに咲いた彼岸花が飛び散っていた。そうだったのか……。
「異界に通じるというレンのガラスのみわざ、久々に拝んだわい。
それにしても皮肉なものだの。我らが同胞を喰ろうたからウルタールからスフィンクスよりも旧い眷族の長、ブバスティス王を呼び込むとは」ゴッフさんが名状しがたい笑みを浮かべながら何やら不可識な名前を言祝ぐ。うららかなる春の陽だまりのような時間の色彩や引き延ばされた限りなく静止に近い一分については分からずじまいだった。ゴッフさんは説明しなかったし、わたしが興奮状態であったからそんな風に感じただけなのかも。ふうと息をつく。
チャーミィさんがゴッフさんて物知りでしょと訳知り顔で鳴く。わたしは恐怖と興奮がないまぜになった声をあげ、ゴッフさんにこうべを垂れた。ゴッフさんがわたしの顔をざりざりと優しく舐めて毛並みを整えてくれた。政宗くんがなんだか羨ましそうにわたしを見つめる。
数日後、平穏となった各務荘で改めて歓迎会を受けた時には、もう鏡はなかった。
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