役立たずのミミ

七野青葉

役立たずのミミ

 あるところに、役立たずのミミというものがいました。ミミはちょっと前まで人間をやっていました。今何してるかって? 人間以外の色んな生き物です。ちなみに今はお魚です。黒い立派な点々のあるニジマスです。耳を澄ませば、透明な世界の中で小さな泡がコポコポ昇っていく音が聴こえます。ミミはそれを川底から見つめることがすごく幸せなことだと気づいたのです。世界は穏やかでとっても素敵です。見上げる水面にぽつぽつとでこぼこが出来ては消えました。

「わたし、雨は嫌いなの。水滴はいつも冷たいし、叩くような強い粒は攻撃されてるみたいで、悲しい気持ちになるわ」

 ミミは言いました。すいすーいと水の中を泳いでいきます。ミミはもう人間に戻る気なんてありません。戻れないし、戻りたくありません。


 さてせっかくですから、ミミのことについてお話しましょう。さっきも言った通りミミは元人間。ミミは自分が人間であることがとっても苦痛でした。人間とは深く関わって生きていく生き物です。支え合っていく生き物です。だけど、社会の歯車として生きてみてもミミはてんで駄目。何をしても失敗ばかりで、人の足手まといになることはあっても人の役に立つことなんてただの一つもなかったのです。おまけに人と話せば必ず意図せぬところで人を傷つけます。これではそこにいたって意味がありません。ミミは人間として生きることをやめようと思いました。そうして朝起きると、なんとミミはネコになっていたのです。理由も原理も分かりません。人間じゃなくなったミミは自由でした。小さなその体は野原を駆けて行きます。木々の間では小鳥が愉快にさえずっています。

「あの羽がほしいわ」

 ミミが言うと、体がむずむずしてきました。なんと今度は背中からにょっきりと翼が生えてくるではありませんか。桃色のかわいらしい肉球はほっそりとした爪に変化していきます。ウグイスになっていました。

「すごいわ。わたし、これならどこにでも行ける」

 ミミは明るい未来を確信しました。ミミは何にでもなれます。なぜだか人間には戻れないようでしたが、人間が嫌いなミミにとっては全く問題ではありませんでした。人間は関係しあって生きていく生き物です。お互いに期待し合う生き物です。しかし役立たずなミミには、期待されても差し出せるものが一つもありません。勝手に期待されて、その上「期待外れだ」なんて言われて離れて行かれるなんてさらさら迷惑なお話でした。そんなことになるなら最初から関わらないほうがマシです。


 ニジマスになっていたミミは大自然を満喫した後、時間をかけて公園に行きました。そこでは人間の子どもたちがじゃれあっています。

「わたしも一緒に遊んで!」

 ミミは黒い子ネコの姿でにゃあん、と話しかけました。人間が嫌いなミミでしたが、同時に好きでもありました。つかず離れずの距離でなら、きっとミミだって上手くやっていけます。

「可愛い子ネコだ! よしよし」

 子どもはミミをなでなでしました。役立たずがバレない距離ならミミは嫌われないし、むしろ好きでいてもらえます。にゃあん、と可愛い声で子どもの体にすり寄りました。子どもたちは愛おし気に抱きしめてくれました。

「わたしはどこへだって行ける。わたしはパスポートを持ってるみたいだわ」

 小さな柔らかい腕の中でミミはほくそ笑みました。人間であることをやめたおかげで、ミミはどこへだって行けます。行きたいときに行きたい場所へ行って、嫌われる前にさっさと退散すればいいのです。自分の心の準備ができたタイミングで次の世界へと向かえます。ミミはどんな世界へだって乗り込んでいけます。それはミミの自慢でした。

「人間じゃ、こうもうまくいかなかったわ」

 人間の世界は絶えず関係し合わないといけません。繋がって繋がって繋がって。勝手に繋がれて勝手にその糸を断ち切られるなんて、もう金輪際嫌でした。人間は深く関わるほどにその醜い部分が見えてくるものです。醜い部分しかなかったミミはどうしたら人に好かれるのでしょう。人間ではありませんから、人間社会に求められるような仕事はもちろんできませんし、ミミは変わらず役立たずでした。深く関わらなければいいのです。こちらから距離をとりつつ、ミミの悪いところがバレない距離で仲良くすればいいのです。

 ミミは人間と仲良くする方法を覚えました。好かれる方法もだんだん分かってきました。相手の需要に合った動き方をして、邪魔になる時はすっと姿を消せばいいのです。

「そろそろお暇させていただくわ」

 バンドウイルカになったミミは言いました。バカンスに来たカップルと泳いでいたのですが、二人は浮輪の上でキスをし始めたのです。本当のことを言うと、もうちょっと遊んでいたかったのですが仕方ありません。

「……ねえねえ」

 キュイー、とカップルに話しかけてみましたが、二人はもうミミのことなんて知りません。

「もうちょっとわたし、遊びたいなあ」

 男のほうがちらりとミミを一瞥しました。その目と言ったら。

「……やっぱり帰るわね」

 ミミは一声鳴くと、海に潜りました。悪かったわよ、と思いました。邪魔をする気はなかったのです。仲良くなりたかったのです。人間ならそう言葉で伝えられたのでしょうか。

 昔、書類を三百枚余分に印刷してしまった時にも同じ目を向けられました。他の生き物になったところでやっぱりミミは役立たずで、会社勤めをしていたときと何ら変わりません。


 海を渡って、陸に着いたミミはまた子ネコの姿になって公園をうろつきました。一番人間と仲良くなりやすいのがこの姿でした。雨の季節でした。しとしと、ぽたぽた。小さな雫がぽつりぽつりと柔らかい黒毛を湿らせます。とっても冷たい気持ちになりました。雨の公園に人間なんて一人もいませんでした。

 にゃあん、ミミは泣きました。にゃあん、にゃあん、にゃあん。どうしてこうもうまくいかないのでしょう。ミミは役立たずですから、何にもできません。それでも、人に好かれたいと思ってしまいました。

「何でそんなに鳴いてるの?」

 ふと前を見ると、黒い髪の毛の男の子が立っていました。傘もさしていません。

「泣いたら悪いの?」

 ミミは泣きながら言いました。

「どうしてそんな姿をしているの?」

 男の子はミミの足にそっと触れました。泥がついています。

「人間の姿で泣き続けていたら、いつまで泣いてるのって鬱陶しがられるからよ! お魚は川の中だから誰にも泣いてる事がバレないし、鳥や猫なら泣いていたって美しいし可愛いじゃない!」

「ああもう、そんなに鳴かないで。ご近所さんがびっくりするよ」

「うるさい泣きたくてこんな姿になったんだから泣かせてよ!」

 男の子はあたふたしました。ミミはにゃあにゃあ泣いてフウウと毛を逆立てました。

 ミミは泣きたいときに泣きたかったのです。迷惑に思われるのが嫌で、役立たずに思われたくなくて、負の感情を押さえていたらいつの間にかこうなっていたのです。距離を置いてやり取りをするのはとっても楽でした。でも、ふと欲を出したとき、それでうまくいくはずがありませんでした。

「どうせあなただって邪魔者扱いするんでしょ! あっち行け!」

「いててっ」

 ミミは男の子の手をひっかきました。男の子はびっくりするあまり尻もちをつきました。黒いズボンに泥が跳ねました。

「あ、ご、ごめん……」

 ミミがそう言い切る前に、男の子は走ってどこかへ行ってしまいました。いつの間にか土砂降りになっていました。最悪でした。ミミはまた泣き始めました。

「待って、待って」

 傷つけるつもりはなかったのです。ミミじゃなくて、あちらのタイミングで触れられるのは久しぶりでした。距離感が分かりませんでした。心の準備が出来ていませんでした。

「ごめんなさい。ごめんなさい、待ってください」

 ミミはうす暗い空に叫びました。本当の気持ちを叫びました。だけど人間の言葉じゃありません。もう、気持ちは誰にも伝わりません。走って呼び止めたい。でもそんなに早く走れません。人間じゃなくなって、人間と距離をとって生きていくことを決めたのはミミなのに。

「役立たずでも、誰かに好きになってほしいよう、仲良くしてほしいよう、ずっと大切にされたいよう」

 にゃあん、にゃあん、にゃあん。どうしてこうもうまくいかないのでしょう。自分から権利を放棄したくせに。本当に仲良くしたいと思ったときに、手も足も出ません。ミミはいくじなしです。

「こら」

 ふわりと抱き上げられました。さっきの男の子でした。暖かい手のひらでした。

「そんなに鳴いたら、捨てネコだって言われて保健所に連れていかれるよ。ちょっと後ろから様子を見て抱き上げようと思ってたのに、そんな悲しそうに鳴くから」

 くすくすと笑いました。ミミにとっては大問題だったのですが。

「な、何よ」

「まあでも、雨はたくさん降ってるから、きみがたくさんないてもきっと誰にもバレないし、迷惑もかけないね」

 好きなようにしたら。男の子はそう言って笑いました。

「近くにいるぼくには全部分かるんだけど」

「う、うるさい」

「きみは可愛いやつだなあ」

 男の子はおもしろそうに言いました。人懐っこい瞳がミミを見て細くなりました。目を細める姿が、こんなに素敵な男の子は初めて見ました。暖かでほっとするような、そんな笑みでした。

「きみの爪はなかなかだなあ。痛かったけどまたやるっていうなら受けて立つよ」

「うう」

「おいで、一緒に行こうよ。雨が止まないうちにどこかへ行ってしまおう」

 ミミはとうとうその男の子の腕の中で、泣くのをやめました。そして、その腕の中で一生のお願いをしました。

 ――ああ、どうかこの雨が止みませんように。ずっとずっと、できれば一生止みませんように。

 公園の雨が止むころ、一匹と一人はもうどこにもいませんでした。緑の木々からぽたりぽたりと雫が零れ落ちます。灰色の雲は流れ、いつもどこかでは雨が降っています。


 ミミが人間から他の生き物に姿を変えたように、雨も姿を変えて一生止むことはありませんでした。雨が大好きでした。ミミは姿形を変えたところでやっぱり役立たずのままでした。だけど、役立たずのミミは、そのままのミミでずっと愛されて、それからを一生幸せに過ごしたそうです。世界でもめったにない、小さな幸せの物語です。

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役立たずのミミ 七野青葉 @nananoaoba

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