11.光は音、音は雪【完】

 ひと呼吸ののち、部屋の呼び鈴を鳴らす音で目が覚める。こんな早くに迷惑なと思ったが窓から外を覗くとすっかり明るくなっていた。

 ベッドから起きて居間をのぞくとウィルとスネイクの姿はなかった。そのあいだも呼び鈴はしつこく鳴らされ続けている。誰と呼びかけても返事がない。クロウは起き抜けの姿のままドアを開けた。

「あんまり出てこないから呼び鈴が壊れてるのかと思った」

 顔をあわせるなり仏頂面でそう言ったのは、稽古場にいた背の高い女だった。踵のあるブーツを履いているとはいえ視線の高さがクロウとほとんど変わらない。彼女はクロウを上から下まで眺めてため息をついた。

「もう昼よ。姫王子ってずいぶんだらしないのね」

「ゆうべ遅かったんだよ」

「不規則な生活は声にも肌にも体力にも影響するのよ。その乱れを修正するためにかける労力なんて無駄以外のなにものでもない。それとも姫王子はぱっとどうにかできる魔法でも使えるの?」

「その……姫王子っていうのやめろ」

 女は何度かまばたきをしてから、きまり悪そうに顔をそらした。

「なら、なんて呼べばいいの」

「クロウだ。そっちは」

 凍りついた空のような青い瞳は見るものを射抜くようだった。

「サラ」

 名乗る声はよく澄んだ静かな湖のようで、クロウは彼女の心地いい歌声を思い出していた。

「それで、サラはなにをしにここへ?」

「子どものころからお世話になってる先生を通して、あなたの連れから頼まれたの。あなたに楽譜や音楽の基礎を教えてやってほしいって」

 昨夜のスネイクの言葉を思い出す。

「ああ、きみが」

「聞いてるなら話がはやいわ。とりあえずこれを読んでおいて」

 サラは手にさげていた鞄をクロウへ突きつけた。受けとるとずっしりと重い。なかには物々しいタイトルの分厚い本が何冊も入っていた。

「えっと……」

「それだけ読めば猿でもわかるから。じゃあ」

「待った、待った待った」

 クロウは立ち去ろうとするサラの前へ回り込んだ。サラはなかば睨むようにクロウを見つめ返す。

「まだなにか?」

「とりあえず立ち話も悪いし、うち上がってよ」

「男のひとり暮らしの部屋になんて嫌」

「ひとりじゃなくて三人暮らし」

「……家族と?」

「いや、他人同士の男ばっかり。いまいないけど」

「無理!」

 サラはひとつに束ねた長い髪を翻してクロウのわきをすり抜けていってしまう。クロウは階段をおりようとする彼女の背中に向かって言った。

「サラはその先生からこうしろって言われた?」

 渡された本のタイトルは古語で書かれていた。最終的には読めるようになるのが目標だが、それははたしていまなのだろうか。

「おれは学校へいったことがない。それでもどうにか読み書きができるのはうちで働いてくれてた人が教えてくれたから。学校ではみんなはこうやって勉強してるのかもしれないけど、いきなり本だけ渡されてもおれにはどうすればいいのかわからない」

 階段のなかばでサラは立ち止まる。

「同情しろって話?」

「そうは言ってない。おれはいまきみのやり方の正しさと、交渉する相手は誰なのかを確かめてる」

 しばらく押し黙ったまま背を向けていたサラだったが、クロウのもとまで階段をあがってきて鞄を奪い返した。

「先生には自分がしてもらったようにと言われた」

「それはこういうことなの?」

「ちがう! 先生はこんなことしない」

 思わず声を荒げたサラは、深呼吸をしてから観念したように口をひらいた。

「昨日、稽古場に残ってひとりで歌ってたでしょ。ごめんなさい、外で立ち聞きしてた」

「いや、別にいいけど……」

「わたし、あなたが許せないの」

 昨日はじめて会ったばかりの、ついさっきまで名前すら知らなかった相手からそこまで憎まれる覚えはクロウにはない。

「アカデミーも出ないで帝演へ来るなんてありえない。わたしがここまで来るのにどれだけ努力したか。友達と学校帰りにおしゃべりしたり、旅行したりするのも我慢して、家族からたくさん援助をしてもらって、そうやってようやくたどり着けた場所なの。それなのに、古語も楽譜も読めない、なにも知らないあなたが姫王子なんてもてはやされて……」

 サラはほのかに色づく下唇を噛んだ。

「くやしかった」

 言葉にしても足りない悔しさが吐息になってこぼれてくる。

「あなたの歌を聞いた瞬間、嵐のなかに放り込まれたみたいだった。逃げ出したいのに、もうこわいくらいなのに、どうしても足が動かなかった。もっと、もっと聴いていたいって」

 クロウは昨夜の寝苦しいほどの悔しさを思い返す。

「おれも昨日悔しかった。楽譜のことがなにもわからなくても、きみの歌の正しさは伝わってきたから。自分の歌がいかにいい加減なのか思い知らされた。だから知りたい、教えてほしい」

 頭をさげてじっとサラの返事を待つ。視界には両手で鞄を持つサラの白い手があった。その指にぎゅっと力がこもる。

「誰かに教えた経験なんてないけど、たぶんわたし厳しいと思う。それでも平気?」

「大丈夫」

「一度でも弱音を吐いたらそれきりだから」

「わかった」

「ほんとに?」

 サラがしゃがんでクロウの顔をのぞきこんでくる。クロウはそのままの体勢でサラに微笑んだ。

「おれ約束は守るほうだよ」

「守る、ほう?」

「……守るよ」

「よし、じゃあこれはあなたが持ってること」

 サラは鞄をもう一度クロウへと差し出した。

「これはクロウの目標。アカデミーでは二年生からはじめることだけど、わたしたちは半年でたどり着こう。他の人とおなじだけの時間をかけてる余裕はないんだから」

「はい、先生」

 クロウは鞄を受け取った。中身が変わっているはずもないのに、先ほどよりもずしりと重くなっているように感じられた。

 サラは涼しげな眼差しを細める。

「そうと決まればクロウ、さっそくいまからはじめよう。一分一秒でも時間は惜しいんだから、はやく支度してきて」

「どこへ行くの」

「鍵盤のあるところ。とっておきの場所があるから、特別に連れていってあげる」

 そういってサラはもう歩き出してしまう。

「聞かせてクロウ、あなたの歌を」

 階段の向こう側へ消えていくサラのうしろ姿を見送りながら、クロウは胸にあふれる懐かしさに戸惑っていた。

『ねえクロウ、歌って』

 懐かしさは痛みにも似ていた。シャツの胸もとを握りしめてぐっとこらえる。奥にはたしかな喜びもあった。歌ってと乞われる喜びは一度知ってしまったら忘れられない。

 サラの足音がすっかり聞こえなくなる。クロウは鞄を置いてコートを引っ掴んでサラを追いかけた。



***



 レッスンからの帰り道、溶けだしてしまいそうな夕日が、街を、川を、そして対岸の十七区を赤く染めていた。

 となりを歩いていたサラが、紹介したい人がいるというので聖堂へと向かう。彼女の姉がカリヨン奏者をしているため立ち寄る機会も多く、クロウはサラとともに聖歌隊の活動にも参加していた。

 今日もまた鐘のうつくしい旋律が街に降る。その音色が冴え渡るほど、クロウの胸は小さく痛んだ。

 あの日、あの雨の夜に結べなかった約束が、いまも心で疼いている。

 忘れられないという苦しさと、いつか忘れてしまうかもしれない恐ろしさが交互にやってくる。その数秒を、息を殺してやりすごす。

 もう、あれから三年が経つというのに。

 もしもあのとき彼女を抱きしめていたなら、クロウはいまリリィとともに馬車に揺られて彼女の生まれ故郷を旅していたのだろうか。それとも間に合わず、結局は彼女を失っていたのだろうか。クロウには想像がつかない。

 カリヨンの演奏が続く聖堂は、それ自体が大きなひとつの鐘のように音が反響している。窓から差し込む夕日に照らされて、音色がきらきらと輝いているようだった。

 杭のような鍵盤の前には、こちらに背を向けてサラの姉が立っている。そのそばに見慣れない人影があった。車輪のついた椅子に座って、どこかぼんやりとした様子で演奏を眺めている。まだ若い女性のようだ。

 近づくにつれ、クロウはその横顔から目を逸せなくなった。

「リリィ……」

 まさかそんなはずはないと理性が心の手綱を強くひく。だがクロウはずっとあの横顔を見つめ続けてきたのだ。見間違えるはずがない。

 清浄な余韻を残して演奏が終わる。堂内には静かな拍手が響いた。姉さん、とサラが演奏台まで駆け寄っていく。クロウは女性のほうへと足を向けた。彼女の足もとに膝をついてしゃがみ、透き通るような白い肌を見上げる。クロウの視線に気づいて、彼女は不思議そうに首をかしげた。まるで知らない人のように。

 サラが、クロウと呼んで手招く。クロウは数歩後ろにいたサラのそばへ歩み寄る。

「彼女が紹介したい人?」

「そう。数年前の大雨の日に川岸で倒れているところをうちの父が見つけて救助したの。ずっと病院で暮らしていたのだけど、先週ようやく退院できたところ。しばらくは聖堂でお手伝いをするんですって。足にすこし後遺症は残ったけれど、日常生活を送るぶんには大丈夫だって先生が」

「そうなんだ」

「……ただ、記憶がね、流れ着くまでの彼女自身に関する記憶が一切抜け落ちてしまっていて、こればかりは回復しなかったみたい。だから本当の名前がわからなくて」

「いまはどう呼んでるの」

「シンシア」

 サラの声に、呼ばれたと思って彼女が顔を向ける。おそらくサラが微笑んだのだろう、シンシアはやわらかく目を細めた。その笑顔に、クロウは思わず出かかった名前を飲み込む。

 椅子のそばにあらためてしゃがみこみ、クロウはぎこちない笑顔を浮かべた。

「はじめましてシンシア」

 声が、自分でもどうにもできないほど震えていた。

「ええ、はじめまして。あなたは?」

「おれはクロウ。サラと一緒に帝演で歌ってるんだ」

「まあ、それならサラみたいに歌が上手なのね」

 シンシアの顔がぱっと明るくなる。

「それはどうかな、おれはまだ勉強中だから」

「とても素敵な声だから、きっとうつくしい歌ね。ねえ、いま歌える? わたしあなたの歌が聴いてみたい」

 シンシアがクロウの手を取った。その手はかつての荒れた働き者の手ではなく、つるりと瑞々しいものだった。

『ねえクロウ、歌って』

 クロウの目からぽつりと涙がこぼれた。リリィ、と聞き取れないほど小さな息が洩れる。

「大丈夫? クロウ」

 おなじように膝をついて、サラがクロウの顔を覗き込んでくる。クロウは空いているほうの手で慌てて顔を拭った。

「ああ、ごめん。歌が聴きたいとか、うれしくて」

「気持ちはわかるよ」

 クロウはサラの気遣いに笑顔を返すと、シンシアの手を握り返した。

「聴いてほしい歌があるんだ。綿雲の唄っていうんだけど」

 堂内の燭台に火が灯る。窓の外には夜が広がりはじめていた。

 クロウの胸は震え、吸い込む息は砂糖菓子のように甘く、喜びが全身を覆っていた。紡ぐ歌声は祝福に満たされる。

 昔、彼女が教えてくれた雪の話を思い出す。雪が降るときのように、静かに歌に積もる思いがある。

 クロウはまっすぐシンシアの瞳を見つめた。

 次の幕が、あがった。



―おわり―

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午前零時のアリア 望月あん @border-sky

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