それって紛い物ですか?

御手紙 葉

それって紛い物ですか?

 僕は放課後、人気のなくなった校舎を歩きながら、早く予備校に行かないとな、と少し急ぎ足になっていた。早矢香はもう予備校に向かったのだろうか、と双子の妹のことを気にしながら、昇降口で靴をつっかけていると、ふと今考えていたばかりの早矢香の姿が校舎の裏の方に見えた。彼女はどこか固い表情でまっすぐ前を見つめながら、すぐに姿を消した。

 あいつ、どこをほっつき歩いているんだ。もうすぐ模試があるのに、何やってるんだよ。

 そう思いながら、すぐに僕は彼女の後を追い、砂利が敷かれただけの殺風景な校舎の裏手を進んでいったけれど、ふと早矢香が校舎の中央の辺りまで来て、足を止めた。そして、大きく、すうっと息を吸い込むのがわかった。僕はそれが、本当に何か大きな決断をする時の彼女の仕草のように思えて、釣られて足を止めてしまう。

 何となく、声を掛けづらい雰囲気があった。そのまま彼女は前へと踏み出し、そして一言、「遅れてごめんなさい」とつぶやいた。僕は息を詰め、壁沿いに思わず隠れてしまいながら、何だろう、と耳を澄ませた。すぐに彼女が、「結論から言うわね」と誰かに本題を切り出したようだった。

「ああ。俺の想い、伝わったか?」

「ごめん、吉山君。私、もう好きな人がいるんだ。だから、あなたとは付き合えない」

 僕は思わずぶっと噴き出しそうになって、慌てて口を抑える。よりにもよってあの早矢香が、誰かに告られたのか?

「好きな人が、本当にいるんだな?」

「うん……本当に好きなの。その人のこと、ずっとずっと追ってきたから。だから、私はあなたとは付き合えないの。ごめんね」

 早矢香は本当に申し訳なさそうな声でそう言うと、じゃあ、と頭を下げてこちらへと戻ってくる。僕は慌てて引き返し、昇降口の前で突っ立って早矢香を待っていたけれど、彼女はいつもの澄ました表情で駐輪場へと歩き出していた。

 僕はあまりのショックに開いた口が塞がらなかったけれど、そっと壁際から身を乗り出すと、彼女へ「早矢香」と囁いた。彼女は少し驚いたようにこちらに振り向き、そして僕の顔を認めると、ほっとしたように表情を弛緩させた。

「お前……人生に一度しかないチャンスを、よくもあんな無碍に……」

「あんたね! 聞いていたの!?」

「相手もイケメンだったし、もうこんな機会は一生来ないかもしれないんだぞ?」

 黙れ! と僕は思いっきり足を蹴られた。彼女の蹴りは骨にも届く強烈なものだったので、僕はしばらく地面に座り込んでしまう。

「いってえ……まあとにかく、こうして早矢香にも言い寄る男がいたことに、兄は嬉しいな」

「あんたが嬉しがってどうするのよ。それにね、私、告白されるの今回が初めてじゃないから」

「小学生時代に一度、とか?」

「違うってば! 中学生時代に三度、高校になってから二度あるのよ」

 彼女はそう言って呆れたように首を振っていたけれど、僕が立ち上がるのを見守ると、そっと歩き出した。

「そんなことより、予備校行くわよ。勉強しなくちゃ」

「勉強どころじゃないだろ。これは、スクープだ」

「誰に報道するスクープなのよ!」

 そんなことを喧しく言い合っていたけれど、ふと僕はそれについてぽつりとつぶやいた。

「でも、早矢香、好きな人がいたんだな。一体、誰だよ?」

 彼女は少し押し黙り、そして「私が本当に、世界で一番大好きな人」とつぶやいた。

「まさか、このお兄ちゃんを最高の兄として溺愛し……」

「んな訳あるか! 私には追いかけている男の人がいるのよ」

 彼女はそう言うと自転車に跨り、さっさと漕ぎ出してしまう。僕は慌ててその後を追い、自転車で歩道を突っ切っていきながら、ふと考える。

 早矢香の追い続けている男なんて、本当にいるのか? 恋愛のレの字もないこいつが、好きになる男なんて……。そう思いながら、僕は大きなクエスチョンを頭に掲げ、夕方の薄暗い街を突っ切っていくのだった。


 予備校に着いて授業を受けながら、僕は早矢香のことを考える。いや、追い続けている男って誰なんだ? なんか気になってきた……後で早矢香の友達に聞いてみよう。そんなことを考えながら、歴史の授業を受けていたけれど、当の早矢香は一番前の席で熱心に講義に聞き入っていた。先程告白されたって言うのに、よく平然としてられるものだ。

 ようやく授業が終わり、僕は教室を出て、休憩室を通りかかった吉田瑠衣――よっちゃんに話を聞いてみることにした。

「よっちゃん、あのさ、話があるんだけど」

 僕がそう言って彼女を呼び止めると、彼女は少し険のある眼差しをこちらに向けてくる。

「よっちゃんって呼び方はやめてよ」

「あ、ごめん、つい……吉田さん、早矢香のことで話があるんだ」

「何々? さやちゃんのことで何か?」

 僕が広い休憩室の端の席へと促して、隣同士に座ると、彼女は興味津々といった感じで身を乗り出してくる。

「早矢香ってモテるの?」

 僕がそう囁くようにして言うと、彼女は何度もこくこくとうなずいた。

「モテるね、さやちゃんは。顔もいいし、スタイルもいいし、おまけに成績優秀だしね」

「僕は吉田さんの方が可愛らしい顔立ちしてると思うけどな」

「話を脱線させないの。それで何? 大事な妹に言い寄る男を全て抹殺する、とか?」

 僕は顔の前で手を振り、いや、と否定する。

「あいつがさ、私には追い続けている男がいるって言ってたからさ」

「追い続けている男?」

 よっちゃんは口元に拳を当てて考えていたけれど、小さくかぶりを振った。

「さやちゃんに好きな人がいるなんて、聞いてないな。あの子、自分からそんな人いないって言ってたし」

「だよね……一体、誰なんだ?」

「それだけは本人に聞いてみないとわからないな。でも、さやちゃん、吉山君とはすごく仲良く話していたけど」

 再び吉山なにがしの名前が出て、僕は缶コーヒーをぶっと噴き出しかけた。吉田さんが、「わ、やめてよ!」と後ろへたじろくのを見ながら、僕は思考を巡らせた。

 その吉山君のことも好きでなかったとしたら、一体早矢香の想ってる奴って誰なんだ? ますますわからなくなってきたぞ……。

 そんなことを考えながら缶コーヒーを渋い顔で飲んでいると、よっちゃんは同じようにお茶の缶を渋面で飲みながら、ふっと笑みを浮かべて言った。

「まあでも、蓮君が本心からさやちゃんを想って聞いてみれば、彼女、答えると思うよ。だって、双子でしょ、あなた達」

「いや、あいつ、僕が面白がって聞いてるんだと思って、一層口を閉ざすかもしれないけどね」

「それはあなたが普段から妹に迷惑ばかり掛けてるからよ。少しは妹を見習って、彼女の一人や二人、作りなさい」

「じゃあ、吉田さん、僕と付き合ってください」

「断ります。私が蓮君と付き合ったら、天変地異が起こるわね」

 僕が机に伏して撃沈していると、次の授業が始まるのか、生徒が講義室に戻り始めていく。僕はよっちゃんと連れ立って教室へと向かった。そんな中、思う。早矢香がああ見えてモテるんなら、僕は一体どんな立ち位置なんだ? というか、恋愛って何? まずいもの、辛いもの、甘いもの……?


 *


 ようやく授業が終わって生徒が一斉に校舎から吐き出されていく。次々と自転車で散り散りに離れていく中、僕は早矢香の姿を探していた。彼女はいつものように友達と挨拶を交わしながら自転車に乗り、ふと自分に視線を送っている僕の姿に気付いたようだった。

「何よ、まださっきのこと引きずってるの?」

「いや、考え出したら、きりがなくてさ。家では鼻をほじくっている早矢香が、学校では男にモテるんだからな。これはすごいことかもしれない……解き明かすと、人類の生誕に関わることかもしれないぞ」

「置いていくわよ、暇人。答えを知りたいなら、私に付いて来れば?」

「へ?」

 僕が自転車に跨って首を傾げると、彼女はこちらを振り返って、天使のように悪戯っぽい悪魔の笑みを見せて、舌を出し、言った。

「付いてきて、蓮。本当の答えを教えてあげるから」


 *


 そうして薄暗い住宅街の道を突っ切って駅に向かうと、未だ明かりを灯した店が軒を連ねていて、まばらな人の波が往来を漂っていた。僕達はその人の間を縫って自転車を押して歩き、やがてその一つの店へと辿り着く。

「ここ。私がよく通う店だって知ってるでしょ」

 彼女はそう言って手早く自転車に鍵を掛けると、店内へと入っていく。僕は慌てて彼女の自転車の隣に付け、後を追った。

 自動ドアを潜ると、冷房の効いた涼しい風が汗ばんだ額を撫でた。そう、そこは――。

 所狭しと並んだ棚には、無数のCDが並べられている。店内に掛かるミュージックは最先端を行く流行りのものだ。爽快なロックを耳に感じながら、僕は店内の奥でそれを見つめている彼女に近づいていった。彼女はにっこりと微笑み、本当に熱い眼差しでその人を見つめている。その人は――。


 シンガーソングライター 清水レイ


 彼女はその長身のすらりとした青年を見て、頬を緩ませ、少しだけ朱に染めて、そしてその肌の火照りを言葉に乗せて僕に届けてくる。その青年の鋭い尖った眼差しを受けて、微かに喉を震わせ、指先を揺らせ、小さく囁いてみせる。

「私、この人のこと、ずっとずっと追っていたんだ」

 僕は彼女が言っていることの意味が、全くわからなかった。だってこれはミュージシャンで、早矢香とは全く違う星の軌道に乗った、それ自体が強烈な光を放つ星なのだ。そんな人を想っていたって早矢香の言葉は届かないし、それは恋愛をしているとは全く言えないんじゃないか?

「蓮の言うことは、全くその通りだね。でもね、私は元々恋愛なんかしてないのよ」

 恋愛なんかしてない? だって、好きな人がいるって言ってたじゃないか。

「それはね、私にはまだ恋というものの経験がないから。そんな気持ちを抱いたこともないし、胸が締め付けられるような感情に気付いたこともない。でも、この人を追っていると、どこかそんな気持ちになれるような気がしたんだ。好きって色々あるけど、私には今のこの「好き」が一番性に合うんだ」

 彼女はそう言って清水レイの最新アルバムを棚から一枚抜き出し、それを僕に差し出した。

「蓮にもプレゼントしてあげる。蓮なら、私の気持ち、わかるでしょ? 好きになれない私が、誰かに好きって言われた時、この人のことを思い出すんだ。そうすれば、ほんの少しだけ嘘じゃなくなる。それが私にとっての、救いなんだ」

 彼女は押し黙った僕のワイシャツの袖を引っ張り、レジへと行くと、それを買って僕にプレゼントしてくれた。そのCDの小さな重みが、彼女にとっての好きの重みでもあるのだ。そう思った。

 彼女はどこか吹っ切れたような笑いを見せながら、黙って僕と隣に並んで店を出た。夜風は涼しく僕らの周囲をすり抜けていった。まるで僕らだけが宇宙の片隅で、ある宝物を発見してしまったような、そんな奇妙な高揚感があった。

 まさか早矢香がそんな夢みたいな話をするとは思っていなかったから。そして、少しだけ胸の奥が緩んでいくのがわかった。早矢香がまだそんな人がいないと知って、ほっとしたのかもしれなかった。

「ねえ、蓮。好きな人いる?」

「どうかな……僕みたいな適当で軽い奴、誰も本気だと思ってくれないしね」

 通りにはいつの間にか人の流れが消え、ぽつぽつと夜の闇で蠢く影が光を探しているみたいに駅や住宅街へと向かって動いているだけだった。僕らもその影に溶け込み、こんなどうでもいい悩みを抱えていることへの罪悪感を全て夜の底に葬り去ってしまうのだった。

「そんなことないよ。だって蓮、恋してるでしょ?」

 早矢香が自販機へと促し、ファンタの缶を買って投げてくる。僕は炭酸を投げて寄越す早矢香の素敵な気遣いに心から感謝しながら、プルトップを開けた。

「してる訳ないだろ。僕こそ、そんな話題はからっきしだ」

「嘘よ。だって蓮、よっちゃんのこと好きじゃない」

 ぶほっと思い切りファンタを噴き出し、CDショップの壁へとぶちまけてしまった。

「確かに……確かにそうだな。僕は何度もよっちゃんに告白してるけど、まるで相手にされない」

「瑠衣ちゃんもね、蓮のこと悪く思ってないよ」

「本当なのか? それはつまり、僕にも勝機があるってことだな!」

「あんたがいつも正気でいられればの話だけどね」

 そんな下らない会話を零しながら、僕らは笑い合って自転車を押し、ファンタを飲みながら夜の繁華街を歩く。それは恋とは程遠い日々だったけれど、それでもそこには百パーセントの本当を共有できる大切な人との楽しいやり取りに溢れていたのだ。

 恋がいつやって来るのかはわからないけど、少なくとも双子の妹との会話は、苦くも、辛くも、甘くもあった。それだけでもう、僕にとっては十分すぎるほど満足なのだ。

 恋の感情は紛い物でも、これだけは紛い物じゃないはずだ。それこそ、ずっとずっと大切なものなのだ。


 了

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