浅い夜想曲
七野青葉
浅い夜想曲
二月。遠い雪解けを誘うように、決まって細い雨が降り始める。僕が音楽室に忍び込む雨の朝、彼女はいつもピアノを弾いていた。
「やあ」
彼女は顔を上げてにこりと笑った。器用なことに、彼女は話しながらピアノを弾くのが得意だった。透き通る音は止まない。変イ長調で始まる冴えわたる冷音は、僕の心をつかんだまま、ずっとはなさない。
僕が雨の朝、最初に音楽室に訪れた理由は、本当にただの暇つぶしだった。雨の日は混むから、いつもより二便早いバスに揺られた。窓を流れ落ちる水滴は、灰色に見える。校庭へと続くアスファルトは冷え切っていた。まだうす暗い、夜の続きのような空の下。僕は読みかけの本を鞄にしまい、マフラーを口元まで引き上げる。
あいさつをかわす程度の関係のクラスメイトと顔を合わせるのが急に億劫になり、思いつくままに三階へ向かう。音楽室で、さっきの続きを読もう。そう思った。幸いにも僕が所属していた吹奏楽部は「週二程度の同好会のようなもの」だったので、朝練習をするような熱心な生徒もいない。音楽室の前に並んだ上履き入れ、右端三番目。そこに部員用の鍵が入っているはずなのに――ない。と、いうことは誰かが使っているのか。
僕は、そっと扉を開ける。
どっと清らかな旋律が、冷たい水のように、許可なく僕の心に流れ込む。きょとんとした、黒い瞳が僕を捉えた。僕は、何て言えばいいかも分からずに、沈黙に気まずくなるのも嫌で、ただ口をぱくぱくさせた。
「その……それ、なんていう曲?」
「ショパンの、ノクターンだよ」
ふ、と花のような柔らかい笑みが降って来た。
彼女は、隣の隣のクラスの生徒だった。部活にも入っていないし、共通点は皆無だ。だから、彼女と言葉をかわすのは、雨の朝だけだった。
「どうして、こんなところに?」
「ピアノが弾きたかったから」
見たままに分かることを答える。よく鍵を見つけたねと言うと、「あんな分かりやすいところ」と可笑しそうに僕を見た。清潔そうな黒髪は肩のあたりでさらさら揺れた。学年ですぐに名前が挙がるような華やかなタイプではなかったけれど、大きくて涼しげな目もとが、やけに印象に残る。僕はそれを素直にきれいだと思った。
「これは、サティの夜想曲第三番」
「ふうん」
僕はピアノに詳しくない。不思議な曲だ。明るいのか、暗いのか、よく分からない。なのに、心地良い。何となく、月の上を闊歩するのを想像した。
僕が音楽室へ行くたびに、彼女は一曲だけ、新しい曲を教えてくれた。大抵、あとに残るのは、雨音の聞こえる沈黙だけだった。ピアノのすぐ傍、申し訳程度に点けたストーブの赤が時々ちろちろ光る。僕は、本を読んだり、時には彼女の隣でピアノを教わったりした。
「サティの夜想曲第三番か」
僕は口に出してタイトルを言ってみる。その日の帰り、近くのCDショップに寄ってみた。
彼女の教室をこっそりのぞいてみることが何度かあった。彼女は、人の落としたプリントを拾って、愛想よく笑うくらいのことはしていた。けれど、それ以外の時間は窓際の席で一人、空をぼんやりと見つめて過ごしているようだった。当たり前のように、周りの生徒も、自分のコミュニティ以外の人間のことには、関心をもっていない。水槽の中を行き交いする金魚みたいだった。
「一人で、寂しくないの?」
ある雨の朝、しとやかな音楽室にて。僕はおもしろ可笑しく尋ねてみた。
「寂しくないよ。……きみだって、教室で一人読書してるじゃない」
「……読書は、他者との対話だよ」
「いや、自己だね。お互い様」
彼女はめずらしく、にやりとした。意外と、そんな表情もするらしい。
僕とこんな風に話すことが出来るなら、クラスメイトと話すのもたやすいだろうに。そう言うと、
「きみは私の話を、本の中の物語を眺めるような距離で聞いてくれる。発した言葉を、そのままの意味で受け取ってくれる。それが私には心地良いんだよ」
「へえ……。じゃあ、何か語ってみてよ」
「そんな大したものじゃないけれど」
彼女はにっこりと笑った。
「教室は、牢獄です」
澄んだ声は続ける。
牢獄の生活は、地獄です。逃げ出すこともままならずに、何を考えているかも分からない不気味な囚人たちと暮らす。そんな中で一人でいたって、みんなでいたって結局は一緒なの。
「だから、私は多分寂しくないの。それに、きみがいるから充分」
彼女は目を伏せてピアノに指をそっと落とした。そんなことも言うのかと、僕は少しだけ驚いた。
「これは、フォーレの夜想曲第十一番」
彼女が弾くのは、決まって夜想曲だ。僕はもう夜想曲がまとめられたCDをもっていた。いつしか、彼女の音楽は、彼女の様々な一面を見せるようになっていた。
かろやかなメロディーが僕たちを包み込む。雨の日は、窓を閉め切っている。だから、この世界は誰にも邪魔をされることのない、二人だけの優しい世界だ。
だけど、果たして、そうなのだろうか。本当に、大切な一人にさえ認められれば、僕たちは幸せに生きていけるのだろうか? 僕は隣に座って、端の低音をいじる。ほとんど手遊びだ。彼女はまた、くすくす笑った。
「……下手だねえ」
余計なお世話だよ。
隣にある青白い手は肉がほとんどなくて、こんなに折れそうな手首をしていただろうかと首をかしげた。
「人を殺しているの」
ある日、白い横顔がそっと呟いた。三月。春を待つ雨が小さな木の芽を濡らす。その日の彼女は、何か質がいつもと違っているように感じた。鍵盤を踊る指先が、荒々しく押し寄せる波の調べを生む。僕が隣に座っていることを忘れて、食らいつくようにピアノを弾いた。僕は何も言わなかった。どういうことかも、何を言えばいいのかも、分からなかったから。
「殺しているの。私を傷つけた人、うわさをする人、助けてはくれない人を、何度も何度も」
「そう……」
僕は、それだけ言った。
黙って話を聞いているうちに、きっとそれはピアノのことなのだろうと分かった。
彼女は俯いていた。ピアノの音が流れ続ける中で、それにかき消されそうな小さな声が、どうしてこんなに悲痛に聞こえるんだろう。人が怖い。恐怖を音に閉じ込めてるの。でも、いつかそれすらも、ピアノじゃ抑えきれなくなったら、どうしよう。
「いつか、どうしてここにいるのって、きみは訊いたよね。何も言えないから、ここにいるの。……誰かに何かを言う勇気がないから、ピアノを弾くの」
そこまで言うと、彼女はうなだれた。青白い指が動きを止めて、圧倒されるような旋律が、ぴたりと止んだ。虚ろな瞳は、鍵盤の白と黒とを映している。彼女の落とした沈黙が、浅い暗がりでぴんと張りつめていた。
ふいに彼女はさっと顔を上げた。そして、取り繕うように、笑顔を向けた。
「……ごめん。急にびっくりしたね。物騒だよね」
それが、僕にはとても痛々しいものに見えて、
「やめろよ、無理に笑うことないよ。大丈夫だよ、僕らは、二人でいたら、きっと何もかも」
大抵の大丈夫なんて所詮、祈りか願いだ。僕は自分をずるいと思う。本当はきっと、何も大丈夫じゃない。僕はただ聞くことしかできず、ただ物語を眺めることしかできない。それでも、彼女は照れくさそうに、そして嬉しそうに笑った。もしかしたら、お愛想だったのかもしれない。でも、ありがとうという小さな声が聞こえた。
「……私、本当はね。ずっと待ってた――誰かが、見つけ出してくれることを」
そして、彼女はもう一度ピアノを弾き出した。彼女の薄い指が、なめらかに鍵盤を這った。ぽーん、ぽーん。さっきまで弾いていた同じ曲が、まるで異なる甘さを含む。
その時僕はふと、決して触れることなく隣に座る彼女の体温を意識した。鼓動が、どくどく、耳元がやけにうるさい。うす青の暗がりには、誰もいない。鳥さえ鳴かない静かな靄の中は、みながまだ眠っている、夜の続きだ。彼女のひっそりとした吐息が落ちた。
「あのね……これは、リストの、愛の夢っていう曲」
「知ってるよ」
僕の声は小さく消えた。愛の夢、第三番だ。
ほとんど同じ高さにある彼女の瞳が、きらりと揺れた。白い肌が、窓をすべる露をうつして、さらに透明色になった。彼女の面持ちから、緊張しているのが、分かった。一体、何に対して?
僕の手は震えていて、彼女の肩も震えていた。細い首筋に触れた瞬間、鍵盤に置かれた彼女の指が、少し、動く。零れるような音は、「愛の夢第三番」の始まりに似ていた。その曲に用いられている詩は――「愛しうる限り愛せ」。
ああ、――今だけ。今だけ、どうか、目を閉じてほしい。柔らかな頬に手をあてると、彼女は目を伏せた。
僕らは、そのとき、孤独の中で何かを探していたのかもしれない。誰かが自分を必要としているという甘い幸福の味を、舐めていた。けれど、果して――。そして、学年の終わり。木々が一斉に芽吹き始めた頃、雨は降らなくなって、その日がやって来た。
彼女は教室で暴れて、クラスメイトに怪我を負わせた。
それが、僕の耳に入った頃には、彼女の親が早々に彼女を連れて帰っていた。僕は食べかけのお弁当をそのままに、席を立った。お昼休みの廊下は騒がしく、それも異常なほどの、目には見えない好奇心に突き動かされた人だかりだった。隣の隣の教室まで、憮然とした顔つきで、足早に歩いた。
――まさか、突然泣きわめいて暴れ出すなんて思わなかった。
一人の女子生徒の声がうしろから聞こえて来た。教室に入る角の前で、生徒の波ががやがやしていた。
――ちょっと自分の悪口が聞こえたからって、ねえ……。
――停学になるかもってさ。ちょっと前から変な子だと思ってた。
僕は足を進める。後から後から、押し殺した興味の声が湧いては消える。呼吸はいつの間にか、軽く乱れていた。
着くなり、僕は周りを見渡した。彼女の教室には、妙な沈黙とさざめきがあった。いくつかの机と椅子が、投げ出され、中から教科書や筆記用具が散っていた。
誰の良心にも触れられることのない、寂しさがあった。
――悩んでたなら、話くらいいくらでも聞いたのにね。でも、一人が好きだったみたいだし……。
「やめろよ!」
何を。お前らに、一体彼女の何が分かるんだ。
僕は、気づいたら叫んでいた。人前で大声を出すのも、周りの視線をこんなに浴びるのも、初めてだった。
無関心が好奇心に変わるのを見た。『教室は、牢獄です』そう笑った彼女の、やるせない顔が浮かんだ。
「やめろよ……」
声が掠れていた。なぜだか分からないのに、涙が一筋、力なく垂れて来た。
彼女がいなくなって初めて、彼女のことを語る人が、この教室に、学校に一体何人いるんだろう。僕はその一人になりたくなくて、唇を噛んだまま、教室を出た。階段を上り音楽室に向かって走り出す。
僕は彼女を語ったりしない。僕は走って走って、血がにじむほど唇を噛んで、音楽室のドアを開けて、ピアノの下に倒れこんだ。
言葉じゃなくて、音楽で自分を表現することしかできなかった、優しくて弱いだけの彼女。彼女の物語が、誰に知られることもなく、他の人の言葉で飾られて、この場所から消えていく――。
少しして、彼女が少し遠くの高校へ転校することにしたと耳にした。
ある日僕は、一回り小さくなった彼女と、雨の降る早朝に、靴箱で会った。僕をずっと待っていたようだった。
「ごめん。もうここへは来れない……」
彼女の瞳から、静かな涙が溢れ出した。僕は、何も言えずに、ただ彼女を抱きしめた。
「やっぱり、僕らは寂しすぎたんだ」
ピアノに恐怖を閉じ込めて生きていると告白されたあの日。僕は、彼女の生き方を、なんて弱くて、なんて寂しい生き方だろうと思った。
僕が教室で叫んだあの日。あんなにも悲痛な気持ちになりながらも、周りの視線に汗が滲んだ。周りから異端とされることの恐ろしさや悲しさの可能性を一瞬で察知し、危惧した。
たった一人に肯定されていれば、それだけでずっと幸せなんて、そんなことはなかった。誰にも理解されずに、嫌われることを恐れて閉じこもっているなんて、寂しすぎたんだ。
孤独を愛したのではなく、ただ人と関わることを憧れながらも恐れただけの、弱い僕ら。
「ちがうって言いたかっただけなの。でも気がついたら、目の前が真っ白になってて、それで……」
彼女は、声を上げて泣き出した。
変イ長調で始まる冴えわたる冷音。僕は、それに心踊らされる。僕は、少しだけ、ピアノが上手くなった。右手だけのメロディーが、乾いた音楽室に響く。彼女は、確かにここで、何も言えない臆病さを湛えたまま、静かに笑って、旋律を奏でていた。部屋は、いつもと変わらず、浅い夜のように青かった。
だけど、彼女は二度と、ここには来ない。僕は、やっぱり悲しくなってきて、一度だけ彼女の名前を呼んでみた。
みんなの眠る夜の続きのような、静かな世界のことを想う。
震えた声はどこにも届かなくて、ぽーん、ぽーん、と僕の触れるピアノの音だけが、春の風にのって、静かに響いていた。白いカーテンが、ふわり、揺れている。
浅い夜想曲 七野青葉 @nananoaoba
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