僕は菫の魔法使い(旧)
七野青葉
僕は菫の魔法使い
僕らの出会いは、少しだけ奇妙なものだった。
「ただいマッシュルームー」
「……おかえり」
「えーもっと笑ってやー」
無理だ、だっておもしろくない。午前1時、僕と武岡流(いたる)は比較的低テンションで岡見すみれちゃんを迎え入れた。狭い畳の上で背中合わせをして、目をそちらにやることはない。上着をばさりと籠の上に投げる音が聞こえる。僕らは美大のセミナー生。紙と睨みあいをする日々もやっと7日目を迎えたところだった。
「お、やっとるやっとる。その様子じゃご飯も食べてないな? 2人とも偉いなあ」
すみれちゃんはこれ見よがしにお腹をさすった。長く伸ばした茶髪が肩からこぼれる。幸せそうで何より。香水の派手な匂いが遠慮なしに僕の鼻を通り過ぎる。で、僕はそれなりに集中していたのだけれど、いったんペンを置くことにした。流はというと変わらず背を向けたままだ。水を含んだ筆の動く静かな音がかすかに耳に届く。
「すみれちゃんはご飯食べてきたの?」
「うん。美味だったわあ。ステーキ」
「……お前なあ。どこからそんな金出てくるんだよ」
流がキャンバスと睨みあいをしながら毒づいた。すっと切れ長の目を細める。美大の首席は極度の貧乏人で有名だった。女の子からデートのお誘いがあっても、お金がかかるからと悉く断っているらしい。噂じゃ大学に入るのも大分渋られ、実家の経済事情に悩まされているとか。
「うちは1銭も出してないで。羨ましいなら流君も教授と仲良くすることや。そしたら食費削れるで」
「媚なんぞ売りたくねー」
むすっとした顔つきのまま流は言った。くの字に曲げた口が、現代に生き残った侍みたいなヤツだ。イケメンというよりは男前と表現されそうな端正な顔立ちは、歪めたってやっぱり見栄えするもので。
「ふうん、じゃあこれもいらんか……」
すみれちゃんは笑みを浮かべたまま片手をあげた。白いビニール袋から細い湯気がのぞいている。
「肉まん。いらん? さっきコンビニで買ってきた」
「やった! ありがとすみれちゃん」
僕はありがたく飛びついた。かぶりつくと、部屋いっぱいに匂いが広がる。僕らが居間と呼んでいる共有スペースはとても狭い。
「流はいらないの?」
僕がにやにやしながら顔を覗き込んだ。確か昼食抜きだったって聞いたけど。流はだんまりを決め込んだ後ぼそりと言った。
「いや、もらうわ」
「もうちょっと素直になりなよ」
流とすみれちゃんはケタケタ笑った。サンキュ、と小さくこぼしたのも聞き逃さない。流は短い黒髪をくしゃくしゃと触った。
「お弁当も買ってきたから食べとき」
「ありがと。……ってどこ行くの」
「ベランダ。一服しようかなと思って。陽人君もどう? 確か吸うって聞いたけど」
「僕は禁煙中だから」
セミナー中はストイックに過ごすと決めた。ちょっとしたことだけど、全ての雑念煩悩とおさらばして漫画に専念する。何度も何度も公募に落ちていた僕は、今回のセミナーで納得のいく作品を描けなければこれを最後に自分の気持ちに踏ん切りをつけようと思っていた。
「雨降ってんじゃねーの? 風邪引くぞ」
「これくらい平気や」
がらりと窓を開けると闇が広がっていた。星は見えない。6月のベランダには細々とした雨が降っていて、それは僕らの心情を表しているようでもあった。どしゃぶりと言うわけではないが、晴れてはいない。……いや、ちょっと自己陶酔したかっただけなんだけど。夜の中の雨粒は黒々としている。
「この調子じゃ朝も雨っぽいね」
「めんどくせー」
僕と流は、すみれちゃんが闇に溶け込むのを見届けてからまた背中合わせで作業に戻った。
「おい陽人、ルームシェアしないか」
流が僕にそんな話を持ち出したのはつい数か月前。美大に通い始めて3年、1度か2度飲み会の席で話したことがあるだけの流からそんな連絡が来たことに僕はびっくりした。県境の廃校を利用した1か月に及ぶセミナーに、僕も参加することを知ってのことだったらしい。ここらへんじゃそこそこに規模の大きいセミナーで、僕らの美大から参加する学生は大学の講義を公欠扱いにしてもらえる。
「いいけど。2人?」
「もう1人いる。都合悪いか?」
「いや、特に気にしないよ。別に1か月安く住めるんなら何でも。ちょうど短期割のきくアパート探してたところだし」
今下宿しているところからじゃ通いは少し難しい。僕らの美大から参加する学生の多くが短期間の1人暮らしをする予定になっていた。流の探してきた物件はかなり安いようで、さすが執念深い節約家だ。
「お。じゃあ決まりだな。あっちにも伝えとくわ」
その、あっちというのがもう1人のことで。それがすみれちゃんだったわけで。
「君が陽人君か。よろしくなあ」
流の連絡から数日後、すみれちゃんは僕を見てにっこり笑った。笑ったら八重歯がちらっと出る。流と同じサークルの子らしい。メイクばっちりのすみれちゃんの身長は高くて、ちょうど低めの男の子ぐらいはある。それはつまり僕と同じぐらいってことだ。一歩近づいて首を傾げるすみれちゃんの肌は白くて柔らかそうだった。
「あっち、って男の子だとばっかり思ってたんだけど」
「すまんなあ女で」
「いえいえ、よろしくね」
「セミナー、うきうきするなあ。……雨季だけに」
「えっ」
「いや笑ってやそこは。頭固いで陽人君」
「そんな無茶な」
それで僕らは1か月という期限付きの、奇妙なルームシェアを始めることになった。
僕らの出会いは、少しだけ奇妙なものだった。
おはようございます、と小さく呟いて入るセミナーの教室。木製の引き戸は脆そうで、建物の歴史を感じさせる。白く真新しいプレートには「漫画コース」と書かれていて、戸と見事なアンマッチだ。
既に何人か学生が来ていて、みんなそれぞれ静かに作業に取り組んでいる。一瞬目が合っても、すっと逸らす。あまり上手くコミュニケーションは取れていない。ま、別に1か月の付き合いだし問題はないのだけど。
窓の外に見える庭には雨がぽつぽつと降っていて、それから少し季節を過ぎた菫(すみれ)がいっぱい咲いていた。
僕は席について昨日描いた原稿と机に広げる。
紙をめくる音がぱらりぱらり。僕はペンを走らせる。すらすらと走らせる。原稿用紙の中で、男の子が尋ねる。
「楽しいかい?」
「楽しいよ」
「僕はまだ仲間と旅をしてもいいのかい?」
「まだ、大丈夫だよ」
つばのついた帽子を被ったその男の子は嬉しそうに笑った。紙の向こう側の世界はいつも自由だ。ファンタジーの世界が人の心を魅了するのは、きっとそれぞれの個性を役立て物語が進んでいくから。彼らは頼って頼られて、そういう現実における理想の人間関係を非現実という場所で繰り広げている。
羽の生えた男の子が仲間の手を引く。海を渡る人魚たちが船の綱を引っ張る。どこにも行けない世界だって、誰かがいてお互いに支え合っていくことができたなら、いつかきっと行ける。
僕がいて君がいるから、物語は切り開かれていく。
僕は描くのが好きだ。だけど、好きなことを好きでい続けるのは難しい。僕は自分に才能がないことを知っている。
「……で、これが陽人君の過去作?」
すみれちゃんは大きな瞳を伏し目がちに、口元に笑みを浮かべたまま紙をめくる。僕はうなずいた。
「どうかな」
「んー、うちにはちょっと、真面目腐った話に思えるなあ」
僕が見せたのは、妖精の一族に生まれた小さな少年が魔法を使って世界中で友達を作っていく物語。
「やっぱつまんなかったかー」
「ま、そうやな。笑いがもっと欲しい。幸薄っぽい。あともっと女の子可愛く描いてや」
「ぐっ」
「……お前らなあ、そういうことは課題全部仕上げてからやれよ」
流の背中ごしには水彩の港が広がっている。キャンバスの上で薄水色の船が半分の姿で浮かび上がっている。
「めんどくさいんやー」
すみれちゃんはかばんから無造作に雑誌を取り出すと、それをぱらぱらとめくりはじめた。話はこれで終わりらしい。
朝昼はセミナーの教室で過ごし、夜は家で課題に取り組む。流は水彩画、すみれちゃんは版画を専攻しているので、それぞれにみんな違う教室だ。共有スペースの居間は絵の具やペン、紙で溢れかえっている。僕はそれが心地いい。ごみごみした床に僕は転がる。積み重ねられた流の参考書タワーが、僕の広げた腕に当たって崩れた。
「おい」
「あ、ごめんごめん」
流は無言で作業を続ける。自室で集中して取り組んだらいいのに、僕らはわざわざ狭苦しい居間で課題を進める。膨大な量の課題を消化するためには、絶対に寝落ちを避けなければならないからだ。自室に向かうのは最低限やるべきことを終えてからにしていた。
「あーお腹すいたなあ」
「教授からお寿司もらってきたんやけどいる?」
「お寿司!? 大丈夫なのすみれちゃん……」
「何が?」
すみれちゃんは袋を出してきて床に広げる。
「あんまりいかがわしいことにならないようにしなよ……」
「はいはい。陽人君も流君も、いらんの? うち食べてしまうよ」
「いや、もらうけど……」
「俺はいらん。そんな怪しいやつ食うくらいなら、自分のを食べる」
流はそう言って冷蔵庫から3分の1になった餡パンを取り出した。待ってそれ昨日のやつじゃないのか。ケチすぎる。流はこれ見よがしに食いちぎって頬張った。怖い。
「大丈夫なの流……死んじゃうよ」
「うるせえ大丈夫だ、こっちは今回のセミナーでただでさえ金欠なんだ」
「素直にお寿司食べや」
「いらん。お前、やめとけよ」
「何や流君。そんなに媚び売る売らんにこだわってたら、うまく生きていけんでー、強情やなあ」
「あほ、違うわ。媚びどうこうの話じゃない」
流はあぐらをかいたままの体勢でじっとすみれちゃんを見据える。
「あのな。お前、本当に気をつけろよ。何してるか知らんが、取返しのつかんことになったらどうするんだ」
「……それには僕も同感かなぁ」
「はいはい。でもな、女は若さが武器なんやで。若いうちが花なんやっ。うふっ」
すみれちゃんは星の飛びそうなウインクをした。……何だこれ。適当に流されてるなあ。それで僕らは少し無言になった。梅雨はあけない。窓の外では雨音のワルツが途絶えることなく響いている。キャンバスの上で水を掃く音がさらさら。静かな世界には僕と流とすみれちゃんだけ。
僕はペンを動かす。すらすらと動かす。僕はこうやって3人で夢中になって好きなことに取り組む時間がものすごく好きだ。この時間がずっとずっと続けばいい。
だけどいつまでもこうしちゃいられない。追い求めれば追い求めるほど夢は遠のいていく。僕は何度も何度も消しゴムで鉛筆のあとを消す。紙が傷んで黒くなる。原稿用紙の中で、男の子が尋ねる。
「がんばってるかい?」
「がんばってる。でも足りないものが多すぎる」
「諦められそうかい?」
「今は、まだ」
「やっていけそうかい?」
「無理かもしれない」
「あーもう! 何やうまくいかんなー。どうしたらいいんやろ」
僕は顔を上げた。すみれちゃんが雑誌とスケッチ用らしいノートを見比べて納得のいかない表情を浮かべている。さっきからすみれちゃんは何の雑誌を読んでるんだ? 僕はそれを覗き込んだ。
「何それ!?」
「え、ああこれ? 今回の版画のイメージもらおうと思って」
それは成人男性向けの、所謂エロ本というやつだった。
「えっ? なっ、何してるんだよっ」
「ははは、慌てすぎや」
「お前がおかしいんだよ。な、陽人、こいつすみれとかいう可愛い名前のわりにやってることはとんでもないからな」
「うちが好んですみれって名前になったわけちゃうで、流君」
すみれちゃんは僕に雑誌を見開きでぽいと手渡す。僕は悲鳴を上げた。
「破廉恥だぞ!」
「破廉恥!? やめてや笑ってしまうやん! 陽人君男の子やろ!」
見ると流も身体を折り曲げて震えている。何でだよ。
「魔法使いの物語描いてたけど、これは作者の陽人君も魔法使いの予備軍である可能性大やな。あと数年で30歳やで」
「待って待って待って」
違うじゃんそういう話じゃないじゃん。いや図星だけど。助けを求めるにも、流は既に腹を抱えて笑っていた。そう、流はこんなにも貧乏性のドケチ人間なのにモテるのだ。僕とは違う世界の人間なのだ。
「君らうるさい! なんだよ予備軍で悪いかー!」
そういうわけで僕は一晩中馬鹿にされるはめになった。徹夜で仕上がった課題がどういうものになったかなんて、言うまでもない。
散々な目に遭った僕は、目の下にくまを作って廊下を歩く。ギリギリ提出できたものの、昨日は2人から本当にひどい仕打ちを受けた。夜の廊下には誰もいなくて、静かな電球の光と雨粒が窓に透けていた。セミナーは残り2週間を切っていた。もうそろそろ最後の作品に取り掛からないと。セミナー最後の課題は任意提出のもので、セミナーに来ているプロの先生に目を通してもらえるのだ。いわゆる、チャンスだった。
計画的な流は少しずつ風景画を描いている。教室の外に咲く花と雨を薄い優しい色使いで描いている。すみれちゃんは、毎日夜ほっつき歩いているからどうなっているのか知らないけど。
「俺は、心を抉るような作品を描きたい。でもこれがなかなか上手くいかない」
「分かるよ」
毎日が紙面との睨めっこだ。
「俺は絵を描くのが好きだ。一生描けたら、本当に最高だと思う」
描きたい、描きたい、自分が見たもの想像したもの全てを紙面上に残していきたい。貪欲な流は机にかじりつく。流の自室から漏れる明かりの下にはいくつもの淡い色の花の絵が散りばめられているのだ。
それを思う度、自分も頑張らなきゃなと思う。今日は僕も学校の廊下に明かりを落とそう。
僕は肩からずり落ちそうなトートバックを持ち直す。古びた木の戸を開こうとしてぴたりと止める。中で、声がしたから。
「なんじゃこりゃ? 下手クソだなあー」
淡々と言う声は知らない人のものだった。
「この、魔法使いが出てるやつ。やばくない? 絵の勉強しなおして来いって」
「それは言える」
不特定多数、匿名の声。教室の中に落ちた言葉は冷たい冷たい氷のようなものではなかった。思ったことを呟いたような、そんな声色を帯びたものだった。だけど、くすくすと笑う声も聞こえる。開けちゃだめだ、開けちゃだめなのだ。なぜだか僕の心は僕にそう言った。
「漫画コースってこんなにしょぼいの? 俺でも描けるじゃん」
「ちょっとやめてよねー、全員がそんなわけないでしょ。一緒にしないでくれる」
「悪い悪い。それにしてもこいつほんと下手だな」
聞いちゃだめだ、聞いちゃだめなのだ。僕の心は悲鳴を上げて僕にそう言った。
「よくこれでセミナー来れたな。伏見陽人だっけ? こいつ、諦めたほうがいいんじゃないの」
言葉が深く深く、突き刺さって抜けないのは、きっと全部が図星だからだ。棘は僕をするどく貫いて、抜けない。だから僕は動くことができない。ドアを開けて言い返せばいいし、それが嫌ならこの場から逃げたらいい。――それなのに、それができないのだ。僕は、動くことができないでいた。
「おっ、陽人君! 課題はうまくいったか? 昨日は夜遅くまで大変だったな……私、眠たかったんだからねっ」
廊下を偶然すみれちゃんが通る。すみれちゃんは意味深に顔を隠してみせる。だけどにやにやしたすみれちゃんに僕は笑顔を作ることができなかった。
「……」
「えっ? え? 陽人君そんなに気にしてたん? 未経験のこと」
そこまで茶化してから、すみれちゃんはふと真顔になる。
「陽人君、どした? 何かあった?」
「……いや」
僕はその先を続けられなかった。大したことじゃない、大したことじゃないのに。
「とりあえず、家帰ろうか」
すみれちゃんは僕を促した。僕は雨の降るうす暗い道をとぼとぼと歩く。すみれちゃんの歩みは勇ましい。水滴に光がにじんで見える。車の排気ガスがアスファルトの水たまりの中で虹色に揺れている。
「諦めたほうがいいんじゃないの」
その声は僕をそそのかす。知らないその声は何度も何度も反芻するうちに、やがて僕自身の声になっていた。
「何で言い返さなかったんだよ」
流は吐き捨てるように言った。僕は居間に座り込んでお説教をされるような形になっていた。
「言い返せないよ。言ってる事は正しかった」
「他人から限界決められて、お前はそれでいいのか? 悔しくないのか」
僕は何も言わなかった。流も何も言わなかった。
「我慢ならん」
ふと流は立ち上がった。上着を羽織って、黒いリュックを左肩にかける。
「ぶっ飛ばしてくる。お前が言わないなら俺が言う」
「ああぁ流ちょっと待って!」
「何だよ」
すっかり目をギラつかせた流が僕を睨む。
「いい、いいから。僕はこんなことで騒ぎを起こしたくないし、そもそもその人たちの顔見てないし! 言われてることは悪口じゃなくて評価だ。正当なんだよ」
「なんや陽人君こんなことって。こんなことちゃうで、うちらは怒っとるんや」
「お前なあ、もっと堂々としろよ。今のおもしろさどうこうは確かに評価だ。でもやろうことしていることまで否定するやつは許さない」
普段あんなに静かな流はこれでもかと言うほどに地団太踏んだ。すみれちゃんも口に笑みを浮かべてるわりに、しっかりバックをひっ掴んで臨戦態勢だ。すっかりご立腹らしい。肝心の僕は、1つも怒ってなんかいないのに。
「分かった、分かったから……」
僕はそこまで言って、もう限界だった。
「うわっ、陽人君?」
「ああ!? 何泣いてんだよ」
プロになったら、どうせいっぱい叩かれる。そんなの覚悟してるつもりだった。だけど、自分のコンプレックスを言われることは「やっぱりそうなんだ」と自分の欠点を再確認させられることであって。思っているのが自分だけならよかった。他の人も思っているなら、やっぱり僕には足りないものが多すぎた。
「僕も向いてないのは知ってる。描くことを続けるのも止めるのも苦しい」
「あーもう! あほか」
僕を背に、流は外に出て行った。すみれちゃんも慌ててついていく。当然だ。将来が見えなくて不安なのはみんな同じなのにどうして僕だけ弱音を吐いたんだ。僕は情けなくて、また少しだけ泣いた。
しばらくして2人は帰ってきた。ぶっきらぼうに流が手を差し出す。その手にあったのは――
「吸え」
デフォルメ化された植物が描かれたパッケージの煙草だった。300円にも満たないそれは正真正銘の安物で。すみれちゃんがにっこり笑った。八重歯がちらりと見える。
「禁煙してたんやろ? 息抜きやって必要や」
「……これはずるい」
僕はライターに火をつけた。しゅぼっと音がする。煙草本来の、香りもクソもない辛い味だ。どうせならもっと値の張ったやつがよかったなあ、なんて思うけど。
「ん、もしや味にご不満か? これはあのドケチな流君が自分のお金で陽人君のために買ってきたもんなんやで」
すみれちゃんは一言一句強調しながら言った。流は無表情だ。怖い。
「ご、ごめんなさいおいしいです。最高です」
「白々しいで。まあちょっと待ち」
すみれちゃんは、バッグから油性ペンを取り出した。箱のパッケージの名前の上に、強引にキュキュキュ、と何かを書き込む。
「はい。すみれブランドの煙草です。さっきのと違っておいしいですよ」
「吸え」
「はあ」
すみれちゃんは非常にうさんくさい笑顔を僕に向ける。流は僕から視線を逸らさない。
「smile」
箱にはそう書かれていた。
「……笑えってか」
「そうや。泣かないで。笑って、陽人君。泣き虫だとこのまま彼女もできずに魔法使いになってしまうで」
「大きなお世話だよ」
そんなこと言われたら、泣くわけにいかないじゃないか。すみれちゃんはずるい。僕は左手で顔を横殴りに拭った。すみれちゃんはケタケタ笑った。僕の口もいつの間にか綻んでいた。
「……山がなさすぎるんじゃねーの」
流がぽつりと言った。
「え?」
「ストーリーに山がない。もっと途中に不安定要素を入れて最後にハッピーエンドをおいたほうが、幸せが際立つんじゃね?」
「……え?」
流は4分の1になったフランスパンをかじっている。仏頂面でもぐもぐしている。僕の問いかけにはもう答えない。僕は、ぽかんとしたまますみれちゃんと顔を見合わせた。
「え、今の何?」
「流君がデレたな」
「うるせえ」
僕とすみれちゃんは吹き出した。ベランダでは柔らかな雨がしとしとと降っている。街灯に色づいた雫が光っていた。雨特有の匂いが立ち込めた空気を纏って、僕らは外に出る。3人でsmileというブランドの煙草を吸って、小さく笑いあった。深夜に灯る明かりは、いつまでも光り続ける。
自室に籠った僕は煙草を吸ってため息をつく。深く、深く。僕が2人にできることって何だろう。あんなにも僕の想いを否定せずにいてくれた2人に、何かしたかった。
セミナーももうすぐ終わる。描いても描いてもやっぱり納得がいかない。僕の心は次第に1つの答えを出しつつあった。今日の課題を終えて居間で解散した後も、流の自室からは明かりが漏れている。いつも、ずっとだ。僕はあんな風にがんばっていない。
かたり、と物音がした。遠慮がちに玄関のドアが開く音。午前4時。しんとした居間には雨に濡れた女の子がいた。髪の毛の先から水滴がぽたりぽたりと落ちる。電気も点けずにぼんやりと版画を見るすみれちゃんは、別人みたいだった。服が少し乱れているように見えた。
「お帰り。どうしたの」
「……どうもせんよ」
すみれちゃんはゆっくり笑った。起きているであろう流の邪魔をしないように、小さな小さな声で言った。嫌な予感がして、僕はゆっくりと聞いた。
「すみれちゃん、何かあった? 何か、された?」
「いーや、何にも」
きっぱりと言う。乱れた髪の毛をかきあげて。細い肩が「聞かないで」と懇願していた。僕はやっぱり何も言えなかった。先に口を開いたのはすみれちゃんだった。
「なあ、陽人君は絵の何が魅力的だと思う?」
「……物語性があるところかな。絵を通して、色んなメッセージを伝えられる」
「うちは、綺麗な物を一生そこに閉じ込めておけるからだと思ってる」
すみれちゃんは少しだけ顔をしかめた。
「女の子の綺麗さは一瞬やからおもしろくない。花と一緒ですぐ枯れる。綺麗だったものが汚くなるっていう事実にうちは嫌悪感を覚える」
「そっか。僕はそれでも好きだけどなあ、花。嫌悪感はなかった」
「芸術的な考え方やろ?」
すみれちゃんはタオルで髪の毛を拭いた。笑みを浮かべて、静かに、静かに。
やっぱり絵の話をするのって楽しいよね、と僕を見つめた。
「ところで、陽人君ずっと起きとくつもりなん? もしかして暇?」
すみれちゃんはどうでもよさそうな声で言った。ちょっとお酒飲みたくて、と言った。
「……暇だよ」
課題終わってないけど。ごくりと心の中で唾をのみ込みながら、どうでもいい振りをして答える。これはもしやお誘いというやつではないのか。雑念煩悩が去ってくれないのは煙草を解禁しちゃったせいだ。そうに決まってる。
「よかったー! じゃあ悪いけどうち飲んでくるから、セミナー室の早朝掃除代わりにしとって!」
本当に、僕のことなんてどうでもよかったらしい。僕の魔力が上がっていたとしたらそれはすみれちゃんのせいだ。ため息をついて煙草をくわえ直したら、すっとすみれちゃんの手が伸びてきた。いたずらっぽく笑って、すみれちゃんが僕の煙草をくわえる。
「ちょ、ちょっとすみれちゃん」
「何や」
にやり。すみれちゃんは首を傾げて僕を見つめる。僕は目を逸らした。
「なあ陽人君。実はsmileって笑うの他にもう1つ意味を込めたんや」
「何それ?」
「smile、すみれとも読めるやろ」
「何それ」
「だからすみれブランドなんや。おもしろくない? ええか陽人君。大切なことは、こじつけでも何でも自分でちっさい楽しみを見つけてそれをちっさい幸せに変えていくことや」
「でもそれダジャレじゃん」
「うちはダジャレが大好きなんや! 悪いか?」
「……悪くは、ない」
「よろしい。ほな、そろそろ行ってくるわ。……あっ」
八重歯の女の子はドアを閉める間際に舌を出した。
「うち、さっきもしかして陽人君の大事なファースト間接キス奪ってしまった?」
「おっ大きなお世話だ! 間接キスくらいだったらあるよ! 小学生の時とか!」
すみれちゃんはおかしそうに笑った。笑顔の絶えないその子の背中を、僕は見つめた。
ねえ、ほんとは何があったの? つらくはない? 僕は言えない言葉をこっそり投げかける。僕はすみれちゃんの心に届くような言葉をかけてあげられない。
誰もいなくなったうす暗い居間で僕は考える。僕が2人にできることって何だろう。煙がすうーっと天井に昇っていく。
「漫画はつまんないしなあ」
僕はちょっと考えてから、朝に濡れた冷たいアスファルトを踏みしめる。
「あー、やっと家に帰れるわ」
すみれちゃんは大きく伸びをした。荷造りが全部済んで、あとは最後の任意課題を提出するだけ。3人で休日の教室に向かう。
「とりあえず2人とも、ほんまに1か月間お世話になりました」
「お前はほんとに世話が焼けたわ。もうちょっと自立しろよ」
「よく言うわ。誰がいっぱい食料分けてあげたと思ってるん」
すみれちゃんがおどけた口調で言った。こうやって人でたくさんの話をするのもこれで最後なのかと思うと、なかなか悲しいものがある。
「これからうちらはどうなるんやろうなあ」
すみれちゃんはぽつりと言った。
「流君はもちろん画家目指すんやろ?」
「ああ、お金があったらなあ」
6月最後の休日もやっぱり細々とした雨が降っていて、それは僕らの心情を表しているようだった。静かな僕らの耳には、ぽつりぽつりと寂しい音が届く。
「あのさ」
僕はバッグをごそごそした。2人が僕を見つめる。
「これ、作ってみたからもしよかったら使って」
小さな小さな紙を1枚ずつ渡す。
「栞や。菫の花の栞!」
「セミナー教室の庭に咲いてた菫を使ったんだ。せっかくだから思い出に」
「……サンキュ」
流がすっと微笑んだ。この栞が、暗がりでたくさんの参考書を読む流の道を照らすものになりますように。それから、すみれちゃん。
「陽人君!」
すみれちゃんは僕の手を取った。綺麗なものにこだわるすみれちゃんが、たとえ綺麗じゃなくなる日が来たとしても、楽しく生きていけますように。
「きみは魔法使いや! 菫や、菫の魔法使いや!」
すみれちゃんの目はキラキラしていた。すみれちゃんは一気に話し始めた。若いお母さんが1人ですみれちゃんを育ててくれたこと。離婚する時に、お父さんがお母さんに向かって「綺麗じゃなくなったな」って言ったこと。居場所がなくなって、引っ越すしかなかったこと。
「綺麗じゃなくなるものは全部嫌い。花なんて嫌いよ。でもな、枯れかけの菫も綺麗な栞にしてくれてありがとう」
この前のこと気にしてくれてたんやね。小さな声でそう付け加えた。
「大げさだ。自己満足だよ。2人に何かお礼がしたかったんだ」
「でもな、陽人君。そうやって、人を喜ばせようって、小さなことを小さな幸せに変えていこうとしとったら、いつかミラクルは起きるんやで! うちは陽人君のそういうとこ、好きやで」
「い、いやあ大げさだなあ」
僕は自分の顔が赤くなっていくのを自覚した。くそ、そういう意味じゃないって分かってるけどさ。
「お前らな、そういうのは俺のいないところでやれよ」
「そ、そういうのって何だよ」
流が苦笑いした。それから、ふと僕を見る。
「それで、お前はどうするんだよ?」
「どうするって」
「これからだよ」
「ああ……」
僕は茶色い紙袋に入れた原稿を持ち上げてみる。任意課題だ。さて、どうしよっかなあこれ。でもなあ、栞を作るために使ったから原稿用紙には花の色がついてしまったんだ。押し花にしたところが、ところどころ染みになっている。
他の人から見ても無理で、何より自分でも無理だと思ったんだから、どうあがいたって無理だ。僕は、心配そうに見つめる2人の前で笑顔を作ってみせた。
「まあ、どうにかするよ」
2人が各々の教室に課題を提出しに行った隙に、僕は茶色い紙袋をそっとごみ箱の中に入れた。ごめんよ、さよなら、僕の想い。元々、諦めるために、自分の夢にケリをつけるためにやっていたところはある。これでよかったんだ。これで、よかったんだ。
「えー、ではこれから用紙を配るので2週間以内に提出するようにしてください」
前から呼びかけていたからある程度考えてきたとは思いますが。学務の人はそう言ってプリントを回す。美大に来るのは久しぶりだった。
1か月に渡るセミナーは終わった。あっけなく終わった。流やすみれちゃんと会う機会もなくなって、自然と連絡を取らなくなった。それからの半年間もあっけなく通り過ぎ、月日は流れて、僕は将来の選択を迫られる時期に立たされていた。
風の噂ですみれちゃんが夏頃美大をやめたということを耳にした。キャバ嬢になったとか、家庭崩壊とか、デキ婚したとか、聞く噂はどれもロクなものじゃなかった。あーあ。なんだかなあ。そんなことになるくらいなら、僕がお嫁さんにしてあげてもよかったんだけどなあ。
流はこれ以上美術関係にお金を費やせる余裕がどうしてもできなくて、親を安心させるために公務員になることにしたらしい。あーあ。……あーあ。なんだかなあ。
流もすみれちゃんも画家にはならないわけだ。なれないわけだ。僕はため息をつく。深く、深く。
できないことはできなかったままだ。誰かにケチをつけられたくらいでやめたくなるならその程度だった。僕の熱意なんて、所詮その程度だった。僕は誰に止められたわけでもなく、どうしようもないことがあるわけでもなく、自分の意志でそれを終わらせようとしていた。
今、僕の目の前には美大に提出する最後の進路調査票があった。僕はため息をつく。深く、深く。答えはもう、決まっていた。
「こんにちはー。先生、次の原稿仕上がってますか?」
「できてますよ。いつもありがとうございます」
結局、僕は魔法使いになった。紙の上で幸せを数える、魔法使いだ。
今、僕は漫画家をやっている。全然売れていなくて、打ち切り寸前の冴えない漫画家だ。
僕がデビューすることになったその漫画のタイトルは、「僕は菫の魔法使い」。メインキャラクターは、冴えなくて平凡だけど仲間のことが大好きな男の子と、侍みたいなしかめっ面をした強くて優しい男の子と、それから幸せの魔法を探すちょっとふざけた八重歯の女の子。2人をモデルにした漫画が、僕をこの世界に連れてきてくれたのだ。
あの日、流は言った。
「お前、すげえよ」
流の目はキラキラしていた。あの日、進路調査票を提出する本当に寸前のことだった。僕のところに、公務員の勉強をし始めた流から連絡が届いたのだ。もう、随分話をしていなかった流から連絡が届いたのだ。捨てたはずのあの原稿用紙がなぜかとある月刊雑誌の選考に通過していて、載せてもらえることになったらしい。僕は、何が起こったのかすぐに全てを理解した。僕の声は掠れていた。
「どうして」
「もったいねーよ、あんなにがんばってたのに。捨てるなんて俺もすみれも許せなかった。それで送ってみたら、思った通りやっぱり賞がもらえた」
「でも、僕はもうなる気がなかったんだよ。運が良かっただけだよ。僕が送ったわけじゃない」
「運を生かすのは実力だろ。送ったのは俺とすみれだけど、それで受かったのはお前の漫画なんだから。お前は本当にすげえよ」
なれよ。そう言った流は、たくさんたくさん勉強して数か月後に国家公務員になった。
僕は知っていた。流が誰よりもがんばって、誰よりも画家になりたかったこと。それでもお金が足りなくて、どうしようもなかったこと。
僕は知っていた。2人がなりたくてもなれなかったこと。どうしようもないことを背負いながらも、小さな幸せを1つずつ数えていたこと。
本当は羨ましかったに違いない、心底妬ましかったに違いない。それでも背中を真っ先に押してくれた友達のことを僕は思い出す。
「俺には無理だったけど」
最後にそう言った流もそれからすみれちゃんも、僕を助けてくれた魔法使いなのだ。僕にミラクルを起こしてくれた魔法使いなのだ。
「先生、原稿仕上がってますか」
「できてますよ」
僕は、描くことを止めない。何があったって止めない。僕は、描くことが大好きだ。
それでもつらくて苦しい夜はやっぱり何度でもやって来て、僕を押しつぶそうとする。がんばってもふんばってもどうしようもないことだって、世の中にはたくさんある。
そういう夜、僕は決まって煙草を吸う。いつもの高いやつじゃなくて、300円にも満たない安いパッケージにsmileと書き込んでブランドを作るのだ。そしたら2人の声が聞こえてくる気がするのだ。
「お前なあ、もっと堂々としろよ」
「陽人君、笑って」
そうして、僕は思い出す。煙草を吸って、思い出す。一緒に煙草を吸ってたあの頃、僕らは確かに菫の魔法使いだった。幸せを1つ1つ丁寧に数えていけば、いつかきっとミラクルは起こる。僕は、紙の上で願うことを生涯止めることはないだろう。
「やっていけそうかい?」
「なんとかね」
原稿用紙の中で、男の子は尋ねる。僕は笑う。
男の子の後ろで、八重歯の女の子と侍みたいな男の子がにやりと不敵にこちらを見た。
僕がいて君たちがいるから、物語はどこまでも切り開かれていく。
僕の大切な魔法使い達が、この世界のどこかで幸せに笑いながら僕の漫画を読んでいることを願って。
僕は菫の魔法使い(旧) 七野青葉 @nananoaoba
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