死霊術師外伝 いつかのノエルとサン・二コラ

 今年はルーウォーの森にも雪が積もった。たいてい夜の間にちらりと降って日中すっきり融けてしまうのが常だったが、この冬は何十年に一度の大寒波とやらで気温が上がりきらない日が続いていた。もともと森ということもあって日光は少ないが、そこに温度がないとどうなるか。その結果が、一面の銀世界だ。

 いまはもう記憶の彼方、ノエルが──レオン・アルベーゼが、四歳の年のことである。


 あまりにも肌寒いので、いつもの寝起きの悪さもこの冬は縁遠い。手早く着替えを済ませて部屋を後にしたノエルが廊下の窓のカーテンを捲って外を覗くと、ぼんやりともやのかかる窓越しの朝はまだはっきりと白かった。

「おはよう、レオン。今日も早いな」

「あ、おはようございます、おとう様」

 背後からかけられた声にレオンはぴょんと振り向いて、軽く一礼をする。父は欠伸混じりに会釈を返して「今年の月光草はもう駄目だろうね」と呟いた。

 わりに寒さや暗さに強い植物ではあるが、完全に雪に埋まってしまうことはとても想定されていない。幼い身ではあるものの、このごろ覚えることといえば死霊術か園芸かのどちらかであったから、ノエルにもそれは十分理解できた。

「残念ですね……。そうだ、今年のサンタさんは、きっとあたたかさを持ってきてくれますよ、きっと」

「あたたかさ?」

 父は窓に貼りついた霜を恨めしそうに眺める。

「はい! 今年は、もう少し暖かい冬をお願いしようと思います」

「それは……まあ、いいとは思うが、いまから暖かくなっても、草花は戻らないと思うぞ、私は。普通に、おまえの好きなものを頼めばいい」

「でもぼくは、ぼくだけが嬉しいよりも、みんな一緒に嬉しいほうがいいです」

「……そうか。立派だな。しかし、さすがにぼんやりとした『あたたかさ』というのは、サンタさんも困るんじゃないか」

「それも、そうですね……去年は杖が欲しいと書いたら指揮棒が来ましたし……」

「……」

 だって、まともな杖は普通に凶器だ。

 そんな父の胸中を知るべくもなく、サンタさんは鈍感だと結論づけたレオンは、ぱたぱたと階下に降りていく。

「どこか行くのか」

「何度気温が上がれば雪が融けるのか、調べて来ます。サンタさんに明確に伝えないと!」

「……朝ごはんは食べてから行きなさい。それと、庭の外には行かないように」

「はーい」

 陽気な返事を残してキッチンに駆けたレオンは、ロールパンをふたつ手に取ると、片方を口にくわえて、息白む銀雪の世界に駆け出した。


「とは、いったものの、です」

 ざくざくと処女雪を踏み荒しながら、レオンはむむむと腕を組む。ロールパンを一個と半分口の中に放り込んでも、具体的にどうやって調べるのかがまったく浮かんでこないのだった。

「暖かい……暖かいって何ですか? 火は……アツイ、ですよね。あ、スープはあたたかい。あたたかいです、間違いありません。この森をスープにしましょう。……はっ。スープの作り方を知りませんね。知らないですよ」

 うーん、と唸りながらパンの最後のひとかけらを嚥下して、冷たいベンチから腰を上げる。

「仕方ありませんね。いつものあれをするしかないですね、そう思います」

 レオンは腰に吊った小さなホルダーから掌大の金属棒を取り出して、きちきちと先を引き出した。件の指揮棒つえである。

「あー、う、うんっ」小さく咳払い。

「ぼくはぼくです。きみはぼくですが、ぼくはきみではありません。きみがきみであるためには、きみはぼくでない必要がありますから、そのようにあらわしなさい」

 がちん、と世界がひび割れ、形而の一線を越え、井戸の海水が流出、ゆらゆらと揺らめきながら次第に人形ひとがたの影へと収束していく。

「スープってどうやってつくるんですか?」

「■■■■ ■■ ■■■■■■■■ ■■■」

「なるほど。ありがとうございます。スープをつくるには火がいるんですか。……つまり、アツイはあたたかいに落ちていくんですね」

 ならあたたかいは……ぬるい? ぬるいはつめたい。つめたいはさむいです。

「あたたかいがさむいに落ちるなら、さむいはあたたかいまで上げられるということですね。それなら話は簡単でした。サンタさんに頼むまでもありませんよ」

 ふたたび指揮棒を振る。

「さむい ■■■ ■■■ ■■■■■……」

 この世ならざる言語を用いて紡ぎ出されるまじないは、禍々しくもどこか美しい。あるいは美しいと断じてしまわなければ、そこに思考の余地を挟んでしまえば、瞬く間に壊れてしまうような。

 全にして一なるもの。一にして全なるもの。

 海底階梯けるもの。

「っぷしっ!」

 が、レオンはあくまで現世の人間、それも子供である。寒ければくしゃみだってする。

「──あ」

 そして途切れた災厄は不完全な形となって表出する。

 淀みは白雪を喰らい、あとには不自然に途切れた足跡だけが残された。


「──はっ」

 ここは? 暗い。ただただ闇。夜よりも暗い、しかし黒という概念ではない──闇が。闇がどこまでも広がっている。

 開いて閉じた自分の手のひらも現世の色彩とはどこか違う。グレースケールに近いが、完全に白黒ではない。スペクトル外の不明な色味が混ざっている。

「ここは……“海”ですね。きっと」

 直感的にそう理解する。母なる井戸の内なのだ。

「それも、底に程近いな」

 そのときしゃらんと鈴の鳴る音がして、レオンの目の前に壮年の男性が現れた。

「あなたは現象ですか?」

「思念体……の、ようなものだ。ある意味では現象とも言える。しかし私のことはどうでもいいのだ、おまえどうして……どうやってこんなところに来てしまったのだ。いやそれすらも二の次か。ここは奴の領域の直中だ。せめて第四圈まで上がらなければ」

「……あ! わかりました、わかりましたよ。あなたはサンタさんですね? 鈴の音も聞こえました」

「鈴……ああ……いや、私はサンタではない。ただの──」

「あのですね、ぼく今年は“暖かい冬”をお願いしようと思っていたんです。でも自分でもできそうなのでこれはいりませんね。さむいはあたたかいに上げられますから。じゃあ、えっと、えっとー」

「はあ? ……待て、それは、海水を通じて事象を回帰させようとしたと、そういうことではないだろうな」

「かいきって何ですか?」

「あー……いや……状況からしてそうなんだろう。できれば否定してほしかったが……いや、あるいはこれは僥倖かもしれん」

「えっと?」

「ひとまず、お前は井戸に通じすぎている。子供の純粋さ故のものかもしれんが、それだけでもあるまい。来るべきときまでその経路は封じておく。繋がっているということは繋がれているということだからな、何かと危険だ」

「えっと、えっと? よくわかりません……」

「……分からずとも良い。分からずついでに伝えるが、おそらくお前が鍵だ。この塞がれた五百年の檻を破り、翼を天におくるための。そのときまで、月はきっと白くあろう」

「月……月は……白いでしたかしら……?」

「……やはり、視えすぎているな。とりあえず、お前のその力はしばらく預かっておく」

 こつん、と額に押し当てられた手が、何か青白いものを引き抜いていく。と同時に理解した。それは記憶だ。“力”に関するすべての記憶。

「ぼくの、力を? だめですよ、いけませんよ、そうしたら暖かい冬が……」言いかけて、レオンは一度口を閉じた。「ああ、そうですよ、サンタさん。それならぼくの代わりに冬を暖かくしてください。雪がほどよく降るくらいに」

「……はぁ。仕方のない子だ。……やっておくから、早く帰りなさい。それと……親を大事に。世に永遠などないのだから」

「わあ、ありがとうございます! 安心です!」

「……では、いずれまた。それまで健やかに生きなさい」

「はい!」


 束の間の出会いは、これにて終わり。

 あり得ないはずだった来訪はふたつの意思に認められ、脈動は力強く加速する。

 海の底にせめぎあう紅白の月は、いまだ昇らず。

 ──ただ、ひとつ。

 次の日の空は嘘のように快晴で、雪をすっかり融かしてしまった。雪崩がいくつか起こったが、そのどれもが明らかにおかしな方向に──人に一切の危害のないように流れていたという。

 レオンは無邪気にそれを喜んだ。

 掌の中には書きかけの手紙があった。


 サンタさん、冬をあたたかくしてください。具体的には、


 ああ、サンタさんは思っていたよりも勘がいい。

 会ったこともない彼だが、きっと優しそうな顔をしているだろう。

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チタン合金の徒花(短編集) 郡冷蔵 @icestick

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