赦し、赦される日 Extra Story 2 グッバイ・カーディナル
セルビアは聖なる血を宿している。
それは彼女が聖女カルメンの血を引いているからだ、ということまでは分かったものの、ならばそれをどう普通の血に戻すのか、という部分は、アーシェラを普通の人間に戻すくらい見当のつかないことだった。
「もういいのだよ」
セルビアは次第に老いていく。アーシェラたちを置いていく。
分かっていたつもりだった。しかし、彼女の顔にしわが出来て、次第に腰が曲がってきて、筋力が衰えて……ついに自分一人ではその身体すら起こせなくなったとき、アーシェラは彼女を見ていられなくなった。
「どうして」
しわがれた声に、ひとつも変わらず凛々しい声が返される。
いま危地に瀕しているのがセルビアのほうなのは明らかだというのに、その感情に切迫めいたものが見えるのは、アーシェラのほうだけだった。
弱々しい笑顔でセルビアは告げる。
「私は人間だからだ」
「……私は悪魔だ! 永遠だ……どうして別れなくちゃならない? 絶対にセラを死なせない方法を見つける」
聖なる血は悪魔へ抵抗する。それが今こんな形で二人の障害になろとは、思ってもみなかった。
いくらアーシェラやヴェルセディの血を注いだとしても、セルビアだけは悪魔にはなれないのだ。
「無駄だ。そんなものはない」
「セラは私たちといるのが嫌だって言うのか!?」
残酷な問いだった。答えは明らかで、ただセルビアを、そしてアーシェラ自身を傷つけるだけの問いだった。ぱっと身を翻して、アーシェラはセルビアの寝室を後にする。
「ごめん……分かってる。でも、諦めたくない……セラを失いたくない……」
涙を零す紅紫色の影に、セルビアは悲しそうな顔をするだけだった。
不老不死を求めてアーシェラは世界を巡った。
南欧にそれらしきものがあると聞けば悪魔の脚力で砂漠を一夜に踏破して、遠く北国にそれらしきものがあると聞けば雪山を駆け登った。それでもそのどこにも不死などなかった。
「なあ、アーシェラ。彼女らは定命の存在だ。永遠の不死なんてボクたち二人しかいないんだよ」
海底神殿を調べつくして濡れ鼠のアーシェラに、ヴェルセディがそっと寄り添って砂浜に腰を下ろした。
「……嫌だ」
「わかるよ。それでも君、それをやってしまったら、昔のボクとおんなじじゃないか。きっと、カルメンがそれを望まなかったように、セルビアだってそれを望んでいないよ」
「嫌だ……分かってるのに、嫌なんだ……」
ヴェルセディが肩を竦めて立ち上がる。
「帰ろう」
「嫌だ。不死を、私は見つけるんだ」
「……なら、仕方ない。」
ヴェルセディが掌を噛み切ると、溢れ出した血は槍の形に凝縮していく。
ぎょっとして立ち上がったアーシェラの鼻先に赤い穂先を突きつけて、ヴェルセディは冷たく笑った。
「力づくでも連れて帰ろう。もう見ていられない」
騎士としての戦闘本能がアーシェラの足を動かした。開いた彼我の距離をのんびりと眺めるヴェルセディ。その瞳は、本気の色が宿っている。脅しなどではない。それを理解して、アーシェラもまた血を喰らった。
「まだ、ここで立ち止まるわけにはいかないんだッ!」
りゃいん、と剣が鳴いた。血剣を扱うのは久方ぶりだが、相も変わらず手に生暖かい感触を返す曲刀は赤く鋭く滑らかだ。対するヴェルセディも血で練り上げた槍をくるくると弄んでいる。
「立ち止まっているのは君だ。どうして歩き出さない」
その言葉を否定するように、アーシェラが翔んだ。
空中の不利というものがある。少し考えれば解ることだが、地に足を着けていなくては踏ん張りが効かないし、咄嗟に回避運動を行うこともできない。攻撃に関しても、軌道が非常に読み易く、あえて足を離すことにメリットはほとんどない。
ただそれは常人の戦闘においての話だ。
アーシェラは剣をぐっと大上段に引き上げると、その場で一閃。剣の表面を濡らしていた血が広範囲に撒き散らされた、次の瞬間。一滴一滴から茨に似た蔓状のトゲが花火のように開花し、ヴェルセディへと殺到する。
ヴェルセディもそれは十分知っていた。
アーシェラの飛翔に応じるようにヴェルセディは地に己の槍を突き刺すと、ゆっくりと柄を撫で──地を割った。否、地に亀裂が走るように、ヴェルセディを中心とした放射状に血の防御壁が展開されたのだ。茨は何重もの壁に阻まれ失速、やがて力なくしおれていく。
その顛末を確かめることも厭って、アーシェラは赤い壁の上へと足を着けた。ヴェルセディの干渉で足元から何重にも赤い槍が生えてくるが、それをむしろ総身で受け止め、接着点から逆干渉を行う。
「無茶苦茶するね」
次の動きは知っていた。
血の所有権が再びヴェルセディに移り、足元にちくりと棘の刺さる感触。そしてそれはアーシェラの身体を巡り、十分に行き渡ったところで破壊を発芽するだろう。そもそも棘花火はヴェルセディの技だ。本家大本となれば、そのような細かな制動もアーシェラにはまるで届かぬ境地に達している。
ただ、知っていたゆえ対処も行っていた。要は血を抜けばいい。
アーシェラは左の手首を断ち切ると、どぼどぼと蛇口のように血を吐き出す肉の断面に強く意識を向け、再生の代わりに新たな器官を生成する。血剣をそのまま腕にすげたような、赤い刃のアタッチメントだ。確かどこぞの海賊船長は似たような形でフックを付けていた。彼と違うのは、アーシェラの刃はアーシェラとして生きているということだ。身体から流れ込む血をそこだけで循環させるようにつくってある。
毒は狙い通りそこに停滞し、ずぞんと棘が爆発したときには、ただ刃が鋸刃のように細かな歯を持っただけに終わる。そしてその歪な左腕と右の長刀と、二刀をもってアーシェラは反撃に転じた。
右は技。アーシェラ本来の聖銀流に、この五百年で興亡を重ねた様々な流派の技が込められている。音もなく影もなく、その鋭さはまさしく技巧の極致。人としての最強の刃がそこにある。
対する左は力。ポリープの如くグロテスクに隆起した太い身は、アーシェラのすさまじい膂力をダイレクトに反映し、一度振るたびにびゅうびゅうと風を砕いて叫んでいる。刀というよりもはや槌に近い、圧倒的な破壊力。悪魔としての災厄の具現がそこにある。
ヴェルセディは流石の卓越した槍裁きで数合それを凌いでいたが、すぐに限界に達し、完全な対処よりも堅実な対処を取った。左の防御すら許さぬ一撃必殺を回避することを第一に、右の刃は無理せずいなしていく。それはヴェルセディの肌に幾筋もの傷を描いたが、それでも肉は断たれない。やがてアーシェラのほうのスタミナが切れかかり、やや速度を減じていた左の剛腕を、ヴェルセディは針に通すような正確無比な一撃をもって、力強く下方へと打ち据えた。
大きく体勢を崩し前へと倒れるアーシェラ、その喉元へと第二の煌きが滑り込む。
間一髪のところではね上げた刀が槍の横刃を差し止め、交錯したままぎちぎちと一歩も譲らず揺れ動く。本来力ではアーシェラに分があるはずだが、完全に構えが崩れたアーシェラと、それを見下ろすように自然体で振り下ろしたヴェルセディとではそれを埋めて余りある優位差があった。左右への揺れが激しくなるほど、刃はアーシェラの首元へと近づいていく。
そこにだめ押しとばかりにヴェルセディが権能を使用した。槍の穂先に僅かな動き、そして直後、アーシェラの喉元で棘が弾けた。
回避も防御もままならず、鋼よりも硬い血のクラスターはアーシェラの身を紙のように貫通。肺や喉にもいくつも穴が空き、呼気が漏れてひゅうひゅうと音がしていた。さらに傷跡から第二干渉が発生し、塩を刷り込むように細かい棘が傷口をなぶる。そして、意識がそちらに揺れると、次には止めきれなくなった槍が胸元へと突き刺さる。傷を広げるようにぐじぐじと抉る手つきが何ともいやらしい。
「……ぐ、っ!」
流出した血を睨み、権能を使用。茨のやぶがアーシェラを守るように顕現し、ヴェルセディは槍を手放して一目散に離脱した。赤い槍を掴み己の血として取り込むが、傷の再生の分、収支は明らかにマイナスだ。
荒い息を上げるアーシェラを、ヴェルセディが嘲笑った。
「負けを認めるかい」
「……いいや。まだだとも」
呼吸を整えて立ち上がる。少しでも血を戻せるよう、左腕を元の形に返しつつ。
「だよね。キミはいつも諦めが悪いから。そういうところが好きなんだ」
ヴェルセディは指先から再び槍を取り出し、弧を描くように大きく構えを取った。
「でも、今回に限っては、その諦めの悪さは嫌いだな」
「黙れッ!」
アーシェラは超高速でヴェルセディに肉薄、血を振りまきながら、一息に刃を何度も振るう。やや後退ぎみの歩みで、ヴェルセディは刃の軌跡に槍を合わせた。絡み合う刀と槍、火花の代わりに散る血しぶきが細かな刃の雨となって注ぎ、互いの身体に細かな傷を作っていく。
だがもう少し。次第にヴェルセディは手数で押されつつある。もう少し、あと少し──。
「
「ッ!」
細かに刻まれた
アーシェラは己から芽生えた茨に四肢を戒められ、砂浜に倒れ伏した。
もがけばもがくほど棘が食い込むだけで、まるで抜け出せない。
「ボクの勝ちだね。今回は」
「これを、剥がせ! 私は──っ」
ヴェルセディの槍がアーシェラの脊髄を穿ち、紅色の瞳から意志が消えた。
「当然だよ。いつだって勝利するのは正しいほうだ。今回は君が間違えた」
さざめく波が一度二度と寄せては返す。
しかし三度目の波が起こったとき、そこにはもうアーシェラたちの姿はなかった。
「ッ」
「……おはよう、アーシェラ。気分はどうだ」
「猊下……?」
そこにかつての麗しい女枢機卿の姿を幻視して、ついかつての敬称が口を衝いた。
「お前はいまでも私の騎士だが、私はとうに枢機卿ではないよ」
おぼろげな夢は立ち消えて、やせ細ったセルビアの姿が重なるように現れる。
そこでようやく自分の顛末を思い出した。
「私は、ヴェルセディに……」
「ああそうだ。彼女には感謝せねばならないな。この一ヶ月は実に寂しいものだった」
「……でも、不死がないと……」
「そんなものはない。言っただろう。そんなものはないのだよ、我が騎士」
優しい指先が頬を撫でる。一瞬遅れてそこに涙が伝った。
「それに、あったとしてもいるものか」
「どうして……?」
「私は人間だからだよ。お前を愛した人間だ。私が悪魔になってしまっては、お前、お前を理解した人間が一人もいないということになるじゃないか。そうすれば私たちはただの悪魔だろう。ただ同族が身を寄せ合っただけの集合だ。それではいけない。逆説的に、お前はこれから他の誰にも理解されなくなってしまう。悪魔はもう他にいないのだから。お前が赦される日を、お前自身に失わせてしまう」
「セラがいればそれでいい! それでいいのに……他の誰かに理解される必要なんてない!」
「それではお前は本当に永遠に変わらないものになってしまうぞ。死なないことは生きていることにはならない。私はお前に生きて欲しい。千変万化する人生を謳歌してほしい」
「生きる……」
思えば、悪魔に堕ちてからこれまで、生きようとして生きてきたことがあっただろうか?
ただ目の前のことに反射的に行動を返しているだけではなかったか。
「でも、セラがいない生なんて」
「私に代わる誰かを見つけたまえ。この世界にはお前を理解できる人間が必ずいる。それが、私からの最後の命令だ。ここに剣を返還しよう」
アーシェラは目を見開いた。開いたそばから涙が後から後から流れてくる。
これで終わりなのだ。これはひとつの終わりなのだ。
「そして、これは私からの最後の
「……どんなことでも」
「あと少し、私に赦されたあと少しの日を、一緒に過ごしてはくれないか」
……ああ。
この一か月寂しかった。
かけられたその言葉の意味を、アーシェラは正しく理解した。
ただでさえ短いその月日を、他ならぬアーシェラが縮めていたのだ。
長らえさせようなどとなんとも腹立たしい。アーシェラはその重みを認め、そしてこれからの日々にせめてその一か月の空白分のことを込めようと誓った。
それからたくさんの日を三人で過ごした。そのどれも誰もが笑顔だった。
そして、アーシェラが騎士を外れたあの日から、九か月と二日。
晴れ渡る春の陽気の下。
セルビア・ヴェグナンチカの葬式は、聖都にて、厳かに執り行われた。
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