二度目の冬の話

星野よる

バレンタイン

 ちく、たく。規則的なリズムを刻む秒針の先を見つめる。どきん、どきん。いつもよりも大きく、はっきりと感じる自分の鼓動は、速まったり波打ったり、不規則だった。


 昼休みの後、ストーブの熱で十分にあたたまった教室では、隣や、前、斜め前に座っている生徒、みんな意識がおぼつかないようで頭を左右にゆらゆらさせていたり、ひどい者は机に突っ伏していたり。始業のチャイムが鳴るまでの、あのざわついた空気はどこへ行ったというのだろう。


 二月の第二火曜日、世に言うバレンタインデイ――かくいうわたしだって、今日でなければ、ノートに蛇行した赤や青を残しているはずだ。だけど今日は――きっと、初めてだ。こんなにも意識がはっきりした状態で短針が二に重なるのを見たのは。


 あと、二時間。二時間後には、わたしは。





 あの笑顔を、わたしに向けてくれないかなあ。そんな風に思ったのは、もういつのことだっただろうか。あの手に、ゆびに、わたしのそれを重ねられたなら。そんな想像をした後は、どうしようもなく悲しくなった。あの背中を、支えたいなあ。言葉になったその感情を、わたしはずっと知っていた。

 

 こっちを向かない笑顔と、届かない手。だけど、背中は。支えたいと願った背中はいつでもそこにあった。


 たとえ、わたしに向かなかったとしても。そう思うようになった頃だと思う。わたしが、今日のことを考えるようになったのは。


 机の横にかけてある大きな袋の中には、たった一つだけ、小奇麗なちいさめの紙袋が入っている。朝、家を出る前には友人たちに渡す用の小袋に埋もれていたのに、もう何も、それを隠すものはない。


 こぢんまりとしたカップと、焼きあがったときの甘い匂いを思い出した。口を閉じるのに、透明なフィルムパックにピンクのシールを貼るときの指のふるえがよみがえってきた。紙袋の隅でひっそりと息をひそめている、店頭で三十分も迷って決めた、アニマル柄のレターセットの便せんを、何枚むだにしたことだろう。なんだって上手くはいかなかった。上手くはいかなかったけれど、どうしてかあの人を前にした自分のことは想像ができた。





〝明日の放課後、第四講義室で待っています〟昨日の二十一時頃に送ったメッセージ。三十分後に了解を意味するかわいらしいスタンプがひとつ、返ってきた。あの人のお気に入りのキャラクターのそれを見たことも、もうきっと数えきれない。


 初めて会ったのは、ふたつ前の春。体育館に足を踏み入れたときは、コートの中でボールを追いかけるあの人のことは、特別気になってはいなかったはずだった。五月、六月、七月と重ねていく日々のなか、わたしの目にひときわきらめいて映り込んだのは、ずいぶんと日が短くなった時期だったように思う。部活帰りの寒空の下、ひとりで思い出すことはいつも同じだった。


 月が綺麗だと、星が瞬いていると、息が白いと伝えたくなるひとはいつだってひとりだけだった。好きだなあ、と。呟いた想いに涙がにじんだころには、もう桜は散り、葉が茂るような季節になっていた。


 そうだ、きっとその頃だった。いくらなんでも早すぎる、十か月も先のことだというのに。そう思いながらも、浮かんできた甘いチョコレイトの香をふりはらえなかった。





 水を張って温めた鍋に浮かしたボウルの中でチョコレイトがやわらかくなる。かたまりはみるみる小さくなって、ボウルをすべるように木べらの先端を踊らせた。十分にとろけた独特の匂いを、もともと用意してあったマーマレードをはさんだチョコレイトケーキに丁寧にまとわせていく。なめらかなチョコレイトはわたしの想いをも、大切に、包んでくれているような気さえしたのだ。届くことはないだろう、この想いを。


 あの人の中で、わたしはただの部活のマネージャーだ。あの人の、あの人たちの背中を支えているわたしは、わたしたちは、〝たち〟でしかないのだ、と。なんとなくそう思うようになったのも、記憶に新しいことではない。もちろんそれだけで幸せだし、これからもわたしたちは、でいいのだ。


 だけど、その気持ちとはうらはらに、伝えたい、と。その感情だけが先走っていた。伝えるだけなら、そっと、伝えてしまうだけならば。関係が変わることを望むわけではないのだから、と葛藤を重ねて、わたしはわたしを赦した。わたしのバレンタインデイはやってきたのだ。





 最後の授業の終了のチャイムを、いつもよりも深い鐘の音に感じた。胸のあたりでどくどくとうるさい心臓は、わたしそのものだと思った。全身で、自分のこころを叫ぶような鼓動は、緊張と、不安と、恋情とが入り混じって、目頭を熱くさせる。こらえて、こらえろ、わたし。


 机の横にかけてある想いの結晶をそっとさらって、誰にも気づかれないように教室を出た。ゆっくりと、自分の足が地についているのか確かめながら歩く。気持ちとともに足が進む。高まる。早まる。


 第四講義室に着いたときには、すっかり息が上がってしまっていた。まだ、あの人は来ていない。すう、息をゆっくり吸い込んだ。はあ、そのままゆっくりと吐き出した。手がふるえた。足もふるえている。らしくないなあ、本当に。今からわたしの、一番の願いが叶うというのに。世界一すきなひとに、世界一伝えたかったことを伝えられるわたしは、いまから世界一幸せな女の子になれるのだ。


 笑顔も、怒った顔も、走っていく背中も、どんな表情も、どんな姿も、思い浮かんだあの人のことはすべて、好きだと思った。これから、今思い浮かばないあの人を知った先にだって、わたしはきっと抱く感情に、今日と同じ二文字の名前を付ける。


 ドアが開く音がした。はじかれたように振り向いたら、思い出したままの笑顔で、大好きなひとが照れくさそうに片手をあげた。

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二度目の冬の話 星野よる @starnight_blue

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