10.夜を想う(2)

「なんだ、もう終わりか」

 腕を組み、壁にもたれかかりながら、すこし笑ったようだった。

「スネイク……」

 クロウの鋭い視線もどこへやら、スネイクは断りもなく部屋へ入りクロウを追い越すと窓辺に置いてあった紅茶を飲んだ。

「おまえ、おれの酒を勝手に使ったな」

 あれは結構高いんだぞと笑うので、クロウは彼の手からカップを奪い取った。

「他にいうことがあるだろう」

 真正面から睨みつけるとスネイクはふいと顔をそらして、足もとの台本を拾った。

「おいスネイク、話を聞け」

「どうせ泣き言をいうだけだろう? くだらない。それならおまえの歌を聞かせてくれよ」

 スネイクは拾った台本をひらいてクロウへ渡した。それはさきほどテーブルから持ってきた、かつてスネイクが書き、演じた台本だ。

「誰だおまえ」

 その声はスネイクのものでありながらスネイクではなかった。すぐに台本の台詞なのだと気づく。クロウは渡された台本に目を落とし、書かれた台詞を読む。

「この顔に覚えがあるはずだ」

 ト書きに従いスネイクとの距離を詰め、続く台詞を言う。

「覚えがないとは言わせない」

「おまえ、まさか。いやでも、だってあの男はおれが……」

「そうだ。おまえが殺した」

 クロウはスネイクの胸ぐらを掴んで、床とベッドを見比べてからベッドのほうへ押し倒した。

「おれは息子だ」

 スネイクの上に馬乗りになったクロウは体をかがめて、ぐっと顔を近づけた。

「よく見ろ、これがおまえが殺した男の顔だ」

「やめてくれ……、あのときは、あのときはああするしか仕方なかったんだ」

「殺すしか仕方がないような、そんな状況があるものか」

「ふたりがかりで押さえつけられたんじゃあ、どうしようもないだろう……? やらなきゃ、おれが殺されるところだった」

 縋りついてくるスネイクの手を払いのけてクロウは殴るふりをする。

「醜い言い逃れだな。それなら金を盗む間は惜しまなかったのか。……結局おまえはただ無力で卑しい人間だ。自分の行いを認めることすらできないなんて救いがたい。仕方がなかったというならば、すぐに出頭すべきだった。罪を認め、贖う。それができない限りおまえは誰に殺されても文句をいえる立場にはない」

 クロウはスネイクの首を両手でふわりと掴んだ。

「つまりおまえにおれの行為を咎めることはできない」

「なに、を……」

 スネイクはもがく手つきをしながら、クロウの手に自分の手を重ねて、上からみずからの首を絞める。

「スネイク」

「ト書きにあるとおりにやれ」

「でも」

「おれに苛ついてたんじゃないのか。ウィルから聞いたよ。古典を渡されて話が違うと思ったろ」

 スネイクの手にさらに力がこもる。クロウは痛みに顔を歪めた。

「やめてくれ、スネイク」

「おれが嘘をついたと思ったか」

 スネイクの声は息苦しそうに掠れていた。クロウが黙っているとスネイクは楽しそうに目を細める。

「思ったらしいな」

「嘘とは思ってない。ただ、話は通ってるはずなのにって」

「おなじことだろ。まあ、そもそも話なんて通してないけどな」

「なんだって?」

 クロウは力任せにスネイクの手を振りほどいて、胸ぐらを掴んで引っ張りあげた。

「どういうことだスネイク」

「満たされて行き届いた世界なんて、つまらないだろう?」

「なんの話だ」

「満たされなくて、思い通りにならなくて、だけど手に入れたくてもがいて。そのほうがおまえの歌は血が通う。おそらく帝演のやつらはそれを否定するだろう。芸術性が低いというだろう。それはいまだけだ。おまえが楽譜を読めるようになって、音楽に忠実になったとき、あいつらはかならずおまえの歌の前にひざまずく」

「また適当なこと言って……」

 呆れたクロウは持っていた台本を投げつけてスネイクの上からおりた。だが音楽に忠実にというスネイクの言葉は気になった。昼間稽古場にいた背の高い女を思い出す。地に足のついた、安定感のある歌声は、聞いていて心地よかった。

 クロウが望むと望まざるとにかかわらず人はクロウを十七区の象徴として見るだろう。自分が至らないばかりに十七区の文化まで貶められることだけは絶対に避けたかった。また、灰猫歌劇場へ通ってくれた客につまらない歌うたいになったと失望されたくもなかった。どちらにせよいまさら十七区へ帰る道はない。

「だったらスネイク、明日からでも楽譜のことを教えてくれよ」

「は? なんでおれが」

「はあ? じゃあどうしろと……」

 安心しろ、と頬を強くつねられる。

「とっておきの先生を用意してある。楽しみにしておけ」

 ひらひらと手を振ってスネイクは居間へ戻っていった。歌が聞こえてくる。先ほどの芝居の最後の曲だ。スネイクの歌声はどこか乾いていて懐かしく、ベッドへ体を横たえると眠気で溶けてしまいそうになる。クロウはそっと目を閉じた。

 聖堂の鐘が鳴る。午前四時の鐘だった。

 この部屋が込み入った路地にあるせいだろう。ヘヴンにいたころに比べて鐘の音は濁って聞こえる。

 瞼の裏には目には見えない思い出たちがよぎった。

 夢はもう見なかった。

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