9.夜を想う(1)

 浅い眠りから、諦めるようにして目覚める。

 息をとめて眠っていたのかと疑うほど胸が苦しい。眠る前から続く悔しさがいまもまだからだ中を蝕んでいる。クロウは荒い呼吸を繰り返して両手で顔を覆った。

 帝演に誘われたのは初夏だった。何度かの交渉を経て契約にいたり、灰猫歌劇場での最終公演を盛大に行ってから晩秋には一区へ移ってきた。いまはスネイクとウィルの三人で暮らしている。

 ヘヴンでの大所帯しか知らないクロウにとって、少人数での暮らしは拍子抜けするほど静かなものだった。誰かのシャツを勝手に着てもけんかにならないし、風呂の順番で揉めることもない。散らかしたところでたかがしれているし、手の空いてる人が片付ければいいという。スネイクとウィルがクロウよりずっと大人で、どちらも身の回りのことをそつなくこなすこともあるだろう。はじめこそ緊張したものの、ほんの半月ほどですっかり馴染んでしまった。もはやむかしの生活には戻れそうにない。それでもときおり女たちとの賑やかな日々が懐かしく思い出されることもあった。クロウは彼女たちの息子であり、弟であり、恋人だった。

 暗いなかを手さぐりで起き出してキッチンで湯を沸かす。沸騰するまでのあいだ、対のソファで眠るスネイクとウィルの寝顔を眺めた。穏やかな寝息を繰り返すウィルと違ってスネイクは死んだように静かに眠る。毛布をしっかり被っているのに寒そうに背中を丸めていた。起きているときと比べて表情に乏しく、整った顔立ちもあいまって作り物めいていた。

 テーブルに残っていた飲みさしの酒を紅茶に垂らし、山積みの台本と楽譜を抱えて部屋へ戻る。灯した明かりを窓辺に置いて椅子にかけた。膝のうえにのせた台本を無造作にひらくと、それはかつてただ一度リリィと観劇にいった物語だった。目を閉じればいまでもあの日のリリィと夜と青を思い浮かべることができる。昨日のことのように鮮明に。

 クロウは芝居の途中で寝てしまったことを思い出し、舞踏会よりあとの場面を読み進めた。

 ある女性と結婚した男は子どもに恵まれ、新たに手がけた事業も成功していた。しかし物事が順調であればあるほど男は不安を募らせ、やがてかつての夢を繰り返し見るようになった。夢をおそれるあまり眠ることができなくなり、酒に溺れ、食べることや笑うこともわからなくなる。あれは事故だったと何度いい聞かせても、いのちと幸福の手ざわりを知ってしまった男は罪悪感の虜囚となった。追い詰められるうち正気を失った彼は錯乱して妻と子を絞め殺し、仕事も財産もなにもかもを捨てて路傍へ帰る。そしてある雨の夜、殺した男の息子に襲われ命を落とすのだった。

 悲劇的な終幕にクロウは目を閉ざした。

 いのちまでも失うことになる物語の主人公と夢破れて十七区へ戻ってきたスネイクが重なって見えて、クロウはたまらない気持ちになる。

 クロウは部屋の隅の、明かりが届かない暗がりを見つめた。そこには数時間前クロウが投げ捨てた楽譜がある。拾いあげて明かりのそばで広げると悔しさがよみがえって喉を締めつけた。

 昨日、帝演の稽古にはじめて参加をした。噂の姫王子が歌うとあって別の稽古場にいた作曲家や役者たちが集まった。渡されたのは古典劇の台本と楽譜で、演出家はこのくらい知っているだろうと言って笑った。

 古典劇は難解な言葉遣いも多く娯楽性を重視する十七区では好まれなかった。クロウは当然その演目を聞いたことも見たこともない。これまでの二年の活動のなかで創作劇しか知らないことは事前の話し合いでスネイクが伝えているはずだった。古典を知らないということは歌や芝居の基礎を知らないということでもある。それでも帝演はクロウに来てほしいと言ったのだ。

 この演目はクロウに対する明らかな挑発で辱めだった。

 部屋の隅にいたウィルが出てこようとするのを視線で押しとどめた。いつもは穏やかな男が珍しく頬をこわばらせていたから、彼のことも深く傷つけてしまっただろうと思うと悔しくて情けなかった。

 演出家は稽古場にいたもう一人の役者をクロウの横に立たせてふたりで本読みをするよう言った。ガラス玉のように青い目をして、背が高く手足の長い女だった。彼女はクロウを一瞥したあと短く息を吸って、部屋の隅にまで届く静かな声で台詞を紡ぎはじめた。慌てて台本をひらくも古い文語体で書かれた見慣れない言葉ばかりで追いつかない。女の細い指が一行を指して教えてくれても読み方がわからない。女は奏でられるピアノにあわせて歌った。彼女の深みのある声がよく似合う鎮魂歌だった。

 クロウは楽譜が一切読めない。だが耳がいい。一度聞いた音楽は忘れない。

 ぬるくなった紅茶を飲み干してクロウはふわりと立ちあがる。深い夜の底で部屋はすっかり冷えきっていた。吐く息はほんのりと白い。そこへ歌を染み込ませる。


 友よ

 おなじいのちを分けあった兄弟よ

 ぼくたちの道に降り積もった清新は

 一面の銀世界にも劣りはしない

 願わくはきみとの夢を明日もまた

 すべては喪失の夜と寄る辺なき朝の

 そのあわいの露まぼろしと

 わるいことはなにも

 なにも……


 クロウは息継ぎをして、けれどもそこで歌を閉ざした。ドアのそばに人の気配がある。

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